156,たとえば覚めぬ幻と
レーシェの部屋から鉱石学者たちの部屋まで向かうには、少し歩かなくてはならない。ここが薬室だったなら、すぐ隣に行けばいいだけだから楽だったのだけれど。
部屋から出ると、途端に匂いが変わる。清涼感のある香りは、ラスターもよく知っている。もう、ヒザクラが咲く時期なのかと。
この辺りに該当する花がないことは知っている。王宮をぐるりと半周した位置にある薬草園から、やってきたのだろう。香り自体は決して強くはないが、花粉が風で飛びやすいため、香りも一緒になって飛んでくるのだと言われている。苦手な者はくしゃみが止まらなくなる時期でもあるだろう。
知らぬ間に季節は着々と移り変わっている。数日ぶりに部屋を出たラスターが、すぐに気づいてしまうほどに。
ラスターは、セーミャの一歩うしろをついていく。かつんかつんと、歩く度に音が上から降ってくる。
ラスターが初めてこの廊下を歩いたときは、先が見えないほど広く、聞き慣れない反響音がして、とても居心地が悪かった。
今は、どうだろう。
あのときと変わらない景色で、変わらない音がするのに、何も感じなくなっている。
右へと回した首が、ラスターに門扉を見つけさせた。今は閉じられている鋼の柵。隙間から見える向こうには、高低差のあるアルティナの街を見下ろせる。
ラスターに背を向けている門番の二人は、いつもこの景色を見ているのだろう。王宮へやって来た者の用件を聞き、見定めて、門を開くか否かを判断する。そう、王宮に訪れる者は、あの門をくぐってやってくる。ラスターとて、例外ではなかった。シェリックとフィノと、三人で通り抜けてきた。
近いうちにラスターはもう一度、今度は反対にくぐって、ここを出ていかなければならないのだろう。口うるさく言われる頃はないが、レーシェはそう願っている。もうラスターを王宮にはいさせたくないと、シェリックの傍に近づけさせたくないと、そう思われているだろうから。
「ラスター、そこの右奥です」
突然かけられた声に、ラスターははっと我に返る。振り返ったセーミャが心配そうな顔をしているのを見て、慌てて笑って答えた。
「うん、ありがとう」
他の扉と比べても、違いがよくわからない。ラスターが以前来たときと同じだ。
「ここ?」
「はい、そうです」
「セーミャは、どう見分けてるの?」
看板もない。文字もない。扉に施されている意匠は、同じように見える。
近くで見ても見分けられないのに、セーミャはどうやって判別しているのか気になった。
「これです」
セーミャが上方に指を差す。
立体的に彫られた扉の一部。示されたのは、ちょうどラスターの頭の位置くらいにある高さの、模様だった。
「扉の造りはほとんど同じですけど、この部分だけは十二賢人それぞれを模した印が彫られているんです。鉱石学者は八角形で、鉱石を表しているんですよ」
言われてみれば、確かに八角形だ。
「ほんとだ」
「ちなみに治療室は聴診器の形をしています。わかりやすいでしょう?」
「うん」
となれば、十二部屋全て異なる印が彫られているのだろう。それは、是非とも見てみたい。使う頻度の多い薬室だが、どんな形があったかまでは覚えていない。何せ、見分ける方法を今知ったばかりなのだから。
薬を扱うから、植物だろうか。保存する瓶もありそうだ。乳鉢、茶匙、浮かぶ道具はどれもぴんとこない。
この扉が賢人それぞれを表しているなら──ひょっとして、占星術師は星なのだろうか。
握った手の甲で、ラスターは扉を叩く。扉から一歩退いて待つも、応答はない。
「聞こえてないのかな……」
以前訪れたときは、前掛けと手袋をしたフィノが出てきてくれた。もしかしたらまた作業中で、気づかなかっただけかもしれない。ラスターも、集中しすぎて周りから呆れられてしまった覚えがある。ファイクに目の前で手を振られたのは何度だったか。
今度は強めに叩き、またしばらく待つ。この音なら聞こえただろうか。しかし、やはり応答はなかった。
「留守でしょうか?」
ラスターは音を立てないよう取っ手を回す。もし中で集中しているなら、少しの音でも邪魔になってしまうかもしれない。
阻まれるかという予想に反して、取っ手はいとも簡単に回った。セーミャと顔を見合わせる。
「中にいます?」
「……フィノ?」
恐る恐る覗き込んだ部屋は、薬室並みに薄暗い。窓には幕がかかり、遮光されているからだ。誰かいそうな気配もしない。
薬室と造りが同じなら、入って左側に電源があるはずだ。手探りで探し当てた灯りの元を押すと、部屋全体がぱっと明るくなった。
壁際には、窮屈そうに並べられた棚。いくつもの鉱石が収められ、人口の光を受けて淡く輝いている。加工されたものから原石のまま置かれているものまで、一見しただけでもその種類は多岐にわたる。
整頓された中央の作業台。無駄なものは置かれず、それでいて整いすぎているわけでもない。作業に適した配置なのだろうと憶測する。ここに人がいないのがおかしいくらいだ。物体だけの空間。静まり返った室内。物音ひとつ聞こえて来やしない、ひんやりとした部屋。まるで、この部屋ごと眠りに就いていたように。
もしラスターだけでここに来ていたなら、入ることすら躊躇していたかもしれない。知らぬ部屋に一人では、踏み入れづらい空気がある。初めて来る部屋ならなおさらだ。勝手にその境を踏み越えてしまうことへの気まずさとでも言おうか。
鉱石学者の見習いが何人いるのか知らない。以前訪れたときには室内に別の人の姿もあったから、少なくともフィノ一人だけではないはずだ。
けれど、どうして誰もいないのだろう。ここにいた人たちは、どこに行ってしまったのか。
それとも、ラスターが見た人たちはたまたまこの部屋にいたたけで、鉱石学者の見習いではなかったのだろうか。
「いないみたいですね。採掘で出かけることも多いと聞きますし、今回は出直しましょうか」
「うん、そうだね……」
セーミャの提案に、一も二もなく賛成する。灯りを消し、名残り惜しく思いながら無人だった部屋をあとにする。
シェリックがいなくなった。フィノもいない。
ただの偶然だろう。偶さかに重なった機会だ。そうに、決まってる。似た状況が続いたから、関連づけてしまいそうになるだけだ。だからこれは、詰まりそうになる息苦しさが引き起こす、錯覚なのだ。
一人ずつ姿を消してしまっているような、そんな胸騒ぎがするなんて──きっと、気のせいだ。
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見つけた資料冊子をまとめて引っこ抜き、卓の端に重ねて上から順に頁をめくっていく。居合わせた者がその量に度肝を抜かれたような顔をしていたが、ナクルが顔を向けると一様にそそくさと顔を逸らされた。面と向かって訊いてくる度胸がないなら、初めから素知らぬふりをしてくれればいいものを。
主であるキーシャの言葉を借りるなら、「興味はあるけれど遠目に眺めるだけに留めたい」といった輩か。正直、ありがたくもなんともない。
気を取り直して、ナクルは資料たちと向き合う。ここ近年の治水工事。船舶の出入港記録。各地の農作物の収穫量。諸外国との外交記録。賢人たちの報告書。元見習いたちからの報告書。嘆願書。抗議書。許可書に委任状と、よくまあこれだけ集めたものだと感嘆する。
見づらいことこの上ない。手が空いたら種類をまとめようと密かに決める。
ひと口に記録といっても、開いた中身は多種多様だ。それも、一冊一冊が辞典や百科事典のように分厚いから、全てに目を通すのはなかなかに骨の折れる作業である。
わかっていながらも手をつけたのは、記録がここにしかないからだ。国王の姿が見えず、直接話は聞けない。私室へも無断で入るわけにはいかない今、国王が手がけた記録から足取りがたどれないかという当て推量だ。同じものを見たことで、国王と同じ考えに至れるとは到底思ってはいないが、近づくことはできるのではないか。
書庫にはアルティナ王国建国からの全ての記録が眠っていると言っても誇張ではない。記録だけではなく、国内外の知識も豊富に収められている。思考の迷路を彷徨っている者が、出口を求めてこの書庫を訪れたくなる気持ちも理解できる。ナクルの主であるキーシャも、何度この書庫に足を運んだことか。
悩める者にひらめきを。迷える者に活路を。この書庫は、人を導いてくれる灯台だ。
困ったときには書を調べることに没頭せよ、さすれば自ずと道は見えてくる。
嘘のような、本当の話である。
たとえ記録だけだったとしても、ただ経験を書き連ねた内容だったとしても、先人の言葉は侮れない。数字が、変遷が、事実と過程を物語る。推測を裏づけることだってあり、十分に証明となりうるのだ。ある人の経験が、別の誰かに全て該当しはしない。そこには、ひとつの真実があるだけだ。その真実が誰かにとっては偽であったとしても、その者の経験や言葉がなければ、偽という答えにたどりつかなかったかもしれない。
経験者は語る。そこにはひとつの答えがあり、他の誰かにとっては己に問いかける機会と、新たな答えを探すための証明となる。
ナクルは国王ではない。けれど国王の立場を、置かれた境遇を想像しながら眺めたなら、案外彼の足取りの一端でもつかめるのではないだろうか。そんな浅はかな考えがあった。
何か変わったところはないか。痕跡は。手がかりは。このときこの瞬間、国王は何を考えていたのか。何に目をつけて、何を目的として、これらの許可を下し、あるいは棄却したのか。
何を以て「そう」だと断言できるのかが難しい。あとからあれがそうだったのではないかと推測することはできる。それがどれだけ見当違いで、偶然に起きたできごとでしかないことだったとしても。
ひとつのできごとを線で結び、意味を関連づけたがるのは人の性だと言われている。わからないことを理解するのに、物語を作りたがるのだと。偶然に成功した話ではなく、必然的に成功へと至った過程の話が欲されるのだと。
偶然の産物などは必要とされない。偶然はあくまでも偶然であり、次には生かせないからだ。誰に説明しても納得のいく物語でなければ、到底理解が及ばないからだと。
ナクルにとってはどちらでもいい。偶然であろうと、必然であろうと、関係ない。引き起こされた結果が全てだ。ただ、キーシャやシャレルが安心して過ごせる場であればいいと。そのために彼女たちの前に立ち塞がる障害は排除し、憂いがあるのならば取り除く。ナクルがするのは、それだけだ。
頁を一枚めくり、文字を追っていた目がふ、と止まる。
輝石の島の記録。
あの島で悲劇が起きたのは何年前だったか。
蓋をしていた苦い記憶が甦り、ナクルの手をも止めさせる。渦巻いた感情に深呼吸をして追い出し、波立つ心をゆるゆると鎮めた。
あの事件があったから、ナクルはここにいる。
あの事件がなければ、ナクルはここにいなかった。
どちらも間違いではない。恨みはした。嘆きもした。打ちひしがれて、呪いもした。助けられた彼女に、差し出された手に、感謝をした。一生かけても恩を返すと誓った。
感情ひとつでどうとでも変えられるなら、そんなものはなくてもいい。ナクルは事実を追うだけだ。行動に余計な感情が伴えば、たやすくねじ曲げられるのだと知っているから。
人は脆い。甘言ひとつで信念すら揺るがされてしまう。ナクルはたったひとつ守れればそれでいい。この手で守れる、たったひとつを。シャレルから託された願いを。
ナクルはもう一度、読み進める。
何があろうと、どんなことが起きようと、ナクルはキーシャとシャレルのために動く。シャレルに誓ったあのときから、ナクルはそう決めている。