137,あなたはずっと、初めから
目的。頭の中を整理するため。
理由。じっとしていたら思い出してしまうから。ただし、あてはない。
並びたてたところで答えはひとつ。要は、観測塔に留まっていたくなかっただけだ。
行き先も、わけもなく。シェリックは、足の進むままに歩いていた。
訂正をしよう。観測塔にいたくなかったのではなく、ひとところにじっとしていたくなかったのだ。昨日からずっとシェリックの頭の中に占められているのは、レーシェとの会話だったから。彼女がやってきたことで、余計鮮明になってしまった。
──私を見ながら、その向こうに一体誰を見ているの?
ただひと言。たったひと言。違うと、自分の目に映っていたのはレーシェだけだったと。シェリックはとうとう否定できなかった。
レーシェは亡くなったと思っていた。六年前のあのときに。もう二度と会えないと。ギアに言われたとおり、禁術でしか呼び出せないと。
だから、知らず知らずのうちにラスターを身代わりにして、レーシェにできなかったことをラスターにしてやって。それで満足してしまったのだろう。けれども、シェリックの中でもどうしても満たされない部分が残って──それは、レーシェを失ったことに対する罪悪感と喪失感だと思っていた。
では、シェリックが抱いていたこの思いは? レーシェに向けていたこの感情は? レーシェがいうように恋慕でないなら、一体何だったというのだ。
憧憬? 尊敬? 崇拝? どれもしっくりくる表現ではない。
考えたところで堂々巡りだとわかっている。ひと晩明けて答えは出なかった。後回しにしてわかる解答でもない。
昨日はレーシェと別れてから繰り返し自問自答をし、出るわけのない答えを延々と探していた。観測塔に戻る気にもなれず、ふと目についた花壇の端に腰をかけていたそのときだった。シェリックに、声がかけられたのは。
──どうしたの?
シェリックのことを弱っていると言っていたラスターこそ、弱っているように見えて。指摘をしたらちょっと大変だったからと、笑っていた。占星術師に見習いはいるのかと訊かれて、答えて──
どうして話そうと思ったのだろう。彼を思い起こしてしまったからか、禁術を行使したあの日を振り返りたかったからか。
気づいたら話をしていた。シェリックがしてしまったことを。六年前の、あの日のことを。
ラスターはじっと耳を澄ませて、シェリックに全身を傾けて聞いてくれていた。責めるでもなく、非難するでもなく──いや、非難はされたか。
「泣かせるつもりは、なかったんだけどな……」
レーシェを助けたくて、それ以外はどうでも良くて、自分の命すら引き換えにしてでも助けたかった。それがシェリックの本心だったことに間違いはない。
ありのままを説明して隣を向けば、口を横一文字に引き結び、握りこぶしに涙を落としたラスターがいた。
ラスターに泣かれるのはどうにも堪える。こみ上げたであろう激情を吐き出すように。心の奥から押し出されるかのように。昨日ラスターが涙したのは、そのどちらとも違った。口では怒ったと言っていたが、シェリックの身を案じてくれていた。
危なっかしいし、表情はくるくると変わるし、見ていて飽きないといえばそうなのだろう。放っておけないのだ。何をしでかすかわからないし、気づいたらへこんでいるし、妙に頑固だったりもする。
けれどもどんなときだって、シェリックからの呼びかけには笑って応えてくれた。
暗闇を照らす光のような存在。月のように輝いて、シェリックを照らしてくれていた。いつだって。
──いや。
ラスターは、夜よりも昼間が似合う。太陽の下で、ずっと笑っていてほしい。再会できたレーシェと一緒に。
──ああ、そうか。
放っておけなくて、ラスターの笑顔を守りたくて、それがレーシェに看破されていたのだろう。シェリックが見ていたのはレーシェではなく、ラスターだったのだ。どうしてこんな簡単なことがわからなかったのかと思うほどに。レーシェは、それを見抜いていたのだ。
頭が上がらない。昔も、今も。
レーシェがいなければ気づきもしなかっただろう。もう二度と、言葉を交わせないと思っていたから。
少しだけすっきりした思考が、シェリックに空を仰がせる。ラスターを思い出す空を。呑気な雲がぽっかりと浮かび、雲にしては速い速度で太陽の前を横切った。
レーシェは生きていた。ならば、それでいいわけではないか。ラスターにもレーシェにも、シェリックを責める権利があるけれど、何も理由がなかったわけではない。甘んじて受け入れる部分と、シェリックの主張を通させてもらう部分を──
シェリックは足を止めた。
──レーシェは生きていた?
亡くなったと思い込んでいたシェリックにとって、それは朗報だった。もう一度会うことができて、面と向かって話せもした。それは何より、シェリックが望んでいた未来だった。良き知らせだった。なのに、今、何かが引っかかった。
シェリックを迎えに来たリディオル。殺された三人の賢人。シャレルが話した、シェリックの安全を守るため。それは誰から? あるいは何から? リディオルはなんと言った。六年前の事件に関わりがあるかもしれないと。一番危ないのはシェリックではないかと。
──あいつの仇討ちと考えても、無理はないと思わねぇか?
仇討ち。シェリックはレーシェの仇討ちではないかと思っていた。けれども、レーシェは生きていた。リディオルはそれを知っていた。レーシェが生きていることを。ならば、リディオルが言ったのは誰の仇討ちだ? あの事件に関係していて、仇討ちを考えられるような人物は。
「レーシェじゃなくて、ノチェ……いや」
レーシェが禁術を求めた、そのきっかけを作ったその人か。あるいは。
及んでしまった可能性が、シェリックの足を貼りつける。そこから動いてはならないと、言わんばかりに。
「ギア、か……?」
そうだとすれば納得ができる。見習いだったギアの仇討ちとして、ギアを賢人にしなかった王宮に恨みを抱いて。
そうだ。ギアには一人、弟がいた。シェリックと年も近いと。いつか会わせてやりたいと、ギアがそう話していた。彼ならば、恨んでいてもおかしくはない。ギア=ハクレシアその人を失脚させたのだから、王宮が、賢人が、シェリックが、恨まれている可能性は十分にある。
そこまで考えたところで、微かに呼ばれる声がした。
「──ディア」
と。
**
走り出した足を止めたのは、それに気づいてからだった。
シェリックはどこにいるのか。
目指す場所がわからなければ、やみくもに走っていても仕方ない。それに、もしシェリックが観測塔にいるのなら、またあの長い階段を上らなければならない。今度はラスター一人で、あの階段を上るのだ。
想像しただけで足が鈍ってしまった。シェリックがそこにいるというなら、やはり上らなければならない。上まで行かなければ、会えないのだから。
「ディア、かあ……」
試しに口に出してみる。シェリックの背中で目が覚めて、出くわしたフィノから聞いたのは、シェリックのもうひとつの名前だった。
ラスターがつぶやいてみても、今ひとつしっくりとこない。やっぱりシェリックはシェリックだ。それが賢人としての名前であったとしても、ラスターにとっては、シェリックがシェリックという名だ。
──俺の名前は、どちらも本当の名前じゃない。
シェリックでも、ディアでもないと、彼はそう言った。
嘘ばかりの名前で、それしかなくて、その名前で呼ばれるのは、どんな気分なのだろう。そんなの、自分の存在を疑えといっているようなものではないか。何ひとつ定かでない、存在すらあやふやで、いつ失くしてもいいような、そんな危うさもはらんでいて──
ふと、ラスターの視界の隅でよぎるものがあった。
片手で頭を押さえ、もう一方の手で壁に触れて。歩こうとしているも、歩くどころか立つのも危なっかしい体勢の人がいた。その人は、ラスターが今まさに探していた彼ではないだろうか。
「──シェリック?」
慌てて駆け寄り、その背に手を添える。
「え? どうしたの? シェリック? ねえ、大丈夫?」
覗き込んだ顔色の悪さにぞっとする。
まさか、これがそうだというのか。傷のついた星命石に、初めに手を触れた報いだというのか。杞憂でも眉唾ものの話でもなくて。噂はやはり話されていたとおりで。
ラスターではなかった。ユノでもない。初めに手を触れていたのは、やはり──
「頭痛いの? とにかく、治療室まで行こう。シェリック、動ける?」
返事にもならず、うめき声ばかりを上げていたシェリックが、重たそうに頭を上げる。笑った目が、ようやくラスターを捉えてくれた。
「──ああ、こんなところにいたのか」
ひどくかすれた、低く発せられた声。いつもと違う様子に及び腰となりかけるも、ラスターはぐっと踏みとどまる。
いつもと違う。それがどうした。ラスターはかつて、見たことがあるのだ。ずっと前、今よりももっと前。シェリックと初めて会ったときに。鉄格子で隔てられた向こう側で。
怖くなんてない。ラスターはシェリックの力になるのだから。どんなときでも支えるのだと、決めたのだから。助けるのだ。今度こそ、シェリックを。
「歩ける? シェ──」
彼の名前を呼ぶことができず、ラスターの息が詰まった。
「──は、え……っ?」
かけようとした問いかけは、言葉にすらならなかった。
どうしてシェリックが? どうしてそんな笑みを浮かべて、ラスターを見下ろしているのだ。
喉を圧迫するその手を引きはがそうとしても、はがせるどころか力が強まっていく。先ほどまで危うい体勢でいたのが嘘だったかのように。
息ができない。本気だ。シェリックは本気でラスターを殺そうとしている。
どうして? 迷惑ばかりかけてしまったからか。王宮まで帰ってくる羽目になってしまったからか。表面では許してくれていても、奥底では違っていたからか。
それとも、初めから。出会ったあのときのように、一度殺されかけたあのときのように、初めからずっと恨まれていたからか。ラスターが憎くてたまらなかったからか。
シェリックの顔がちかちかと明滅する。もう見えない。わからない。嫌だ、そんなの。だって、まだ、何も返せていない。それなのに。命をもってでしか、償えないなんて。待って。待って。──待って!
「シェリ──」
ごめん、と。
ラスターが告げたかったひと言は、ついに発せなかった。
「──何を、しているんですか! あなたは!」
全てが黒に染まろうかという瞬間だった。ラスターの首にかけられていた圧迫は消え、解放された喉が待ちわびたと言わんばかりに空気を欲する。
「げほっ、ごほっ……は……っ!」
苦しい。圧迫から解放されたというのに、喉も胸も、痛いままだ。
あとから、あとから。ぼやける視界が、現実を直視するなと叫んでいる。見てはならないと、言い聞かせられる。ラスターだって願いたい。全てが嘘で、悪い夢だったなら。
「──あなたは、何をご覧になっているのです!?」
声が聞こえる。誰かの怒声が。何人もの足音が。うずくまったラスターの背中に手が添えられて、何か話しかけられて。それさえも壁となって。
聞こえない。一番聞きたかった声が。いくつもの音に遮られて。景色がにじんで。築かれた障壁の向こうに、いるはずなのに。
──なんで? どうして?
わからない。どうしても。
教えてほしい。ラスターが彼に何をしてしまったのかを。
答えてほしい。ラスターは、殺されるほど憎まれていたのかと。
──シェリック。
声なき声で呼ぶ。
あなたが見えない。
六章 了