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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
七章 アルティナ王国Ⅳ
143/207

143,告げない理由は彼の中


 両手を拘束するためにはめられた鉄の輪。壁に固定はされないものの、自由には動かせない。足には何もつけられておらず、歩けるは歩けるのだが、歩いたところで距離なんてたかが知れたこと。

 壁に沿って四歩、奥まで三歩。それが今のシェリックに許可された自由だ。

 あの場所よりは広い。けれどもあの場所よりは厳重だ。人の気配がして、清潔で、さざ波も立たないくらいに凪いだ心がある。まるでシェリック以外の誰かが、今のシェリックの状況を傍観しているように。

 ぼんやりと浮かべる思考の中で、その誰かはいつかの光景と比べている。アルティナ王国とは海で隔てられた地にあった、最果ての牢屋。それも、霞の向こうにあるようなおぼろげな姿しか浮かばない。ラスターに連れ出だされてから、もう三年も経ったのか。


 ひんやりと絶えず肌を冷やす空気も、余計な音が何も聞こえてこない静寂も。懐古を呼び寄せるくらいには懐かしいと言えよう。

 薄皮一枚隔てた感情を何の感慨も浮かばずに眺めて、ぽつりと教えてやる。

 ここはあの地ではない。死の匂いしか漂っていなかった、あの牢屋ではない。そうだ。違う。ここは、アルティナだ。

 湿っぽくかびた匂いなどないのに、あるとすら錯覚してしまうほどに、忘れていた感覚を呼び起こす。目を閉じれば、預けた背中から、シェリックに似た誰かと入れ替わることを余儀なくされそうだ。


 鉄格子の向こう側。うしろに手を組み、背を向けて佇む姿をじっと見る。最果ての牢屋に、牢番なんて者はいなかった。たまにふらっとやってきては、二、三言世間話をしていなくなる、覇気もやる気もない看守しかいなかった。

 あの看守と比べるならば、誰でも職務熱心だと称せるほどだ。しかしながら、ここに立つ牢番の姿からは、背中だけでも誇りと使命を帯びているのだと感じられる。

 一日に四度、牢番の交代がある。もちろん牢番の人物はそのたびに代わるが、彼がそこにいるときはすぐにわかる。

 決して緩むことのない背中。軽く開かれた足も肩もぴんと張られ、この職務を遂行するのだという意志を全身で表しているようだ。

 彼はここにいる。あの看守ではない。

 右片方の膝を立て、両目をつむり、言い聞かせる。動く鼓動に、流れる血脈に、全身に侵食しかける疑惑に。

 シェリックもここにいる。これは、自分以外の誰でもないのだと。


「──ご気分はいかがですか?」


 ためらいがちな声に、閉じていた瞼を押し上げる。いつの間に客人が来ていたのか。

 牢番の彼は視界から消えている。聞かれて困ることなどないのに。こんな状況でも気遣いがにじんだ牢番と、目の前にいる彼の様子に苦笑する。ありがたいはありがたいが──そんなことをしなくてもいいものを。


「良くは、ないな」

「そうですか」


 弱ったような、困ったような笑顔を見せる。そんな質問をしてしまったフィノ自身を責めているように思えてしまった。


「考えごとをしていただけだ。この処置に不満があるわけでも、おまえに不満があるわけでもない」

「──はい」


 フィノは手に持っていた盆を足元に置く。

 漂ってくる香りに目を伏せる。気を抜けば持っていかれかける意識から目を逸らし、フィノへと首を振る。


「悪いフィノ、下げてくれないか」

「ですが、何か食べておかないと」

「いや──身体が受けつけない」


 付け加えると、フィノが口をつぐんだ。

 食欲は人が持つ三大欲求のひとつだ。知っている。心のどこかで叫ぶ声がある。食らえばいいと。生きるためには食べなければならないと。

 その声に従うのが正しいのだろう。生きるための行為であり、術なのだから。


「せめて、水分だけでもお取りください。死ぬおつもりでは、ないのでしょう?」


 ──今は、もう諦めてない?


「──ああ」


 この場にはいない彼女へも答える。シェリックが諦めてしまったら、彼女を泣き止ませてやることができない。笑ってほしいと願った、彼女を。またシェリックが、泣かせてしまったから。

 今は泣いていないだろうか。笑っているだろうか──愚かな問いかけだ。

 シェリックがしてしまったことを棚に上げて、笑っていてほしいと願うだなんて。


「俺はどうなる?」

「まだ、わかりません。考えうる限りでは国外追放か、あるいは……」

「処刑されるか、か」


 言葉を濁したフィノの後を継ぐ。当然の罰だ。シェリックは人を殺そうとしたのだから。禁術を行うことも、人を殺すことも、どちらも人の理を犯す行為に違いない。それだけ処罰が重くなるのは自明の理だ。


「ラスター殿が、目を覚ましました」

「──」


 一瞬だった。

 思いもしなかった位置から放たれたひと言に、とっさの反応ができなかったのは。


「レーシェ殿は、ラスター殿をラディラに帰すと、公言しては息まいております。あなたが出てくるより先に、あるいは……」

「それが最善の処置なら、仕方ないだろう」

「シェリック殿」


 鉄格子が軋んだ声を上げる。ほんの一音、そこに余韻を残して。


「俺に止める権利はない」

「あなたはそれで、いいんですか?」


 出てこようとする思いをせき止めるべく、シェリックは額を押さえる。

 レーシェが決めたことなら。ラスターが頷いたことなら。もう、シェリックがそれ以上言うことはない。だから、シェリックがシェリックであるうちに。


「──フィノ」

「なんでしょうか」

「ひとつだけ、頼みがある」


 うなだれたフィノが、のろのろと顔を上げる。

 せめて、ひとつだけ。考えていたことを。望んだ未来の一端を。彼女が笑顔でいられるための準備を。

 シェリックはフィノに伝える。来るであろう反応にも、予想がつきながら。



  **



 扉をしめると同時に、ぎょっとする。

 先に出ていた彼女がまだそこにいたのを見つけ、リディオルは目をあさっての方向へと逸らした。

 なぜ、ここに。

 できることなら素知らぬふりをして遠ざかってしまいたいが、どう進んだところで彼女に見つかるだろう。治療室に戻ったところで、またこの光景に出くわす可能性もある。ならば、腹をくくった方がよほどいい。彼女が何を待ち、誰を待ち、あるいは何をしているのかは知らないが。


「まだ残っていらしたんですか。エーギルたちが首を長くしてるんじゃありませんかね?」


 彼女に気づかれる前に声をかけたのは、せめてもの反抗心からだった。

 適当なところで切り上げようと心に決める。


「彼らはこの程度待てないほど短気ではありません。それに、私にはまだ用事が残っていましたから」


 中に入らずにここで待つ。その意味。

 考えたところで時間を浪費するだけだ。もの好き、で済ませることにする。


「誰かお待ちですか、ジルク殿」

「ええ。あなたを」


 当たり障りのない世間話だけで通り過ぎるつもりだった。まさかの当事者。

 予想外、なんて言葉で片づけられたならどれだけ良かっただろう。

 彼女の待ち人がリディオルである予想もしていたけれど、低い確率だった。これで完璧に無視して素通りするわけにもいかなかったではないか。


「これだけ疑いながら、まだ足りませんかね? ジルク殿」

「すぐ終わります」


 悪びれもせず答えられる。どうやら、こちらの意見を聞き入れるつもりはないようだ。苦手な人物に慣れない装飾品。

 脳裏によぎったのは十日前のやり取りだ。ろくな説明もなしに強要された事態。リディオルでなくても辟易するだろう。待ち伏せされていたということは、どうやらその続きをやるのらしい。

 したくなかった観念に山ほどの愚痴と文句を積み上げて、さあどれだけジルクに渡せるのだろうか。丁重に包んで差し出すだけでは足りない。不満と鬱憤をおまけにつけておきたいと思うくらいには。


「では、せっかくなので教えてもらえますかね? 俺に、こいつをつけた理由を」


 リディオルは自身の腕を見せた。

 動かすたびに、綺麗な音を出しては存在を示してくれる。例にもれず、今もそうだ。しゃらしゃらと。忘れてはならないと、涼しい声で主張をしてくれる、この腕輪の意味を。


「既にご説明はしたはずです。納得していないということでしょうか?」

「あんな短い説明で納得する奴がいると思います?」

「あなたはそういう方でしたね」

「別に俺が特別ではありませんよ。それに、俺を拘束したって無駄です。この王宮の事件は終わりません」


 ろくな説明もなしに納得する人間がどれほどいるのだろう。

 いや、それで納得できると思われているのがお門違いだ。彼女はそんな迂闊な人物だっただろうか。


「少なからず、あなたの動きは制限できます。今まで通りには動けないでしょう」

「ええ、そうでしょうね。それが愚策だと気づいていただきたい」


 幅を決められた自由。通行禁止の扉。翼をもがれた鳥だと言いたげに。


「何度も言いますが、あいつに賢人たちは殺せません。三年前、嬢ちゃんによって最果ての牢屋から出されたあと、あいつはラディラにいたんですから。渡航履歴を調べてみりゃ一発でしょうが」

「そのとおりです。ただ、シェリック殿お一人でことを成したなら、不可能でしょう」


 注がれる視線がリディオルを逃がしてくれない。


「あなた、あれほど王宮を空けられてどこにいたんです? 賢人でありながら、業務をないがしろにして」

「ないがしろにしたつもりはありませんよ。優秀な見習いたちにあとを任せて、俺は別件に取りかかっていただけですと、お伝えしましたが?」

「その別件は、どなたかに乞われましたか? それとも、ご自身の用事でしょうか?」

「なぜそれをあなたに逐一報告しなきゃいけないんです?」

「疑われているという自覚はおありですか、リディオル殿」

「ええ、十分に。守秘義務がありましてね、俺の口からは言えません」


 どこがすぐ終わる、だ。

 そう前置きされるときに限って、すぐになど決して終わらない。それとも、彼女とリディオルの時間の流れが違うとでも言い訳するつもりか。

 口を休めていたジルクが、こんなことを尋ねてきた。


「どうしてあなた、彼の傍にいたのです?」


 口調。声質。目線。リディオルから見えるところに変化は見えない。──見せない。

 質問の雰囲気が、変わった気がした。


「別に四六時中いたわけじゃありません。元をたどれば、シャレル様からの命令に従っただけですよ」

「王宮に呼び戻したあとも、ことあるごとに彼の傍にいたではありませんか」

「用事がありましたのでね。理由もなしに、ともにはいませんでした」

「その用事、まだ達成されていないのではありませんか?」


 この状況だけでは飽き足らないと言わんばかりに。食い下がられる。執拗に。

 獲物を狙う捕食者が、少しずつ攻撃を加えて弱らせていくように。喉元へ、その牙を突き立てる瞬間を、虎視眈々と見定めて。加えてこうもあからさまな感情を向けられて、いい気分になりはしない。

 捕食者? 獲物? 誰が? 冗談ではない。


「──回りくどいやり取りはやめませんか? 俺に、何が言いたいんです?」


 どこまでも変化の乏しい彼女が憎らしい。表情だけでなく、その声音も、涼しい目も。何の手の内も明かさず、リディオルに受け答えする彼女が。


「あなたを協力者として考えると、どうしても解せない点がありまして」


 リディオルをじ、と見つめてくる。


「あなたが彼とともにいた理由です」


 幼い子どもが、抱いた純粋な疑問を口にするみたいに。


「以前からの友人の傍にいる理由なんて必要ですかね?」

「ええ。あなたは協力者などではない。あなたは目的があって、彼に近づいた。以前から親しかったあなたには、容易かったでしょう。彼を連れてくる立場は絶好の機会だった。なぜなら、あなたは彼すらも利用しようとしていたからです。彼に疑いがかかるように仕向けて、あなたは一人安全な場所で眺めていた」

「その説明、俺に利益があるように思えませんが?」

「そうでしょうか? では、言い方を変えましょう」


 ──すぐにでも、去ってしまえば良かった。


「あなたが彼の傍にいたのは、お兄さんの復讐のためではないのですか? リディオル=マゴス殿──いえ、」


 余計な反抗心など出さず、世間話もせず、律義に話を待ったりもせずに、この場から去ってしまえば。

 逃げられる機会は、とうになかった。

 遅れた後悔がリディオルの行動を糾弾する。

 逃がしはしないとばかりに、彼女の目がリディオルを離さない。

 うすうす気づいていたのだ。呼び止められたときから。逃げも隠れもできはしないのだと。


「ナル=ハクレシア殿?」


 底なし沼から伸ばされた腕のように。確信した問いかけが、リディオルの足を絡めとった。



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