162,耳奥に響く君の声
正しいことをしていると思っていた。世のため、人のため。悪人全てがいなくなれば、平和になるのだと。平穏に暮らせるのだと。
その『悪人』の定義ですら間違っていると、気づけたのは──
消えない。忘れられない。たとえ薄れていったのだとしても、この目が、鼻が、耳が、肌が、覚えている。薄らぼんやりとした空想ではなくて、曖昧な記憶だけではない。この身に刻まれた記憶として。
「──どこへ行く?」
だからその声が聞こえたとき、来たるべきときを迎えたのだと思った。
たとえばこの機会を千載一遇と呼ぶならば、決して逃してはならない瞬間だと。
「どこにも行かない」
行く必要がなくなった。
「ならば、なぜ歩く?」
「目的を果たすために」
もう、歩かずともいい。
「何を求める?」
「あんたを殺す」
途切れた質問。無言の時間がゆったりと横たわる。振られた水面で舞い上がり、揺蕩い、澱のように沈んで、消えはしない。横にどかさなければ、いつまでもそこに存在する。
必要なことは聞き出せたと、彼の沈黙が教えてくれる。もはや、問答は無用だと。
わざわざ確かめたいだなんてご苦労なことだ。知っても知らずとも、結末に違いはない。知っているなら、理由は理解はできるか。
彼は、知るためだけに質問したのではない。そんな殊勝な人間でないと、自分は知っている。
足を入れ替え、背中側にいた彼と対面した。
「殺される覚悟があって、ここに来たんじゃないのか?」
「なぜ私が?」
全く浮かびもしなかったと言いたげに。戸惑いもなく、純粋な疑問だけをその顔に描いて、彼は心の底から驚いていた。
「殺される? おまえに? なぜ私が殺されなければならない? 感謝こそされて然るべきだが、殺される謂われはない」
大仰で芝居がかった口調。舞台で演じる役者のように。わざとでも皮肉めいた態度でもないと、経験から知っている。
「あんたは、それだけのことをした」
わからないならば、教えてやればいい。この身に渦巻く、沸騰寸前の感情を。
「俺たちを唆し、口車に乗せて、あんたの思うがままに従わせた。あんたに従わなければ俺たちは生きていけないと、それがさも真実であるかのように吹聴して!」
「騙したなどと人聞きの悪い。私は、生きる術を教えただけだ」
「生きる術? 窃盗や脅迫、殺人を教唆することが、あんたのいう生きる術なのか? そんなものは生きる術じゃない。全て、あんたが直接手を下したくないがための汚れ仕事だろうが!」
そうしなければ生きていけないと、吹き込んだのは彼だった。
「だが、おまえは生き残った。私の教えを忠実に守ったからだろう? 何が間違っているというのだ? それとも、あのとき他に生き残れる方法があったというなら、是非ともご教授してもらいたいものだ」
ふむ、と頷いてみせ、彼は自らを示す。
「許したくないと言うならば、私を殺してみるか? おまえごときに殺せるものならな、ディア」
「──っ!」
仲間たちを助けられなかった。自分だけ、のうのうと生きながらえてしまった。
新たな名を与えられ、居場所を得て。向けられる優しさに、笑顔に、許された気がしていた。
全て、幻想に過ぎなかったのに。
歯を食いしばり、馬乗りになって絞めた首から笑い声が漏れる。小さくしゃがれていた声が徐々に大きくなって、狂ったように空間へと広がった。
「何が、おかしい……!」
「滑稽で惨めだな、ディア! 私の教えが、今私を殺すのに役立つとは!」
「それであんたを殺せるなら……感謝してやるよ!」
なんて、皮肉で笑える話か。
恨み続けた経験に、「感謝」するだなんて。
「そう、ディア。おまえは本当に惨めで、愚かで、可哀相だ」
「ふざっ……けるな……!」
彼に哀れまれる謂われなど、探すまでもなくどこにもない。なぜ憐憫の情を向けられなければならない。
「ふざけてなどいないさ──シェリック」
「──っ!?」
込めていた力が一気に抜ける。彼の口から、彼ではない声がした。
これは、彼ではないのか?
こちらの様子を見て、再び笑い声が上がる。先ほどとは比べものにならない高笑いが。彼の口から、今度は確かに彼の声で。
今聞いた声は? 彼の口から発された彼女の声は? どこへ消えた?
力を入れ続けることも、彼から離れることもできずにいた自分へ、彼はにやりと口角を上げる。
「ほらね、おまえは可哀相だ。私を殺すなんてできやしない。できもしないことを望むのではないよ。それはおまえにとって、不相応な望みだ」
「──黙れ」
首を絞められた体勢のまま、彼は懇切丁寧に教えてくれる。優しいと勘違いしてしまった、猫なで声で。
「おまえでは目的を達成できない。どれだけ技術が役立とうと、年を取ろうと、経験を得ようとも、おまえでは私を殺せない。殺すことなど、できやしない! ──なぜならおまえは、彼女を殺しかけてしまった自責の念を背負っているからだ。私を殺そうとする度に、彼女の面影がよぎるからだ」
「黙れ!」
「黙らんよ。私から離れることはできても、私の呪縛からは逃れることができなかったろう? 私の教えが、信念が、生き方が! 生涯おまえを縛りつけ、決して解けはしないだろう。今も、これから先も、おまえが生きている限り、私という束縛から逃げおおせることは叶わない!」
否定すればいい。違うと、ただひと言叫べばいい。口を開きかけた瞬間、自分へと尋ねる声がある。
本当に逃げられたのかと。彼の言うとおり、自分は逃げ切れていないのではないかと。もし本当に振り切れていたのなら、彼女を殺しかけるなんてしなかっただろう?
弓なりに歪んだ口が、耳にべったりとまとわりつく笑い声が、こびりついて離れない。
彼から手を離す。後退る自分を見て彼は半身を起こし、勝ち誇った笑みで言った。
「ディア、わかりきったことをこれ以上言わせないでくれ。おまえは傷つけるだけだ。おまえは、周囲の人間を不幸にするだけだ。おまえは殺すために生まれ、殺すために生きていかなければならない。なぜなら、私がそう仕込んだからだ。それ以外、おまえに価値はない」
追っていたはずの彼に、いつの間にか追われている。一歩、また一歩、自分はそこから逃げようとしている。
「血まみれのおまえの手では失うだけだ。おまえは何も成し得ない。つかめない。何ひとつ残らない」
彼の指が追いつく。自分に伸ばされる。持ち上げられた彼の指に、心臓を指し示される。
たかが指一本。凶器のひとつも持たない人差し指。それなのに、抜き身の刃を向けられたみたいに動けなかった。
「おまえには、誰も救えない」
彼の姿がぐにゃりと揺らぎ、下がっていた足が地面を踏み外す。伸ばした手は宙を切る。狭まった視界が暗転し、平衡感覚を取り戻す間もなく落ちていく。
こんなところで終わってしまうのか。彼との邂逅は。こんな、何もできない状態で。それほどまでに、意志薄弱だったのか。
ようやく届いたのに、こんな中途半端で。
「──っ!!」
湧き上がる怒りを持てあます。彼にぶつけきれなかった後悔と、自分の不甲斐なさに。息を詰める。頭を盛大にぶつけたのは、その直後だった。
「だ、大丈夫ですか!? 今、凄い音が……」
両手に抱えきれないほどの草を抱え込み、小柄な影が駆け込んできた。彼はファイクという名だっただろうか。持っていた草を足元に置き、気遣わしい声をかけてくる。
別の部屋で収穫している最中だったのだろう。邪魔してしまった。
「……悪い、大丈夫だ」
辛うじて座るところまで体勢を直せたが、できたのはそこまでが限界だった。
受け身すら取れなかったのが情けない。ファイクを呼び寄せる原因となってしまった如雨露と、金属製の容器を脇に寄せる。
「こんなところしか思いつかなくてすいません……もっと良い場所でかくまえれば良かったんですけど……」
「十分快適だ。ありがとう」
ひと目につかないよう、彼らが選んだのは、薬草園の片隅だった。薬師の見習い以外は滅多に人が来ない。たまに治療師見習いがやって来るが、薬師見習いがいなければ中までは入らないのだという。
隠れるのは最適かもしれないが、裏を返せば、すぐに彼らの仕業だと判明してしまう。シェリックは誰にも見つかってはならない。かくまってもらえるだけで十分だというのに、これ以上の贅沢を望んでは罰が当たってしまうだろう。
「その……まだ、見ますか?」
「ああ。こればかりは仕方ない。時間がかかると言われていたしな」
手を貸そうとした申し出を丁重に断り、シェリックは長椅子の下でそのまま座ることにした。
ファイクには、悪夢を見るとだけ伝えてある。
幻覚と幻聴、悪夢。シェリックを苛んでいるのは、今なおも縛りつける呪縛だ。いつ、どのように解けるのか、誰にもわからない。
絶えず追及してくる幻に、こちらが現実だと言い聞かせて。
「今はどうですか? 気分悪かったりはしないですか?」
「軽い頭痛と、吐き気はある。どっちも我慢できないほどじゃない」
「わかりました。そろそろ効果が切れる頃なので、鎮静剤を飲んでおきましょう」
「ああ」
彼が薬を用意し始めるのを見て、つい笑みがこぼれてしまう。
彼は驚くには驚いたが、初めの一瞬のみだった。職務に忠実に従って、最優先させる。その姿勢は、シェリックがよく知る彼女を被らせて。
──彼女は、生きている。亡くなってはいない。
どうしているだろう。怯えさせてしまった彼女は。レーシェに守られ、エリウスに治療されて、癒えたのだろうか。いや、たとえ外傷は癒えたとしても、内側につけた傷まではそう簡単に治せない。
一度だけ、彼女がどうしているかを訊いた。
酷い状態だったと。痛々しくて見ていられなかったと。それでもシェリックをどうにかしようと、彼女なりに反発していたと。
見えない枷。消えない罪。
それでもできることがあるというならば、シェリックは彼女に何をしてやれるだろう。