133,弔火が昇る、雲の先
初めの頃より細くなった白い煙。
天に向かうのだというよりは、天から垂らされた一本の糸に思える。
糸を伝って下りてくるのは誰か。あるいは、その糸に引かれて上っていくのか。リディオルには、どちらの姿も見出せない。
糸を隠すように空は半分ほどが雲で埋まり、絶え間なく形を変えて空を旅していく。糸にいるはずの誰かが見えないのは、そのせいもあるのだろうか。空を見上げてもわからぬように。ひっそりと帰れるように。その糸は、人と空との、盟約の印だ。
「珍しいすね、リディオル殿。おはようございます」
「はよ。珍しいって、何がだ?」
空の果てなどではなく、地上からやってきた姿。気づいてはいたから、そのうち話しかけてくるだろうと思っていた。
昨夜カルムと交代したばかりだから、睡眠時間が長くても構いはしないのに。
「だってリディオル殿、昼より前に起きてくるの、雨予報くらいしかないじゃないすか」
リディオルの考えを読んだかのようだ。しかし、挨拶の次に失礼なことを言わずともいいものを。
「弔火に限らず誰よりも動いてるっつーの」
「率いるって感じじゃないっすもんね」
「俺が一から十まで指示しなくてもできんだろ。必要があれば、その都度指示は出す」
「助かりますっす」
「初めからそれを言えよ」
世辞でも社交辞令でも、失礼極まりない発言よりは幾分かましだ。
「ありがたいっす」
「はいはい」
「尊敬してますっす」
「……嘘くせぇ」
「本当っすよ。あとは、ええっと」
「あとはいらねぇよ」
どう考えても無理やりひねり出そうとしているアルセを制止する。
前言を撤回しよう。あからさまな世辞や社交辞令は聞くだけで疲れる。
「弔火は今夜までっすよね。エリウス殿、空に届きましたすかね?」
亡くなった人の魂は天へと還り、星となって夜空に瞬くのだという。何もリディオルが実際その光景を見たのではない。あくまでもそうなるのだと言われているだけ。
目に見えない事象は想像で補うしかないから、必ずそうなるのだと明言はできない。
──君、面倒くさがりなところ、僕と似てるから。
笑ったリディオルへ、彼はこうも言った。
──でも君は、面倒くさがりなくせに、頼まれたら断れないお人よしだよね。
言葉に詰まるとはああいうときを言うのだろう。思わぬ言葉をかけられて、とっさに反応できずにいて。リディオルにそんな賛辞は似合わない。もっと、ふさわしい人物へかけるべきだ。
上る煙を伝って、もしくは煙の中に紛れて。送った彼の魂が、無事に星となってくれるように。
見守れとは言わない。そこで見ていればいい。昼寝でもしながら、気が向いたら眺めるくらいでいい。どうせ、面倒くさいと言われるだろうから。
「さぁな。あの人のことだ。今からでもいいかな、とか言いながら向かいそうな気はするが」
自分の調子を保ったまま、という項目であれば、エリウスに勝てる者はそうそういないだろう。
「いかにも言いそうっすね」
「最後まで自己流を貫いていきそうだからな」
それも、周囲の状況などお構いなしに。彼ならば、ありえる。
託されたことはこなした。いつかリディオルがそちらまで行ったなら、胸倉をつかみ上げて文句をぶつけてやろうと決める。当分先になるだろうから、それまで忘れずにいられるかが心配だが。
「受継、どうだったんすか?」
同じように返しかけ、舌に乗せかけた言葉を口内に留める。
叩きあっていた軽口とは違う気配。答えを待って、結ばれた口。ひたと据えられた目。
うかがうような様子に、見当がつく。世間話の応酬ではなく、アルセが初めから聞きたかったのは、これではないかと。
アルセにとって初めて起きた受継。興味津々で知りたい、そんな顔ではない。揺らいだ目の奥の思考は読めない。
「滞りなく済んで、新しい治療師様が誕生したぜ。喜ばしいことだ」
「それにしちゃ、全然そんな風に見えないっすけど。顔、怖いっすよ。リディオル殿」
「悪かったな。元からこんな顔だ」
「元からって」
構えられていたアルセの緊張感が解かれる。
聞きたかったのは受継についてではないのか。リディオルはアルセから意識を外し、後ろの壁に寄りかかった。
すると、アルセはご丁寧にリディオルの目の前までやってきて、指を差してきた。
「普通は眉間にしわなんか寄せないんすよ。今回の受継、何かあったんすか?」
「何もねぇよ」
片手を振ってアルセの指を追い払う。何かというほど、特別なことは起きていない。
前回の受継を引き合いに出そうとしてやめる。リディオルは当事者だった。特に何を感じるでもなく終わった覚えしかない。引き合いに出したところで、参考にならないだろう。むしろ参考にされても困る。
ようやく一人追加された賢人の座。どうしてここまで滞っているのか。気がかりなのはそちらの方だ。まるで、本来の体制に戻るのがおかしいような、ちぐはぐさが残る。嫌な感じだ。
「受継でないなら、ユノっすか?」
中断せざるを得なかった思考。何を言うのかと目だけを向け、アルセの次の言葉を待つ。
「怪我したユノがいっくら心配だからって、そんな顔してたら誰も寄ってこなくなるっすよ」
こーんな顔して、と律儀に真似までしてくれる。おかげさまで、リディオルが浮かべているであろうその顔を、客観的に見ることができた。似ているかどうかはともかくとして。
「ほーう。お優しい後輩がいてくれるとわかりやすいもんだなぁ」
「ってリディオル殿、なんで半眼になってるんすか!? 余計に怖いっすけど!」
そのお優しい後輩であるところのアルセは、リディオルから一歩ばかり遠ざかる。悪気がないだろうし、けなしているのでないのもわかる。全て、アルセの本心からだということも。
だからと言って、何でもしていいわけではないだろうに。指摘されてしまうとは、それほどまでに表面に出してしまったということ。リディオルの失態だ。吐きたかったため息を飲み込み、両腕を組む。
「……別に、心配してんじゃねぇよ」
アルセからユノへと視線を移す。ユノとアルセが点けた火を、朝方にはカルムから継ぎ、今はユノが一人で維持し続けている。
当初、カルムから引き継ぐのはリディオルの予定だった。ユノの調子を考慮に入れたうえで決めたのだが、直前になってユノが懇願してきたのだ。保つだけなら一人でもできると、だからやらせてほしいと。その熱弁に押し負け、最後にはリディオルが折れた。
「素直じゃないっすねー」
ししし、と笑いながら、アルセはユノの元へと向かう。ユノと交代をするために。
そう、別に心配はしていない。過保護なわけでもない。
ただ、気にかかるだけだ。
「なんであいつ、あんなに動きたがるんだろうな……」
リディオルの、魔術師の背中を見て、そこに続きたくて? ──どうも、それだけではないように思えてしまって。
必死さと、何かに急かされているような焦りと、作業に没頭したい素振り。まるで、余計なことを考える暇などいらないというかのように。
垣間見える年相応な様子が本来のユノだろうに、それを置き去りにしているような。
「天才少年様の重圧かねぇ?」
その重さでつぶれてもらいたくはない。リディオルがユノを天才と呼ぶのは、理由があるからだ。最年少として賢人見習いとなった、それだけではない理由が。
目を閉じ、開くと同時に思考を切り替える。
ユノが動けるようになったのなら、リディオルも動かねばなるまい。頓挫していた策を、ようやく展開できるのだから。