151,虚ろな彼に願えども
隙間風ひとつ通さない、堅固な石牢。拳で叩いた音が思いの外反響してしまい、グレイは手を引っ込めた。
「何してるの?」
「叩いてみたかっただけだ」
「意外と君、好奇心旺盛だよね。ラスターといい勝負」
褒められているのか貶されているのか。判断のつかなかったグレイは、眉根が寄ったのを感じながら閉口した。嬉しくはない。
三度ばかり右手を握って開く。それでも手の甲に浮かぶ青紫の血管は薄くならなかった。石壁を触ったからだけではない。
地上階よりも肌寒いのだ。原因は窓がなく陽が届かないためと、王宮内よりも圧倒的に人が少ないからだろう。人がいないにも関わらずどこか息詰まるのも、窮屈さを感じるのも、天井が低いためと。殺風景な石造りのせいだ。
閉塞感を覚えるのは、この暗さも手伝っているだろう。自然光にも室内灯の明るさにも及ばない、ぼんやりと灯る明かりがぽつりぽつりと置かれているだけ。
薄暗い地底の世界へと誘われるような、そんな錯覚がした。死したあと空に昇れず、星の巡りから外された者が還ると言われる、地底の世界へ。
「思ってたより綺麗なんだね」
「衛生面を考えるなら、整えておくべきだろう。万が一ここから疫病が発生したなら、王宮が大変な事態になる。街まで広がる可能性も捨てきれない」
小声で話すファイクに、グレイも同じように小さく返した。
潜める必要はないのだが、ここでは音が響きすぎてどうもいけない。普通に話す声量だと反響してしまって聞こえづらいのだ。経験は、物事の改善を生み出す。
「牢屋、って言うとじめじめしてて小汚い雰囲気が浮かぶよ。ほら、リザレストであったの覚えてる? 捕らえてた罪人が処刑される前に伝染病で亡くなったって話」
「まさに衛生問題で話題になっていたな。一時期リザレスト国内も混乱してただろう」
「そう、それ。過ごしやすそうなら、ラスターも少しは安心するんじゃないかな」
「牢屋にいることに変わりはない」
安心できはしないだろう。
「そりゃあ、そうだけどさー……こう、心配事が減った感じ、みたいな? ──あ、グレイ、あそこ」
ファイクが示した先に、人が立っている。腰に剣を佩き、戦場に出向くものよりも軽装な鎧に身を包んでいる。グレイに見覚えはないが、騎士隊の一人か、護衛官の一人か。いずれにせよ、腕の立つ人物だろう。
地下牢の一番端。最も奥まった位置。警戒はいくらしても足りないということか。
「わかりやすくて涙が出ちゃうね」
「本当にな」
ここまでは労せずに来れたが、問題はここからだ。あと一歩のところまで来て、結局会えずじまいなんてのはごめんだ。
「お疲れ様です」
立っている彼がこちらに気づき、すかさずファイクが挨拶をした。
「──ああ、薬師のとこの」
「どうですか? 彼の様子は」
親しげに話す様子から、どうやらファイクの顔見知りの者らしいとうかがえた。しかし、顔見知りであってもたやすく通してはくれない。彼には彼の職務があるのだから。
「変わらずおとなしいもんだよ。ああ、でも時々……」
「時々? なんです?」
考え込む素振りを見せた彼へ尋ねてみるも、首を振られてしまった。
「いや、詮ないことを言った。忘れてくれ」
「途中まで言ってやめないでくださいよ。気になるじゃないですか」
「なんでもないんだ。それより用件はなんだ。聞くだけ聞こう」
「聞いてはくれるんですね。門前払いかと思いました」
「聞くだけだ、聞くだけ。要望が通るかどうかは別だ」
口ではこう話しているが、彼の容姿から想像される厳格な態度とは少し遠ざかっている。見知った相手ゆえか。それに、職務とはいえ、こんな場所で長時間一人で居続けるのは耐久力が試される。人と話したくなるのは当然の欲求か。
こちらとしてはありがたい状況だ。この調子なら、グレイがしゃしゃり出ずともいい。ファイクの説得だけでいけるだろう。
グレイは傍観の姿勢を決め込んだ。
「──あ、お疲れ様です」
彼の様子が一転したのはその直後だった。どこか緊張をにじませた面持ちでグレイに挨拶する。
彼がたった今グレイに気づいたからではない。半身振り返ったグレイは、そこに一人の人物がいたことに気づいた。
安心して気が緩んでいたのは確かに認める。しかし、響くはずの足音もさせず、ひっそりと忍び寄られたことに、別の意図を勘ぐりかけた。
「お疲れ様です。先客がいましたか」
「……どうも、お疲れ様です。フィノ殿も用事ですか?」
鉱石学者の見習いであるフィノ。やってきたその人は、グレイたちを見てわずかに目を見張った。決して喜ばしい遭遇ではない。誰もやってこなそうな時間帯をあえて選んだつもりだったのに。
「ええ。私は彼への伝言を。あなたがたは?」
フィノから凝視され、どこか疑われていると感じてしまうのは、警戒心を抱きすぎているからか。
致し方ない。グレイは予め用意していた役割を告げた。
「彼の栄養状態の確認をしに来ました。聞いたところによると、もう何日も食事を取られていないと。このままでは、彼への処罰が下される前に参ってしまう。それは、誰にとっても望む事態ではありません。ですので、我々が参りました。レーシェ殿には内緒で」
「そうでしたか」
納得してもらえただろうか。
レーシェの命令ではない。それを示すことで、彼に害を及ぼしに来たのではないと、わかってもらえたのならいい。嘘ではないが、真実でもない。グレイたちの目的は別にある。全てを語っていないだけだ。
「あの」
牢番が手を差し出す。
「一旦、その中を拝見させてもらってもいいですか?」
「ええ、構いません」
肩にかけていた鞄を下ろし、彼に預ける。見られて困るものは入っていない。
ちらりとフィノをうかがうが、彼は牢番を見ている。ファイクは緊張した面持ちで、口を出さずに成り行きを見守っているのがわかった。
思案顔をしていたフィノが、不意に面を上げてこう言った。
「そういえば、私が頼んでいた薬は持ってきていますか?」
「──はい、その中に」
丁寧な口調とは不釣り合いなその目。探られている様子をひしひしと感じながら、グレイは牢番が調べている鞄を示した。
「──はい、ありがとうございます。結構です。──どうされますか?」
「いつもと同じように。彼らは問題ありません」
「しかし……」
口を挟む隙がなく、グレイは傍観を決め込んだ。
「私はお伝えするだけですが、彼らはそれだけでは的確な判断ができないでしょう。本来ならば、その方の状態を実際に見て、聞いて、触れて、確かめてから薬を処方するのではないでしょうか。もしくは、治療師のように、症状にも薬にも詳しい方の説明によって。今、治療師の方はおりませんから、彼らにその目で確認していただくのが一番です。私やあなたでは気づけずにいた症状があるかもしれませんし」
「……わかりました。半刻だけですよ」
「ありがとうございます」
渋々離れていく彼の背中を見送り、ある程度の距離ができたところでグレイは小さく話しかけた。
「ありがとうございます。ですが、なぜ?」
フィノがやってきたのは予想外だったし、断られるどころか助け船まで出されたのも完全に予想外だった。
探られながらも訴えかけられた眼差し。それに気づけたからこそ、グレイはとっさに反応できた。かつて教わった処世術が、こんなところで役立つとは思いもしなかったが。
「本来ならば、こういった役目は治療師が請け負うはずです。なのに、あなたがたがここにいる。レーシェ殿の命でないとすれば、独自に動いているであろうことが予測されます。大方、立場を利用してシェリック殿の様子を見に来た、と言ったところでしょうか」
訂正の必要もないほど的確だが、それはグレイたちの状況であり、グレイが上げた疑問への回答ではない。
「だとすれば、どうします? 俺たちを、レーシェ殿に突き出しますか?」
「いいえ。──私は、納得がいかないんですよ」
独白のように。それは、何に対してなのか。
「それと、鞄から栄養剤の瓶が見えました。あれは、ラスター殿が作ったものですね?」
「はい。よくご存じですね」
鉱石学者と薬師の部屋自体は隣同士だ。しかし関連性の薄さから、互いの接点はほとんどない。この栄養剤だって、ナキの騒ぎがなければ、ラスターが持っていると知るのはまだ先だったかもしれない。
それを、フィノは知っているのだという。
「アルティナへお連れする際に、シェリック殿がラスター殿に飲ませてあげていたんです。それで、私も記憶に残っておりました」
「……ラスターが、シェリック殿に飲ませたのではなくて?」
「はい」
ラスターが作ったものではあるが、飲ませたのはシェリックだという。
来された齟齬が疑念を生んだが、詳細を聞くまでには至らない。フィノこそが、ラスターとシェリックを連れてきた人物だと聞いた。道中に何があったなどと、この場で触れる必要はないだろう。
「誰よりも、ラスター殿を気にかけていらっしゃいました。私にはどうしても──」
だから納得がいかないと、フィノは考えているらしい。噤まれた続きは、グレイにも容易に推測できた。
「フィノ殿、あんた、確か初めに見つけたんだよな?」
社交性の仮面をかなぐり捨てて尋ねる。
「はい。ラスター殿がシェリック殿に首を絞められているのを、確かにこの目で見ました」
グレイの変貌に驚きもせず、フィノは断言する。しかし、その目に浮かぶ迷うような気配は隠しきれていない。ファイクも気づいたのだろう。ずいと、前に進み出てきた。
「ねえ、だったら聞いてもいいかな? 最初に発見したなら、その現場に居合わせたってことでしょ? 君がそんなに擁護しているのはどうして?」
当事者であるシェリックとラスター、その二人でしか語れないこともある。けれども最初の発見者であり、目撃者でもあるフィノでも語れることはあるのではないか。
「僕らはラスターを助けたい。同じ薬師のよしみもなくはないけど、ラスターには助けられたからね。本人は新しい知識に慣れるので必死だけど、僕からしたらラスターの方が知識の宝庫だ。僕自身、ラスターから教わりたいことが山ほどある。もちろん、教えたいことだって。レーシェ殿がラスターを帰そうとしてるけど、できたらそれを阻止したいんだよ。教えるの途中だし」
「それはおまえの都合だ」
「助けたい気持ちは一緒だって。それがシェリック殿を助けることにも繋がるんだよ」
「こじつけだな……」
「なんだっていいんだよ。目的は一緒なんだから」
おそらく、フィノもシェリックを助けたいと思っていたからこそ、グレイとファイクがここに来たのを追い返さなかったのだろう。追い返すどころか、手助けまでしたのだから。
人当たりのいい柔和な顔は、グレイの想像とは裏腹に曇ったままだ。
「何か、懸念が?」
「僕らの言ったことを信じてもらうのは、難しいかな、やっぱり」
「──いえ」
やがて意を決したように、フィノは顔を上げた。
「でしたら、お願いがあります」
「お願い?」
フィノが頷く。その直後だった。
「──うわっ!」
獣のようなうなり声が響き、ファイクが飛び上がってグレイの腕をつかむ。
「な、なに……?」
どちらかというと、ファイクの行動に驚かされたグレイだが、邪険にするのもなんなので、肘で小突くだけに留めた。
恐る恐る、ファイクがグレイから離れる。
注意深く耳を澄ましてみれば、それはとても低い人の声だとわかった。
まさか、という思いとなぜ、という疑問が浮かぶ。フィノは諦めた様相で、首をゆるく横に振った。
「私にもわかりません。ですが、時折シェリック殿にこういった症状が現れるのです」
「もしかして、さっき牢番の人が言いかけたのって」
牢番が濁した内容がこの様子を指すなら、確かに言いにくいか。それも時々起こるのなら、気が狂ったのではないかと考えるだろう。決して少なくない頻度であるならば、なおのこと。
「──やる」
そっと凝らした牢の中から、何か聞こえた。それは何度も呟く彼の言葉だと知れる。なんと言っているのか。そばだてたグレイの耳が、音を拾うと同時にざらりとなでられた。
聞き間違いだろうか。疑う耳と目がフィノに答えを求めると、無言で頷かれた。では、間違いなどではなく、これが正しかったというのか。
音が言葉に変換される。ぞっとする低音とともに、抑えが効かなくなった感情も上乗せされて。
牢屋から絶えずに聞こえてくる。
「──殺してやる」
呪いにも似た文言が。