157,凍える悪夢は終わらずに
フィノがいなかった。訪れた時間が悪かったのかもしれない。席を外していたところにラスターが来てしまったから、フィノはいなかった。たまたまいなかっただけだ。留守にしていただけだ。
ざわつく胸は隠せているだろうか。走る心臓の音が聞こえやしないだろうか。すぐ隣にいるセーミャに、感知されはしないだろうか。
変なことを口走って無断に不安を煽りたくない。口にしなければ本物にはならない。形にならなければ、幻だったと笑って終わることができる。
噂をすれば影。言葉にしてしまえば呼び寄せる。だから、本当にはならないように口を閉ざす。想像だけでおしまいにする。
フィノにはフィノの事情がある。王宮で過ごす彼自身の時間があり、ラスターの過ごす時間とが重なったときに会える。今は重ならなかった、それだけのこと。なのに、形容しがたい焦りが湧き上がってくるのはどうしてだろう。
じっとしていられない。ラスターの内側を叩く鼓動に突き動かされる。
シェリックがいなくなったと聞いた、あのときからだ。ファイクが飛び込んできてからだ。慌てふためいたファイクの様子にあてられて、ラスターも落ち着かなくなっているのだ。誰も彼もいなくなってしまうような錯覚に陥っているだけ。波打つ心臓に急き立てられているだけ。きっと、それだけだ。
閉めた扉を背にして、消化しきれない思いを置き去りにする。無人の部屋に、そっと隠して。──本当は、置き去りにされたのはラスターなのかもしれない。みんなみんな、先へ行ってしまった。ラスターが追いつけないところまで。だから姿を消してしまった。前に向かえないラスターを顧みずに。
「ラスター」
優しく叩かれた肩。セーミャが指差したのは、進行方向とは逆の道。
「せっかくですし、薬草園寄っていきません? 少し前からヒザクラが咲き始めて、今ちょうど綺麗に見られますよ」
そういえば、香りが強い。レーシェの部屋を出たときよりも、芳香が放たれている。
もう、そんなに咲いているのか。この香りの強さから、そろそろそんな時期になるだろうとは思っていたのだが。
橙と黄色の花弁。小さな花をいくつもつける植物だ。花が咲いている時期にしか収穫できず、取り損ねたなら年を跨いで待たなければならない。
おしべが花弁よりも大きく、遠目にはとげとげとした触れがたい花だが、近づいてみたなら賑やかで可愛らしい花だ。素手で触っても問題はない。ひとつひとつは小さい花だけれど、一本の茎に数えきれないほどたくさんの花をつける。遠くから見ると、集まって咲いた花たちがひとつの大きな花に見えるのだ。
「うん……見たい」
今しか見ることができない期間限定の花。地上に開いた大輪を、見逃してしまうのはもったいないだろう。
「では──」
「セーミャ、かご!」
歩きかけたセーミャの服の裾を引っ張り、ラスターはすぐ傍にある薬室を指差した。
つんのめりながら立ち止まったセーミャへと、ラスターは急いで言葉を連ねた。
「ヒザクラは、ボクたちもよく使う薬草だ。治療室と薬室、どっちにも置いておけるくらいには収穫しておきたい。薬室にかごがあるし、そこから持っていこう」
どちらにも置いておくほどともなれば、摘む花も相当な量になる。そうでなくとも小さな花だ。摘むのも持ち運ぶのも、両手だけではこぼれてしまうに違いない。
「そうですね。では、お借りします」
「取ってくる」
ラスターは小走りで薬室へと向かう。押し開けた扉の先は、人こそいなかったものの馴染んだ空気が広がっていた。数日訪れていなかっただけなのに、もう懐かしい。
洗いかごに伏せられた硝子の器。土瓶。すりこぎにすり鉢。焜炉に置かれたまま放置されている鍋は、グレイが手がけている薬だろうか。ファイクと一緒にやろうと話していた黒焼きも、まだ実行していない。
──作りたい。
早くこの場に戻って、ファイクと作業をしたい。グレイが作る薬湯の味見をしたい。ナキに憎まれ口を叩かれながら教わりたい。レーシェを見習って手本にしたいことだって、まだまだたくさんある。
寸胴に似たふたつのかごを抱え、開け放したままだった薬室を出る。
「ひとつ持ちますよ」
「ありがとう」
セーミャからの申し出に、ラスターはかごをひとつ渡す。セーミャが受け取った、そのときだった。
「──あ、あの! セーミャ殿っすよね!?」
黒い外套を羽織った女性が、慌ただしく走り寄ってきたのは。
肩には届かないくらいの赤茶けた短髪をなびかせ、こめかみには汗をいくつか浮かせて。
ラスターもなんとなく会釈を交わす。実際に話したことはないが、彼女の顔は知っている。治療師を送る際、ユノと一緒に火の傍にいた人だ。となると、魔術師の見習いだろうか。
「アルセ殿、どうかされましたか?」
急いでいそうな彼女の様子に、ラスターは一歩を引いた。セーミャを名指しして呼んでいたから、ラスターの出る幕はなさそうだ。
「リディオル殿、どっかで見たりしてないすか? 昨日の朝、塔から出たっきり全然戻ってこないんすよ」
ひゅっと。
吸い込んだ息が途中で止まる。そこから奥へは進めず、入っていけない。ラスターはもう一度、息を吸った。
「長く空けるなら空けるで予め話してくれるんすけど、昨日は出かけてくるしか言ってなくて……」
嫌な符号を広げた彼女の言葉に、息を呑み込めずにいたラスターの気持ちを、どう表現するのが良かっただろう。ぶり返した予感が、忘れようとしていた不安が、ついて回る。完全に消せてはいなかったと。
「今日、ジルク殿からシェリック殿のことをお聞きしたんすけど、リディオル殿、助けに行かれたんじゃないかって思って」
咄嗟。上げそうになった声を、ラスターは喉で押し留める。首を押さえた手のひらから、血の流れる速さが伝わってくる。同時に手のひらから感じた温度に、ラスターは胸がいっぱいになった。
「すいません、セーミャ殿にお話ししても心配かけるだけなんすけど……」
「いえ。アルセ殿」
セーミャは彼女の両肩をつかみ、近づけた顔で彼女を覗き込む。
「リディオル殿も、シェリック殿も、大丈夫です。特にリディオル殿は、こちらの心配なんてものともせずに笑い飛ばすじゃありませんか。やられると凄く悔しいですけど」
くすりと笑い、セーミャの声がより柔らかくなる。
「なので、今できることをやりましょう? リディオル殿がふらっと戻ってきたときに、こちらから目にものを見せてやるんです。いつまでもやられてばかりのわたしたちではないということ、教えてあげましょう」
「……そうっすね」
セーミャにつられたのだろう。彼女はぎこちないながらも微笑んで見せた。弛緩した肩がゆっくりと下がる。今までの彼女は強張っていたのだと、ラスターにもはっきりとわかった。
きっと、気を張って探し回っていたのだろう。セーミャに話したことで安心したような、落ち着きを取り戻したような、そんな顔をしていた。
「セーミャ殿、ありがとうございましたっす。お恥ずかしいところを見せましたっす」
「いえ。今は皆さん敏感になっている頃ですし、アルセ殿がいつも以上に不安に思われているのも無理はないと思います。リディオル殿をどこかでお見かけしましたら、一刻も早く塔に戻るよう、お伝えしておきますね」
「そうしてくれるとありがたいっす」
勢いよく頭を下げて、彼女は早足で行ってしまう。
これからきっと、彼女は彼女のできることをしていくのだろう。いつリディオルが戻ってきてもいいように。
「リディオルも、いないんだ……」
じわりとにじみ出てくる。消したはずの染みが、忘れた頃に目に止まる。消えてなどいない。見えないところにあって、意識せずにいただけだ。
束の間の喜びさえもなかったことにされてしまうような、ひとつずつ取り上げられていくような、手に取った端から奪われていくような──
偶然ならいい。シェリックが姿を消したのも、フィノがいないのも、リディオルが戻ってこないのも。どうしてこんなときに。どうして同じような事態が重なるのだ。
最悪の状態がゆっくりと作り上げられているのではないか。ラスターが気づかなかっただけで、外枠は既にはめ込まれているのではないか。
足下から飲み込まれていく気配がすぐそこに迫っている。口を開いて待っている。同化していてちょっとやそっとでは見つけられない、不可視の落とし穴が。
彼らがいなくなったのは、目に見えない誰かのせいだ。そう断言できてしまえたら。不安を憎しみと怒りに変えて、声高に叫べたなら。向けるべく矛先が明確にあるなら、どんなにか楽だったろう。それを恨めばいいのだから。
「ラスター」
間近にあった顔に、一歩後退る。セーミャだと認識して、二歩目は退かずに済んだ。
「わたしはここにいます。ラスターの傍で、シェリック殿、フィノ殿やリディオル殿が見つかるまでいます。わたしだけでは、役不足でしょうか?」
前屈みになって、ラスターの目線と近くなって。決して口だけではないセーミャの気持ちが、真摯な眼差しから伝わってくる。
ラスターは唇を噛み、言いかけた言葉に蓋をする。
「──ううん、そんなコトない。ありがとう」
セーミャは眉尻を下げて身を起こした。
「ヒザクラ、一緒に摘みましょう?」
「うん──セーミャ」
不安だけではない。ラスターが胸を締めつけられた感情は、もうひとつあった。
「ボクね、さっき、ちょっと嬉しかったんだ」
なんて伝えよう。どう説明すれば伝えられるだろう。
「シェリックを気にかけてくれる人がいる。それを、周囲の人も知ってる。たったそれだけなんだケド、嬉しかったんだ」
「はい」
賢人が剥奪される。その処罰を知ってなお、気にかけてくれる人がいる。シェリックの居場所全てが失われたのではない。立場が変わっても変わらないものがある。
シェリックとリディオルは馴れ合いの関係ではない。互いに敵にも味方にもなったことを知っている。
彼らはお互いに旧友だと話しているけど、ラスターから見た二人の関係をひと言で表すのは難しい。
協力するときは手を取り合い、意見がわかれたときには敵対する。それは、お互いに譲れないものがあったからか。こうと決めたら一歩も引かない頑固さを、踏み入れてはならない一線を超えてしまったときの苛烈さを、ラスターは知っている。
友人だからといって、四六時中ともにいるわけではない。互いの全てを肯定しないし、否定もしない。なぜなら、二人とも違う人間で、異なる意見や信念を持っているからだ、だからぶつかり会うこともある。協調するときもある。
彼らはただ、体現しているだけではないか。
「ラスターがそうやって誰かを見ているように、他の方たちもその人たちを見ているんですよ、きっと」
「セーミャもだね」
「そうですね。見えているといいのですけど」
──いいんだよ。俺らはこのままで。
以前リディオルから言われた言葉はきっと、そういう意味だったのではないだろうか。