140,導かれた現実に
願わずにはいられない。
何度も、何度も。
うとうとと微睡みに浸っていると、どこか遠くからさえずりが聞こえてきた。
楽しそうなふたつの声。何を話しているのだろう。もっとよく聞こうと耳を集中させた途端に、二羽が飛び立ってしまった。
とんとんと。刃物が木の板を何度も叩く小気味よさ。その軽快さと一緒に漂ってくる香りが、外の明るさをも教えてくれる。
さわさわと。気持ちよさそうな風は、透明な硝子の向こう側だ。風に任せて枝葉を伸ばし、気ままに踊っているのだろう。細い枝を揺らして、葉っぱ同士がくすぐり合い、より一層大きな声を上げる。
いつもの朝。穏やかで、平和で、和やかな日常。
ずっとここにいたい。起きてしまうのがもったいないくらいだ。
けれども起きなければ。祖母の仕事を手伝わなければならないから。
おはようって挨拶をして、半分しか開かない目を擦りながら顔を洗って、飛び上がりそうなくらいの冷たさで目が覚めて、それを見ていた祖母が笑って、ラスターはちょっとだけ怒って、一緒にご飯の支度をするのだ。そうして、一日が始まる。
だから、おはようって言うために、まずは起きなければ。
起きようと思うのに、瞼が重い。半分どころではなく、開かない。苦労して開けても、その一瞬後には閉じてしまいたくて仕方ない。
指先を動かすのも億劫で、首を傾ける動作すら苦痛だった。首よりまだ自由が利く目を、見える限り動かして、ラスターは見つける。壁際にいた、しゃっきりとした背中を。
見慣れた真っ直ぐな姿勢が、夢からの帰還を教えてくれた気がした。
「──ねえ、おばあちゃん」
呼びかけたラスターに気づき、祖母はゆっくりと振り返る。
「夢、見たよ」
「そう。どんな夢?」
頭ががんがんと響いて、とにかく重い。
「旅する夢」
「旅?」
「うん」
色んなものを見て、様々な人に出会った。
「家から出て、船に乗って、違う国まで行ったんだ。そしたら、お母さんに会えた。元気そうだったよ。おばあちゃんにお土産も買って、一緒に食べようって思ったんだ」
「何を買ったの?」
「飴っていう、東国のお菓子だよ」
ラスターは目を閉じて、聞いてくれる祖母にぽつりぽつりと話す。
「凄いんだ。職人さんがいて、飴を鋏で切って、それがあっという間に植物とか生き物になってて、魔法みたいだった。生きてるみたいだったんだ」
「そう。良かったわね」
「うん。伝統芸だって、教えてもらって──」
教えてもらった。それは、誰に?
そのとき、視界の端で何かが目についた。
壁に立てかけている棍。くたびれた羽織りもの。比較的新しい黒い外套。見慣れないのに、見覚えのあるものたち。
薬草を探すとき、草をかき分けるのに便利で、ラスターがいつも持参していた相棒。あれは、あんなに汚れていただろうか。
夢? 本当に? 全て夢でのできごとだったのか?
ならば、今そこにいる祖母は? ここは、本当にラスターの家だったか?
よく見ればわかる。ここが、ラスターの家ではないこと。そこにいるのは祖母ではないこと。では、ここは、彼女は、ラスターは──
「おか──」
「忘れなさい」
それ以上は口にさせないと。言葉にすることは許さないと。ラスターの口を封じるかのごとく彼女は言う。黙ったラスターを見届けて、彼女は壁際に戻ってしまう。
何を間違った。何が違っていた。
ラスターは必死に記憶をたどる。
ラスターは知っている。全てが夢ではないことを。どこからだ。どこまでが夢で、どこからが現実で。その境はどこなのだ。何が起きて、どうしてここにいるのだ。
森の中を探検したのは。祖母に告げて家から出てきたのは。最果てと呼ばれた牢屋に行ったのは。そこで出会って、共にアルティナまで来たのは。ラスターがずっと知りたかった話を教えてくれたのは。彼が伸ばした手の先にあったのは──
布団をはねのけ、彼女の背中を探す。見つけたそこ目掛けて床に足を下ろすも、うまく立てずに転んでしまう。どうして、立てないのだろう。
「ラスター!?」
音に気づき、駆け寄ってきたレーシェの腕にすがりつく。
「──ねえ!」
近づけないなら、引き寄せればいい。この機会を、逃してはなるものか。
「シェリックはどこ!?」
できる限りの力を込めて、口をつぐんだレーシェへなおも声を張り上げた。
「お母さんも、リディオルも、ユノもここにいた。でも、シェリックのことだけ教えてくれなかった! ねえ、シェリックはどこにいるの!」
「落ち着きなさい、ラスター」
「どうしてシェリックだけいないの!」
困らせてはいけない。迷惑をかけちゃいけない。頭ではわかっているのに、言葉が止まらない。
誰も教えてくれなかった。彼の居場所を、知りたいのに。
「シェリックはどこ? シェリックは、どうなるの?」
「あなたが知る必要はないわ。もう、忘れなさい」
「嫌だ。ボクは当事者だ。知る権利があるよ」
「それを知って、あなたはどうするの?」
ぴりっとした、低い声だった。今度はラスターが口を閉ざす番だった。
「いる場所を知って、会いに行って、許すつもり? あなたがどれだけ会いたかったとしても、私は絶対に会わせないわ」
「どうして! ボクは──」
「殺されかけたのよ、あなた!」
ラスターが初めて見る剣幕で、レーシェはラスターの言葉を遮った。
「簡単に許すなんて言わせないわ。あなたが許したとしても、私が許すものですか」
勢いに呑まれ、言葉が出てこない。
「帰りましょう、ラスター。おばあちゃんのところへ」
「……嫌だよ」
ふり絞った声はかすれていて、とてもじゃないが聞けたものじゃない。
「帰って、全て忘れなさい」
「嫌だよ!」
言わないで。そんなことを。
無理だとか、忘れろとか。誰も彼も、どうしてラスターにそんなことを言うのだ。
忘れられないのに。忘れたくないのに。覚えていてはいけないのは、どうして?
レーシェの顔が、徐々にぼんやりと歪んでいく。レーシェは両手でラスターの手を包み込んで、ラスターの目線の高さに合わせてくれた。
「──あなたはここに、来るべきじゃなかった」
言わないで。そんな、悲しい顔をして。
目の端に浮かぶうっすらとした涙が、彼女の言葉を全て語っていた。
願わずにはいられない。
何度も、何度も、繰り返し。
夢だったら良かったのに。どこまでも、夢であったなら幸せだったのに。
どうしようもなく、涙が止まらなかった。