152,彼の末路を下すのは
目が回るほどの日々。あれは確かにそうだったと実感できるのは、その日々から抜け出したからではないか。あるいは抜け出したかもしれないというのは思い過ごしで、来る怒濤の時間への準備が密かになされている最中かもしれない。
次から次へとやってくる出来事に翻弄され、目を離した一瞬後にはまた別の事態が現れる。対処するだけで手一杯だ。
何をしても、何をせずとも。時の流れだけは一定に、刻一刻と進んでいく。後戻りできない大きな流れの中をかきわけて、逆らって、あるいは流されて。激流に呑み込まれないよう、「今」にしがみついて生きている。
流れに負けるか、味方につけるか、それは自由だ。他の誰かではなく、その人自身の生き方なのだから。
今、ラスターはどうだろう。しがみついたこの時間は、どんな状態の最中なのだろう。誰かの川を眺めながら、小さな板に乗って流されているだけに違いない。待つのは急流の岩場か、高低差の激しい滝か。知ろうともせず、ぷかぷかと浮いている。
何が待ち受けているのかわからないのは怖い。やってくる出来事が想定できる事態なら、対処の方法だって思いつく。指折り挙げたいくつかの選択肢から選んで、実行すればいい。うまくいかなければ修正していくだけだ。方向転換して新たな選択をしてもいい。
それすらできないというのは──
踏み出せない足が、円の外から出ない思考が意味するのは、ラスターがそこにいることを望んでいるからだ。動くことで変わってしまう恐怖に、竦んでしまっているからだ。
緩やかになった日常は心地良くて、昼寝をしているみたいに穏やかで、母の温もりの中にいるように温かかった。あの忙しなかった頃が、もう何年も前にあった記憶に感じられてしまうほどだ。
しわくちゃの手で頬をなでられているような、お日様の匂いに包まれているかのような、そこにはなんの危なげも恐ろしさもない。ただただ優しくて、日だまりみたいに温かくて──その日だまりから出られずにいて、何も変化などなく、生ぬるい空間に足を浸していた。
いつかは冷めてしまうだろう。日だまりはなくなり、とっぷり暮れた暗がりがやってくるだろう。帰り道が見えなくなる前に、途方に暮れないうちに、そこから出ないといけないのに。
ラスターは、思考の海底から浮上し、セーミャとグレイを探す。考えることに浸っていられたのは、二人が喋っていないからだ。
先ほどから、セーミャもグレイも口を開かない。ファイクが来て、シェリックがいなくなったと告げられた。レーシェはそれを聞くなり、グレイとセーミャ、ラスターに部屋から出ないように言い含め、エリウスとファイクを伴って出て行ってしまった。
聞かずともわかる。シェリックを探しに行ったのだ。あのときから、二人は無言だ。
無言ではあるが、無音ではない。
待機を命じられたグレイが暇を持て余すことに耐えられなかったのか、棚と焜炉を往復して何やら作っている。
草の青臭さと清涼感のある匂いが混ざり合い、不快ではないがなんとも言えない匂いが漂っていた。たとえるなら、薬独特の匂いとでも言おうか。
レーシェがグレイとセーミャを残したのは、もしシェリックがやってきたとき、ラスターを守れるようにするためだ。一人よりも二人。それほどラスターに人を割くまで、レーシェはシェリックを警戒している。
怖いのか悲しいのか、名づけがたい感情がラスターの中で吹き荒れた。
「ねえ、セーミャ」
「はい?」
シェリックがいなくなったのはどうしてだろう。最果ての牢屋でラスターがしたように、誰かによって連れ出されたのだろうか。それはリディオルなのか。他の者か。それとも別の場所へ移されたのか。話を聞くために外へ出されたのか。処刑されるためか。あるいは今度こそ、ラスターの息の根を止めるために脱走したのか──
浮かんだそれらを訊こうとするも、言葉になる前に弾けてしまう。形を成さなければ、音も作れない。話せない。
聞くべきではないだろう。セーミャは、答えを持ち合わせていないだろうから。困らせてはいけない。
「──お菓子、美味しかったよ。ごちそうさま」
「どういたしまして。お店にはたくさんの種類があるので、今度、一緒に見に行きましょう?」
「うん……」
中途半端な笑顔では、余計に心配させてしまうのに。ぎこちない顔でしか笑えない。心と表情が別々だと、整合性を取ろうとしてどこかで無理が生じてしまう。ねじ曲げた本当を押し通すには、へたくそな仮面で隠すしかなかった。
控えめに扉が叩かれ、グレイが応対に向かう。
「ジルク殿」
「珍しい組み合わせですね。レーシェ殿は不在ですか? ──ああ、そのまま座っていてくださって結構です、セーミャ殿、ラスター殿」
立ち上がったセーミャとラスターが制される。セーミャが従ったのを見て、ラスターもおとなしく腰を下ろした。ただ、なんとなく耳を傾ける。
シェリックが見つかったのだろうか。セーミャも同じように、二人に意識を向けているようだった。
「中でお待ちになりますか?」
「いえ、それも結構です。レーシェ殿に伝言を頼みます」
「わかりました。どんな伝言ですか?」
「シェリック殿の処遇は、賢人の地位剥奪になったと。そうお伝えください」
だからそれを聞いたとき、ラスターは真っ白になった。
「……除名処分、ですか?」
「ええ、そうです」
「待っ……待って、ください!」
できていなかった心の準備を責めている暇はない。
椅子を蹴飛ばし立ち上がって、ふらふらと駆け寄って。もつれた足で転びかけてグレイが手を出そうとするも、ラスターのうしろから支える手の方が早かった。
「剥奪って、それって……シェリックが、占星術師じゃなくなるってコト?」
「そうです」
あれだけ薄く淡い幻だった思考が、急速に色を持ち、像を結び、警告音を鳴らし始める。居心地が良かったはずの世界が、足元から崩れていく。
「駄目だ、そんなの、シェリックがいなくなっちゃう……取り消して! お願い!!」
「ラスター!」
嫌だ。そんなことをしちゃいけない。
取り上げられてしまう。占星術師でなくなってしまったなら、失われてしまう。名前も、居場所も。彼が彼である存在意義が消えてしまう。
借りものの名前。与えられた居場所。
彼が彼ではなくなる。それは、処刑されることと同義だ。
「何か、思い違いをなさっているようですが、私はここに議論をしに来たわけではありません。決定事項をお伝えしに来ただけです」
ジルクは冷徹に語る。逃れられない通達。覆せない決定。
知らないだけなのだ。彼が持つ名前の意味を。知らないから、ジルクはこんなことが言えるのだ。
「だったら、撤回して。賢人のボクの権限で、シェリックの処分を変えて!」
「それが可能なのは、本当にあなたが賢人であった場合です」
思いつく限りの言葉を紡いだラスターを、あざ笑うかのように。彼女はどこまでも冷静で、どこまでも無感情だった。
ただ忠実に、伝達役としての役割をこなそうとしている。声高に叫んでも、目の前の人が不調を来しても、きっと彼女は顔色ひとつ変えずに淡々と職務を実行するだけに違いない。
その訴えこそが無駄だと。
「偽物の賢人でしかないあなたに、その権限は行使できません」
一切の感情を排除して。
子どもの我が儘をふりかざすラスターへと、教えてくれた。事実という槍をラスターに突き刺し、ただ無力でしかない現実を。
「よろしいですか? 次がありますので」
「……はい」
「では、失礼します。伝言を、お願いします」
噛み締めて、うつむいて、認めるしかなかった。
扉が閉められる。ジルクがいた痕跡を追い出しても、ラスターの胸に巣食う塊は、軽くなるどころかどんどん重くなっていく。
「座りましょう、ラスター」
肩を叩くセーミャに首肯して、のろのろと元の椅子に戻る。
どうしよう。時間がない。何をすればいい。どうすれば変えられる。何ができる。
探す中に、どうしようもできないと諦めかけているラスターがいる。実感させられて、それでもどうにかしたいと叫ぶラスターもいる。
ラスターは怖いのだ。どうすることもできないと、このまま諦めてしまうのが。
認めてしまったら、今度こそ本当にシェリックはいなくなってしまう。牢に既にいないという事実を裏づけるように。彼の存在そのものが失われてしまう。
シェリックは、諦めなかったからここまで来た。
それなのに、ラスターが諦めてしまっていいのだろうか。会う会わない、それ以前に、彼の存在が消えてしまっていいとは思っていない。
「──フィノのとこに行ってくる。鉱石学者の部屋だったら、きっといるよね」
引き留められる理由があれば。シェリックの前の名前を知る彼ならば、何か知っているかもしれない。
感情に訴えていては駄目だ。少なくとも、ジルクを説得できるだけの理由がなければ、一度確定されたことは早々変えられない。
「えっ、ラスター?」
「セーミャはここにいてくれる? 部屋を、留守にはできないから」
「俺がいるから気にするな。おまえを一人にする方が危険だ。……レーシェ殿に何を言われるか」
確かに、グレイの言うとおり、それは怖い。グレイだけでなく、セーミャもラスターもその対象に入るだろう。共倒れは避けたい。
「セーミャ殿は大丈夫ですか?」
腕を組み、難しい顔をしていたグレイが、セーミャに尋ねる。
「今日はお任せできる体制ですので、問題ありません。わたしがラスターと一緒に行きますよ。グレイ殿は、あちらを作りかけでしょう?」
焜炉を指摘され、グレイはいささか苦笑気味に言った。
「ありがとうございます。では、お願いします」
「はい。──行きましょう、ラスター。場所がわかりづらいでしょうから、ご案内しますよ」
「うん。じゃあ、お願いセーミャ。グレイ、行ってくる!」
セーミャと同時に立ち上がると、グレイは片手を挙げて応じてくれた。