139,夢の終わりは立ち消えて
ぺたぺたと。
懐かしい音がするのは、どうしてだろう。
吐いた息が白いのに、寒くないのはどうしてだろう。
変なところだ。ここにいるのに、本当は違うみたいな、ふんわりとした幻に包まれているような、曖昧なところ。
帰らなきゃ。
ここではないどこかへ。
そう思うのに、どこへ帰ればいいのだろう。どちらが帰る道なのだろう。悩む間もなく、足は既に動いている。目指す場所へ。それがどこなのか、思い当たる節もないのに。ふたつの足だけが、目的地を知っている。
どこへ向かっているのだろう。ただ足の動くままに任せて進むだけ。
どこへ? ──わからない。帰り着くのか、別の場所に行こうとしているのか。けれど、行かなくてはならない気がする。それが使命だとでも言いたそうに、止まない歩みが教えてくれる。説明する時間も惜しそうに。
ぺたぺたと。
響かないその音は、すぐに消えてしまう。反響しない、幼い足音。
懐かしい音がするのは、靴を履いていないからだ。裸足のまま、歩いているからだ。
寒いと感じないのは、寒さを感じていないからだ。試しに叩いてみた頬は、何とも感じなかったのだから。
そう。だからこれは、夢だ。きっと、夢なのだ。
そうでなければ、一歩先すらも判別しづらい中を、どことも知らずに歩くなんてしない。帰らなくてはならないのに、帰る場所がわからないなんて、絶対にない。
どこへ向かっているのかも、何をしようとしているのかもわからないなんて。
帰りたいと。その思いだけが胸を焦がす。苦しくなって吐き出した息が、まるで灯火のように周囲へと散った。
吸い込んだ空気が鼻を突く。かび臭い、湿った匂い。それと同時に漂ってくるのは生臭さと、血によく似た臭い。
いつの間にか靴を履き、辺りがぼんやりと明るくなっている。それでもこの足は、自分の意思とは関係なしに歩いてゆく。
──ああ、覚えている。ここは、あの場所だ。
止まることを忘れてしまった車輪みたいに、ふたつの足はひたすら奥を目指す。今度は意思を持って。
行かなければならない。
だって、きっと、一番奥には彼がいる。抑えきれないおかしさを隠しもせず、笑っている。ほら、微かに聞こえてきた。凝らした目にも入ってきた。消えない闇を孕んだ牢屋へ、吸い寄せられるようにたどり着く。
「何がおかしいの?」
あのときと同じように、ラスターは彼に問いかけた。暗がりの中にいる、彼へと。暗がりそのものの彼へと。
「──あんたは、誰だ? どうしてここにいる?」
「……わからない」
どうしてここにいるのか。行かなければならなかったのは、ここのはずなのに。
つかんだ鉄格子はびくともしない。押しても引いても、開くどころか動きもしない。
どうしてあのときとは違うのか。
慣れた感触が思い出す。手に持っていたことを忘れていた。ずっと、ラスターとともにいた相棒。一本の棍。開けなければ。この扉を。この牢を。彼に会わなければ。
力任せに振り下ろすも、あとからやってきた痺れが棍を取り落とす。
「ったー……」
そうだ。開くわけがない。ここは、確か壊れていた。壊れていると、彼がそう言って──
「おまえじゃ無理だ」
薄く笑われていた気配がなくなる。他人行儀だった彼の声音が、聞き覚えのあるものへと変わる。
一縷の望みを抱いて、暗闇の奥にうずくまる影を捉えた。ラスターがわかるのかと。
薄汚れた囚人服。ぼろきれに等しい服をまとったのは、あの頃のままの彼だった。
「……そんなコトない」
どうしてだろう。
「そんなコト、絶対ない!」
飛びついた鉄格子が鈍く反響する。
苦しい。夢なのに。夢でのできごとなのに。痛みなんて感じないはずなのに。
頭がずきずきする。胸の真ん中がぎゅっとなって、どうしようもなく苦しい。
どうして彼が見えない。
どうして彼に近づけない。
どうして、今の彼がここにいない。
開いているはずの牢屋に入れない。彼に会えない。声だけが聞こえるのに、声だけしか聞こえない。
あのときとは違うからか。では、同じやり取りを繰り返せば、あるいは──
「だって、おまえは知らないだろう?」
伸びてきた手がラスターの手首を捕まえる。ラスターが近づけなかったのが嘘みたいに、その距離をものともしない。ゆらりと覆いかぶさってきた影を見上げても、やはりその顔は見えない。
目が離せない。動けない。逃げられない。
──逃げる? 逃げるとは、何から? 彼から? どうして? どうして逃げる必要があるのだ?
されるがままにつかまれる。引き寄せられる。忘れない。その手は大きく、優しかった。ラスターの頭をなでてくれて、ラスターの手を引っ張ってくれて、いつでも助けてくれた。それなのに。
首元へと伸びてきているこの手は何だ。こんなもの、知らない。初めて明確に、その感情が浮かんできた。
──怖い。
「俺はずっと、おまえを──」
強く、強く、力が込められて。
「あ、あああぁぁぁぁぁ!」
言葉にならない叫びが、喉からほとばしった。
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
聞きたくない。思いたくない。考えたくない。認めたくない。彼の思いを。欺かれていたことを。嘘を吐かれていたことを。
彼がずっと、本当はずっと、ラスターを恨んでいたことを。
知りたくなかった。
けれど、知ってしまった。
彼の本音を。内に隠していた本当の言葉を。彼自身のその手で、知ってしまった。
ずっと知りたくて、知るわけにはいかなくて、それでも知らなければならなくて。
聞くことを決めたのはラスターだった。話してくれたのは彼だった。それすらも作り話だった?
つむった目が訴える。塞いだ耳が拒絶する。何も見るなと、何も聞くなと。戻ってきてはならないと。
帰りたかったのに、わからなかったのは。迷い込んでしまったのは。帰ってきてはならないと、ラスターが拒んでいたからだ。だって、こんなにも痛くて苦しくて堪らない。
力任せに解かれた腕に、ラスターは全力でもってして首を振った。見たくないなら見なければいい。塞げないなら聞けなければいい。叫んだ声が全てを隠してくれるから。
何も。もう何ひとつとして、知らずにいられたならいいのに。何も感じなければ良かったのに──
「──ラスター!」
聞き慣れないその声が、ラスターの絶叫を封じた。
つかまれた両腕。上がった息。白と黒。薬品の匂い。誰かの安堵。ここは。この人は。
「……ここが、どこだかわかるかよ?」
ラスターを呼んだその人が確認を促してくる。白い布団。白い寝台。いつかと違う目線が、ぎこちない頭が、かろうじてその単語を探し当てた。
「──ちりょう、しつ……?」
「上出来だ」
つかまれていた両手がそっと下ろされ、布団の上に収まる。そこから動かせなかった。
ラスターの腕なのに、ラスターのものではないみたいだ。首を動かしてそちらを見る。握られていたところが赤くなっていた。じんじんするのに、そこから伝わる熱だけが、ラスターに温度を伝えてくる。
「……リディオル……なんで、いるの」
「いちゃわりぃかよ」
「お母さん、は?」
「ここにいる」
「ユノ、は?」
「ユノもいる」
「──シェリック、は?」
よどみなく返っていた答えが途切れる。
ほんの一瞬。
「ねえ、シェリックは?」
「あいつはいねぇよ」
「どうして?」
「別の場所にいる」
「どうしてここにいないの?」
彼がいない。
それが、何よりの答え。
夢は、夢などではなかった。彼は、ここにいない。
「ラスター、一度眠りましょう」
別の声が降ってくる。ラスターの肩に何かがかけられる。渡された水を飲んで、寝かしつけられる。寝たくないのに、眠さに抗えない。眠くて眠くて、起きていられない。その前に聞きたい。
リディオルは何でも教えてくれた。はぐらかされたときもあったけれど、リディオルは質問に答えてくれた。なのに。
「──シェリックは、どこ?」
その問いかけだけは、答えてくれなかった。