155,橙色の憧憬を
ユノは黙りこくったまま。それが降参の意志か、反撃の策謀か。
リディオルにも、企てられた策謀までは覗けない。口を閉ざされ、反応されなければ推し測ることすら難儀である。観念してくれたならそれでいい。ただ、ここで降参を示すほど弱い信念ではないはずだ。どちらにせよ、ユノにこれ以上は何もできないだろうけれど。
棚はどんなに少なく見積もっても大人一人以上の重量がある。魔術の使えないユノに、そこから一人で脱出するなど不可能に等しい。
さて、事情を知らぬ者が今ここにやってきたなら、果たしてどちらが正義で、どちらが悪に見えるだろう。正義とは都合のいい理由になり得る。自らが信じてやまない正義を掲げれば、道徳すらも狂わせ、悪さえも善の行動であると称賛される──してしまう。
ユノが持つ正義は、後者だ。正義を盾に己の願望を追求し、倫理を歪めてしまうほどの。
ころころと床を滑っていた一本が、ユノの傍までたどり着く。
手を伸ばせばつかめるだろう距離。ユノがそうしないのは、できないからだ。ユノの上に覆い被さっている棚が、身じろぎを取らせることも許さない。折れた杖を手に取ったところで、使えはしない。ないよりはましだと言えるかもしれないが、実用性は皆無だ。
リディオルは、ユノへと油断なく近づく。
安心しきれない。リディオルを見上げようとする目に、諦めの色は見いだせない。重さに耐えるようにしかめられているが、この状況を受け入れた顔ではない。動けずとも、何もできずとも、降参の意志はない。
ユノのその目が、まだ燻っている。虎視眈々と、機会を待っている。
「──殺さ、ないんですか」
大立ち回った反動と、全身を圧迫されているせいだろう。絶え絶えの息でユノは訊いてきた。
「んな物騒なことするかよ。俺はおまえに訊きたいことあんの」
殺人を勧告されても困る。
リディオルは膝を折り曲げた。この高さならば、ユノの視界にも入るだろう。
「なん……でしょうか」
リディオルは右手の親指で、自らの左肩を指した。
「ここ」
この仕草だけで通じるはずだ。
「自分でつけたのか?」
示したのは傷の箇所だ。リディオルではなく、ユノが襲われたときに負った、彼の怪我の位置。
「はい。それが……一番、手間がかかりませんでしたから」
かすれた声で、けれども流暢に答えられる。
自分で生み出した火を、自らの肩に押しつけて、重傷になるほどの火傷を作り出す。声は上げたのか。悲鳴を漏らさないよう歯を食いしばったのか。浮かんだ想像に、リディオルは口ごもった。
「おまえが傷つく必要はあったのか?」
「……必要がなければ、我が身を犠牲になんてしませんよ」
ユノが怪我を負って、リディオルが倒れて、騒がれていたあとにエリウスが殺された。周りの注意を、治療師に向けたくなかったためだと言えるかもしれない。
「嬢ちゃんやシェリックのことだけじゃなく、エリウス殿や他の賢人を殺したのもおまえだな?」
リディオルが尋ねると、ユノの口元が弓なりに変形した。
「──だったら、なんだって言うんです?」
違っていてほしかった、否定してくれれば良かった──そう考えるのは筋違いだろう。エリウスの一件がなかったとしても、ユノが人を傷つけ、王宮を混乱の最中に陥れたことは確かだ。その事実がなくなることはない。
エリウスと交わした最後の言葉を、託された約束を、セーミャの叫びを。リディオルは忘れてはならない。エリウスに託されたリディオルだからこそ──なんて考えるのは非常に不本意だが。
誰がエリウスを手にかけたのか。なぜ彼は殺されたのか。ここまで関わったリディオルには、答えを知る権利くらいあってもいいだろう。
それに、ユノと相対すると決めてここにいるのは、リディオルだ。
おおよそユノらしくなくても、全て受け止める。恨みごとも、憎まれごとも、全部。それが魔術師でありユノの先輩でもある、リディオルの役目だと。
問い詰めたい思いを忘れることに努める。冷静でなくてはならない。詰問しては、反発を食らうだけ。それが反撃に繋がらないと、どうして言えよう。
「あんなに外灯に熱心だったのは、実際に使われたら身動きが取りづらくなるからか?」
「……そう、ですよ。でも、その前に、あなたは魔術を封じられた。試験段階にすぎない今、あなたを排除するには、絶好の機会だったんです」
提唱した、灯りを使った警備。異常があれば灯りの色が変わり、特定の位置にある灯りが勝手に壊れるという細工を施していた。
「おまえがそうまでして賢人を殺したい理由は、追い詰められた原因はなんだ?」
「──白々しい」
ユノは苦々しく吐き捨てた。
「兄を、知っているなら……理由も、原因も……想像ついているんじゃ、ありませんか?」
「……輝石の島か」
「それ以外に、何があります? オレは全てを奪われた。家も、両親も、友人も、故郷も、何もかも! なら、奪い返すのが筋でしょう」
だからこその復讐か。かつて受けたからという理由で、同じことを返す。だから、ユノが抱える恨みは妥当であると──認めるのは違う。何があっても、何もなくても、人を手にかける理由にはならない。
リディオルは膝を伸ばす。
わかった。ユノは賢人全員を殺すことが目的ではない。ユノの目的は、かつて輝石の島に関わっていたシェリックだ。ユノが恨む原因ともなった、輝石の島をアルティナ王国と統合したことだ。
もめた調停には、シェリックが赴いたと聞いた。ならば、ユノが恨む矛先はアルティナ王国よりもシェリックに向いている。
彼を貶めるために。彼に罪を重ねさせることがユノの目的だったに違いない。失脚すればいいと考えたのだろう。大切なものを奪われたのだから、彼が大切にしているものを奪えばいいと。
シャレルは話していた。シェリックを守るためだと。どこまで見透かしていたのか。シャレルが言ったように、初めからシェリックが狙われていたのだ。
いや、それだけではない。原因が輝石の島であるなら、リディオルにできることがある。その件に関しては完全に部外者だが、関わっていた人物に心当たりがある。シェリックとは別に、あの人なら──
「──ですよ」
その呟きへ、聞き返そうと口を開く。
「詰めが甘いですよ──ナル=ハクレシア殿」
構える間もなかった。
急激に力を失った膝からくずおれる。顔面から衝突せずに済んだのは、突いた片膝のおかげと、辛うじて力の入った拳がリディオルの上体を支えたからだった。
息を吐く音がいやに大きく聞こえる。吸うだけの動作が、嘘のように重い。定まらない視界。今無理を押して立ち上がったなら、今度こそ無様に倒れるだろう。
名を呼ばれただけだ。リディオルが魔術師となる前の名を。
「──簡易詠唱、できないって言ってなかったか?」
「はい。別の言葉で編んでいたので」
放棄したくなる思考が、こんなときでもしっかりと動いてくれる。リディオルは、喉奥で笑って理解した。
「なるほど。発動条件は名前ってことか。それも、ご丁寧に今使われていない方の」
「いつでも発動してしまうと厄介ですので。気づかれなくて良かったです」
疑問はもうひとつ。
「なんでおまえ、杖なしで魔術が使える?」
壊したはずだ。真っ二つになった杖は、まだユノの目の前に転がっている。手を伸ばせば楽に取れるだろう。なのに、ユノは一切手を触れていない。杖など必要ないと言わんばかりに。
棚だけを燃やし、ユノはよろけながら這い出てくる。ぶれる景色の中で、ぼやけた輪郭だけでも読み取れた。回る火の速さに、いつから燃やし始めていたのかと記憶を探る。匂いに気づかなかったのは、強すぎる香りにあてられたせいだ。音は? 喋り続けていたから気づかなかった? 笑えない。
「目に見えることだけが全てではありませんよ、リディオル殿。あなただって杖がなくても魔術が使えるじゃないですか」
「おまえは精霊を呼べない。事象のあるところに精霊あり。火がなければ、精霊はいないからだ」
「そうです。だからオレは、杖がなければ魔術を使えません」
生み出せなければ精霊を呼べない。自然界に存在しない火を作り出すためには、まず初めに火種を作らなければならない。
考えるのが億劫になりつつあるリディオルへ、ユノが答えを教えてくれた。
「オレがいつ、あの木が杖だと言いました? オレの杖は、別にあります」
「そういうことかよ……」
迂闊だった。そう認めるしかなかった。
「リディオル殿は、最後の最後で甘いんです。オレのことを疑い始めた時点で問い詰めるべきでした。それに、さっきも。優位に立ったのなら、息の根まで止めるべきです。守りたいものがあるなら、他は全て排除しなければなりません」
わざわざ勧告したのは、リディオルの甘さを指摘するためか。
端から覆われていく。一瞬でも気を抜けば持っていかれる。手放してしまえばおしまいだ。手放さずとも、立つことすらままならないこの状態では──
くっと笑みが漏れる。
なんてざまだ。人に説教をしている場合ではない。これでは、形勢逆転ではないか。
視界も、声も、思考も、別の何かに塗りつぶされていく。真っ黒に。全てを吸収してしまう暗闇に。ああ、これは確かにまずい。意識を奪われるのが予想以上に早い。風が呼べたなら、体内から全て追い出してやれるのに。こんなときばかり後悔する。
落ちてきた大粒の汗はどこからなのか。身体中が暑いと悲鳴を上げ始めているのに、指先から熱が失われていく。逃さないよう握りしめても、留めることは叶わない。
待て。まだ、待ってくれ。
この熱がなくなる前に。
せめて、ほんの一瞬だけ。
「どうぞ、旅立ってください。あなたがいなければ、ことが楽に進みますから」
声がする。そこにユノがいる。好都合だ。
感覚だけで腕を捕まえる。
「──なぁ、ユノ」
口を開く。まだ動く。まだ届けられる。この意識があるうちに。
「辞世の句くらいでしたら、聞きますよ」
聞く耳持たずに息の根を止めれば、それでしまいだろう。甘いのは、おまえもだ。
思ったこととは別の言葉が口から出てくる。
意識がなくならないうちに。全て消えてしまう、その前に。
そうしてユノは。
リディオルは。