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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
七章 アルティナ王国Ⅳ
139/207

139,夢の終わりは立ち消えて


 ぺたぺたと。

 懐かしい音がするのは、どうしてだろう。

 吐いた息が白いのに、寒くないのはどうしてだろう。

 変なところだ。ここにいるのに、本当は違うみたいな、ふんわりとした幻に包まれているような、曖昧なところ。


 帰らなきゃ。

 ここではないどこかへ。


 そう思うのに、どこへ帰ればいいのだろう。どちらが帰る道なのだろう。悩む間もなく、足は既に動いている。目指す場所へ。それがどこなのか、思い当たる節もないのに。ふたつの足だけが、目的地を知っている。

 どこへ向かっているのだろう。ただ足の動くままに任せて進むだけ。

 どこへ? ──わからない。帰り着くのか、別の場所に行こうとしているのか。けれど、行かなくてはならない気がする。それが使命だとでも言いたそうに、止まない歩みが教えてくれる。説明する時間も惜しそうに。


 ぺたぺたと。


 響かないその音は、すぐに消えてしまう。反響しない、幼い足音。

 懐かしい音がするのは、靴を履いていないからだ。裸足のまま、歩いているからだ。

 寒いと感じないのは、寒さを感じていないからだ。試しに叩いてみた頬は、何とも感じなかったのだから。

 そう。だからこれは、夢だ。きっと、夢なのだ。

 そうでなければ、一歩先すらも判別しづらい中を、どことも知らずに歩くなんてしない。帰らなくてはならないのに、帰る場所がわからないなんて、絶対にない。

 どこへ向かっているのかも、何をしようとしているのかもわからないなんて。


 帰りたいと。その思いだけが胸を焦がす。苦しくなって吐き出した息が、まるで灯火のように周囲へと散った。

 吸い込んだ空気が鼻を突く。かび臭い、湿った匂い。それと同時に漂ってくるのは生臭さと、血によく似た臭い。

 いつの間にか靴を履き、辺りがぼんやりと明るくなっている。それでもこの足は、自分の意思とは関係なしに歩いてゆく。


 ──ああ、覚えている。ここは、あの場所だ。

 止まることを忘れてしまった車輪みたいに、ふたつの足はひたすら奥を目指す。今度は意思を持って。

 行かなければならない。

 だって、きっと、一番奥には彼がいる。抑えきれないおかしさを隠しもせず、笑っている。ほら、微かに聞こえてきた。凝らした目にも入ってきた。消えない闇をはらんだ牢屋へ、吸い寄せられるようにたどり着く。


「何がおかしいの?」


 あのときと同じように、ラスターは彼に問いかけた。暗がりの中にいる、彼へと。暗がりそのものの彼へと。


「──あんたは、誰だ? どうしてここにいる?」

「……わからない」


 どうしてここにいるのか。行かなければならなかったのは、ここのはずなのに。

 つかんだ鉄格子はびくともしない。押しても引いても、開くどころか動きもしない。

 どうしてあのときとは違うのか。

 慣れた感触が思い出す。手に持っていたことを忘れていた。ずっと、ラスターとともにいた相棒。一本の棍。開けなければ。この扉を。この牢を。彼に会わなければ。

 力任せに振り下ろすも、あとからやってきた痺れが棍を取り落とす。


「ったー……」


 そうだ。開くわけがない。ここは、確か壊れていた。壊れていると、彼がそう言って──


「おまえじゃ無理だ」


 薄く笑われていた気配がなくなる。他人行儀だった彼の声音が、聞き覚えのあるものへと変わる。

 一縷いちるの望みを抱いて、暗闇の奥にうずくまる影を捉えた。ラスターがわかるのかと。

 薄汚れた囚人服。ぼろきれに等しい服をまとったのは、あの頃のままの彼だった。


「……そんなコトない」


 どうしてだろう。


「そんなコト、絶対ない!」


 飛びついた鉄格子が鈍く反響する。

 苦しい。夢なのに。夢でのできごとなのに。痛みなんて感じないはずなのに。

 頭がずきずきする。胸の真ん中がぎゅっとなって、どうしようもなく苦しい。

 どうして彼が見えない。

 どうして彼に近づけない。

 どうして、今の彼がここにいない。

 開いているはずの牢屋に入れない。彼に会えない。声だけが聞こえるのに、声だけしか聞こえない。

 あのときとは違うからか。では、同じやり取りを繰り返せば、あるいは──


「だって、おまえは知らないだろう?」


 伸びてきた手がラスターの手首を捕まえる。ラスターが近づけなかったのが嘘みたいに、その距離をものともしない。ゆらりと覆いかぶさってきた影を見上げても、やはりその顔は見えない。

 目が離せない。動けない。逃げられない。

 ──逃げる? 逃げるとは、何から? 彼から? どうして? どうして逃げる必要があるのだ?

 されるがままにつかまれる。引き寄せられる。忘れない。その手は大きく、優しかった。ラスターの頭をなでてくれて、ラスターの手を引っ張ってくれて、いつでも助けてくれた。それなのに。

 首元へと伸びてきているこの手は何だ。こんなもの、知らない。初めて明確に、その感情が浮かんできた。


 ──怖い。


「俺はずっと、おまえを──」


 強く、強く、力が込められて。


「あ、あああぁぁぁぁぁ!」


 言葉にならない叫びが、喉からほとばしった。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ。

 聞きたくない。思いたくない。考えたくない。認めたくない。彼の思いを。あざむかれていたことを。嘘を吐かれていたことを。

 彼がずっと、本当はずっと、ラスターを恨んでいたことを。


 知りたくなかった。

 けれど、知ってしまった。

 彼の本音を。内に隠していた本当の言葉を。彼自身のその手で、知ってしまった。

 ずっと知りたくて、知るわけにはいかなくて、それでも知らなければならなくて。

 聞くことを決めたのはラスターだった。話してくれたのは彼だった。それすらも作り話だった?

 つむった目が訴える。ふさいだ耳が拒絶する。何も見るなと、何も聞くなと。戻ってきてはならないと。


 帰りたかったのに、わからなかったのは。迷い込んでしまったのは。帰ってきてはならないと、ラスターが拒んでいたからだ。だって、こんなにも痛くて苦しくて堪らない。

 力任せに解かれた腕に、ラスターは全力でもってして首を振った。見たくないなら見なければいい。塞げないなら聞けなければいい。叫んだ声が全てを隠してくれるから。

 何も。もう何ひとつとして、知らずにいられたならいいのに。何も感じなければ良かったのに──


「──ラスター!」


 聞き慣れないその声が、ラスターの絶叫を封じた。

 つかまれた両腕。上がった息。白と黒。薬品の匂い。誰かの安堵。ここは。この人は。


「……ここが、どこだかわかるかよ?」


 ラスターを呼んだその人が確認を促してくる。白い布団。白い寝台。いつかと違う目線が、ぎこちない頭が、かろうじてその単語を探し当てた。


「──ちりょう、しつ……?」

「上出来だ」


 つかまれていた両手がそっと下ろされ、布団の上に収まる。そこから動かせなかった。

 ラスターの腕なのに、ラスターのものではないみたいだ。首を動かしてそちらを見る。握られていたところが赤くなっていた。じんじんするのに、そこから伝わる熱だけが、ラスターに温度を伝えてくる。


「……リディオル……なんで、いるの」

「いちゃわりぃかよ」

「お母さん、は?」

「ここにいる」

「ユノ、は?」

「ユノもいる」

「──シェリック、は?」


 よどみなく返っていた答えが途切れる。

 ほんの一瞬。


「ねえ、シェリックは?」

「あいつはいねぇよ」

「どうして?」

「別の場所にいる」

「どうしてここにいないの?」


 彼がいない。

 それが、何よりの答え。

 夢は、夢などではなかった。彼は、ここにいない。


「ラスター、一度眠りましょう」


 別の声が降ってくる。ラスターの肩に何かがかけられる。渡された水を飲んで、寝かしつけられる。寝たくないのに、眠さに抗えない。眠くて眠くて、起きていられない。その前に聞きたい。

 リディオルは何でも教えてくれた。はぐらかされたときもあったけれど、リディオルは質問に答えてくれた。なのに。


「──シェリックは、どこ?」


 その問いかけだけは、答えてくれなかった。




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