150,望まぬ円の外側で
リディオルが招き入れた彼は、俯いたままでおとなしく座っている。
初めこそ落ち着きなく視線をさまよ彷徨わせていたが、思うことでもあったのだろう。内側に何かを秘め、じっと耐えているみたいに。
「珍しいじゃねぇか、おまえがここに来るなんざ。俺が塔にいなかったからこっちまで来たのか?」
彼は顔を上げる。一切のためらいを捨て去って。
「珍しいのはあなたの方です。同じ言葉、そっくりお返しします」
お互い様か。
「俺が塔にいないのはいつもだ。珍しくもなんともねぇよ」
「いえ、あなたが自室にいらっしゃることがです」
彼は正しく言い換える。
ここは魔術師の塔ではなく、王宮に誂えられたリディオルの自室だ。塔に留まることが少ないと称するなら、自室にいることはほぼ皆無だ。よほど重要な用件がない限り、近寄りもしない。
そもそもリディオルがひとところに留まることが珍しいのだ。賢人になってから、王宮にこれだけ長期間いたことも久しぶりだ。
自室が嫌いだからではない。ここには、魔術書も魔術に関する資料や道具が揃っている。塔に置かれている種類や数には及ばないが、やりたい研究だけを手がけるなら都合がいい。
リディオルを知る王宮の人間も、普段ここに部屋の主がいないのをわかっているから、人払いをして集中したいときにうってつけの部屋だ。だからこそ、滅多には使わないのだが。
「何度か嬢ちゃんの様子見に行ってるんだろ?」
「はい……芳しくはないですが」
「だろうな」
傷を癒やすには時間がかかる。たかだか二十日の期間で完治するなら、シェリックの元へ怒鳴り込むなりするだろう。ラスターは怒鳴り込むというより涙を溜めて訴えてきそうだけれど。
圧倒的な時間の不足と負った傷の深さが、快方へ向かうことへの拒絶を生み出している。本人が望む望まないに関係なく。
彼女たちに関わっていた周囲の人間も戸惑っているきらいがある。過去に一度牢屋へと入れられた人間が、再び罪を犯した事実。
野次馬が発する糾弾と、真実と虚構で練り上げられていた噂に対抗する武器が足りない。
彼を庇い、減刑するだけの人物に値するのかという判断をくだすのに、迷いとためらいが生じている。当事者でない者たちがくだすのは、妥当すぎる内容だ。
「ま、嬢ちゃんが何をどう考えるか、それは嬢ちゃん本人にしかわからねぇよ。間違っても俺らがどうこう口出して急かすもんじゃない。どれだけ時間をかけても、嬢ちゃんが向き合っていかなきゃならない問題だ。精神的な傷を治すのは、身体的な傷を治すより遥かに時間がかかる。そもそも乗り越えられない可能性だって捨てきれねぇからな。待つしかねぇ」
執務に使う机へ、リディオルは腕を組んで寄りかかる。椅子代わりにするにはお誂え向きな高さだ。先ほどからじっとリディオルを眺めている彼と、視線を合わせる。
「絶対も必ずもねぇんだよ。だから、嬢ちゃん次第だ。俺らは俺らでできることをすりゃいい」
頷きもせず、首を振りもせず、彼は黙って聞いている。にこりとするわけでもなく、悲しむでもなく。リディオルの言葉に耳を傾けて。
「それに、おまえと話したいこともあったしな」
とぼけた疑問も、おどけた返しも来ない。彼はただひたすら聞いているだけ。
「おまえ、ディアって知ってるな?」
誰だとも、なんだとも説明しない。
「──はい」
けれども彼は、ひと言だけ答えた。
**
グレイは茶器に口をつける。中身へと落とした目線が和らいだが、それも一瞬だった。グレイは受け皿へと茶器を戻し、ちらとラスターの背後を一瞥してから口を開いた。
「あの人が、今地下牢にいるのは知ってるな?」
ラスターは、できるだけ小さく頷く。
グレイが窺ったのは、入り口で話しているレーシェだろう。話す内容が彼女の耳にひとつでも入ったなら、グレイはラスターの前から即座につまみ出されてしまうに違いない。
細心の注意を払っているのはそのせいだ。
「今回の報告会で、あの人の処遇がほぼ確定になる。エリウス殿が話しているのは、恐らくその件だ。俺の想像の範囲内なら、王宮追放は免れない」
「追放……」
たったのふた文字。それなのに、重く響いてくる。
シェリックはここにいるのだと思っていた。望んだ場所でなく、望んだ地位でなくとも、ここに来さえすれば会うことはできるのだと。シェリックが王宮から追放されてしまったら、それすらもできなくなる。
理由がなければ留まりはしない。シェリックは、そういう人だ。
「良くて追放、悪くて処刑。そんなとこだろう」
「──え」
弾かれたように顔を上げる。及ばず、至らず、よぎりもしなかった結果だった。処刑されてしまう選択肢もあるのだと。
「悪くて、だ。そうならないように、エリウス殿に動いてもらっていた」
グレイが口早に説明する。気まずそうにされて、喋るつもりはなかったのかもしれないと知れた。喉の奥に溜まっていた不安を吐き出す。
心臓に悪いことを言わないで欲しい。
ただ、その未来がやってくることも十分考えられ、またいつその結果が下されてもおかしくはない状況にあるのだ。
「じゃあ、今話してるのは、決まったからってコト?」
「ああ。それの結果報告だろうな」
両の拳を握りしめる。何かに力を入れていないと、抑えられない衝動がどんな行動を起こすかわからない。
振り向きたい。エリウスの元へ行って、こと細かに問い質して話を聞きたい。シェリックがどうなったのか。これからどうなるのか。最悪の決断はくだされていないのか。追放されてしまうのか。それならばいつなのか。聞くのが怖いのに、知りたくて堪らない。
心が矛盾してばかりなのは、ラスターが我儘なせいだ。不都合な結果は聞きたくなくて、そうあってほしい未来だけ聞きたい。これが我儘と言わずなんだと言うのだろう。
「二度目だ」
一瞬なんのことかわからなかった。
見当違いの方向から単語が飛んできた気がしたのだが、言ったのは紛れもなくグレイだ。ラスターが正解にたどり着くより先に、グレイが教えてくれる。
「あの人が罪を犯すのは、今回で二度目だ。無罪放免にはならないだろう」
もしかしたら。そんな希望的観測をたやすく塗り潰してくれる。グレイのひと言ひと言が辛辣に聞こえるのは、ラスターが抱いた甘い考えを消し去ってくれるからだ。
都合のいい理想論と、訪れる可能性の高い推測。現実を目の当たりにしたとき、受ける衝撃が少ないのはどちらか。
「グレイが話しているのは、何もしなかった場合だ」
「そうだな」
「被害を受けたボクの言葉だったら、その結果が変わるかもしれない。当事者からの意見だったら、簡単にはね除けられないよね?」
「難しいな。仮に抗議したとしても、そこまで斟酌してくれるかどうかはわからない」
「──でもきっと、レーシェ殿が許さないと思いますよ」
濡らした布巾で卓を端から拭きながら、セーミャはぽつりとつぶやいた。
「ラスターがシェリック殿を弁護するのも、シェリック殿に会おうとするのも。どちらも恐らく、レーシェ殿が許可しないと思います。レーシェ殿は一刻も早くラスターを王宮から遠ざけようとしていますから、もう二度と、ラスターをシェリック殿と関わらせないようにするのが目的でしょう。ラスターがどう思っていようとも、です」
卓に視線を落とし、手早く拭き上げたセーミャは布巾を流しに持っていく。
望んでいない。
ラスターは決して、望んだりしていない。ラスターのためだと大義名分を掲げられて、理由がでっちあげられて、全て勝手に進んでいってしまう。
「──おかしいよ」
口を吐いて出てきた。
ラスターの考えは? ラスターの思いは? ずっとここに、置き去りにされたまま。
また、だ。
ラスターのあずかり知らないところで、事態が進められていく。渦中にラスターもいるはずなのに、ラスターの意志はどこにもない。
ではどうすればいい? 抱え続けていた言葉は。膨れ上がる気持ちは。誰に伝えれば届くのだ。
「これは、ボクとシェリックの問題だ。関係ない人に決められて、ボクとシェリックを爪弾きにしてる。そんなの、おかしいよ」
「もう、ラスターたち二人だけの問題じゃない。あの人には、賢人を殺したかもしれない疑いだってかけられてる」
「絶対ない!」
「──何? どうかした?」
上がってしまった声量がレーシェの注意を引いてしまい、慌てて口を引き結ぶ。ばれてしまっただろうか。
「……すまない。ラスターに以前、薬膳酒を味見したんじゃないかと聞いたら怒られた」
「それはあなたが悪いわ、グレイ」
レーシェは再びエリウスと話し始める。ラスターは強張っていた肩から力を抜いた。
「……ごめん」
「肝が冷えた」
グレイが嘘をでっち上げてくれたおかげで、まだ話ができる。弛緩した空気の中で、ラスターはくすりと笑った。
「口からでまかせ」
「勢いともっともらしい表情が大事だ」
「グレイ殿……何を教えているんですか」
うまく切り抜けられただけでなく、殺伐としかけていた雰囲気が一掃されたのも事実だ。再開させようとした、その瞬間だった。
「──レーシェ殿!」
廊下の向こうから走ってくる足音。息も絶え絶えに呼んだ名。血相を変えたような声。切羽詰まった声は、ファイクだ。
「あら、どうかした?」
似たような状況に覚えがある。ナキの一件がよぎる。
反応が早かったのはグレイだ。足早に近寄り、ファイクへと問い質す。
「何があった」
「シェリック殿が……」
言い淀んだ言葉が、奔流となって一気に解き放たれる。それはしっかりと、ラスターの元まで聞こえてきた。
「シェリック殿が、地下牢からいなくなったんだ!」
**
お互いに何も言わず、視線だけで探り合う。相手の出方を。考えを。
先にそこから逃れたのは彼の方だった。
「どうしてあなたが知っているのか、そちらの方がお聞きしたいですね」
「考えりゃわかんだろ。誇張抜きにあいつと過ごした時間は俺が一番長い。知っててもおかしくはねぇだろ?」
「素直に語る人だとは思いませんが」
「長年ともにいると、昔語りをしたいときだってあるんだよ」
「そういうことにしておきます」
釈然としない様子が見て取れる。
なぜ知ったのか。
ここで詳しく語る必要はない。彼が何故知っているのかも、聞く必要はない。彼もリディオルも知っている。ここでは、それだけわかればいい。
「あなたの情報網の広さは恐ろしいですね」
「そりゃどうも。秘密裏に情報収集する手腕は、おまえも相当なもんだろ」
「そんなことはありません」
「謙遜するなよ。でなけりゃおまえが一番の好機を逃さないわけがねぇ」
反応がないのは肯定の証か。下手にしらばっくれられるよりはよほどいい。彼が保つ沈黙は、言い逃れをしないためでもあるだろう。
彼は座ったまま身じろぎせずに待っている。長考を決め込んでいる様子ではない。そのときが訪れるのを、座して静かに待っている。
リディオルはおもむろに右手を前に掲げる。しゃらりと鳴った音に彼は眉を動かし、注意を向けた。
「これが何か、もう知ってるな。おまえは、俺が今どういう状態にあるのか正しく理解してここに来た」
そこから表情ひとつ動かさないのは見事だと言えよう。話すこと以外に彼の動作を引っ張り出せたのは、視線と注意だけ。動かざること山のごとし。
「違わねぇか? 邪魔者を消すには、絶好の機会だろ?」
そこでようやく、彼の口が再び開いた。
「邪魔者だなんて」
「事実だろ」
彼の言葉にかぶせると、途端に口を噤まれた。
今度こそ疑問に疑問で返さない。リディオルは断言する。
「おまえは、これがなんだと調べてきた?」
「それは、答えなければなりませんか?」
リディオルは笑みでもって返す。
「時間の無駄だと思いませんか?」
「おまえの仮定が合ってるかどうか、確認してやろうって言ってんだよ」
「傲慢ですね」
「わかりきった答えを確かめるだけだろ? 間違ってたら遠慮なく笑ってやるからよ」
我ながら下手な挑発だと思いながら、唇を引き結んだ彼を待つ。
「……魔術を封じるための魔道具、ですね」
「正解。ほらな、おまえならちゃんと答えを持ってくるだろうと思ってたよ」
リディオルは見せていた右手を下ろす。敵意の塊のような表情しか見せなかった彼が、困ったように笑った。
「──そこまで自身の状態を把握しておきながら、どうして無防備に一人でいるんですか。予測がついているなら、ここで殺されても文句は言えないですよ」
「決めつけんなよ。俺は、こんなところで死ぬ気はねぇぞ。おまえにただで殺されてやるつもりもねぇし」
穏やかに交わされる会話をいつまでも続けていけたなら、どんなにか平穏なひとときだったろう。
「じゃあ、なんのためにこんな無意味なことを──」
「おまえをおびき寄せるためだ」
楽しんでいた気持ちを押し込め、寄りかかっていた机から離れる。
「囮……ということですか」
空腹を満たすのなら、腹八分目まで。惜しむ気持ちを残すくらいがいい。満腹になってしまったら、次の楽しみがなくなってしまう。
幸せも平穏も、八分目くらいでちょうどいい。
「俺が一人でいりゃおまえから来るだろうし、現にそうだったろ?」
わずかな時間とはいえ、ゆっくり話すことも叶った。これ以上望むほどの欲はない。ならばここからは、彼の決意を存分に受け止め、リディオルなりの回答でもって返すのが礼儀だろう。
眉根を下げてこちらを見上げてくる彼を、リディオルはしかと捉えた。
「なぁ──天才少年」