131,求めたその手がつかむのは
太陽が顔を出し始め、朝にしか咲かない花びらが開き始めた頃。誰の姿も見かけない廊下は少し肌寒く、また寂しくもあり、小さな冒険に出たような楽しみもあった。
それでも、王宮にはまったく人がいないわけではない。早くから動き始めている人々も少なからずいる。
引き締めた顔と動きづらそうな装備で廊下を闊歩する人。わき目も振らず、ラスターの横を忙しなく走りすぎていく人。すれ違いざまに落とした書類を拾って手渡せば、すまなそうに感謝された。あくびを噛み殺しながら歩いていく人は、徹夜で作業をしていたのだろうか。
眺めていたらラスターに誘発し、大口でしてしまったあくびを右手で隠した。
どうして眠気とはうつるのか。眠くないのだと、言い聞かせていても、誰かがあくびをしているとつられてしまう。
ラスターは誘発されてしまったけれど、彼らの目に、ラスターはどう映っているのだろう。
ラスターを見た誰かもまた、大きなあくびをこぼしているのだろうか。そうしてそれがまた別の人に、どこまでも連鎖していって、アルティナ王国の端の端まで届いていったなら。
取り留めない想像にふふ、と笑ってしまう。
ほんの小さな始まりが、いつしか国中に広がっていく。最初の人は、それと気づかずに。
共有した思いは、やがて国をも越えて、世界中に浸透して。
それがもし、誰かを思う、大切な人を思いやる心だったなら、どんなにか素敵だろう。
夢見たところで、現実にそんなことは起こらない。世界をたやすく飛び越えられるのは、いつだって空想だけだ。他の人をいつでも思いやることは、誰でも難しい。
それでも心掛ける気持ちを忘れたくはない。忙しいのを理由にして、目の前にいる大事な人を、ないがしろにはしないように。当たり前を、当たり前だけにしないように。
右手が手いっぱいで空けられないのなら、左手は誰かのために。いつでも空けられるように。
誰かのためにといいながら、結局は自分のためなのかもしれない。それでも貸した左手が誰かのためになったのなら。その行いが、いつか大切な人へも通じるのなら。やってきた行いは、決して無駄にはならない。
自分がしてほしいことを、誰かにしてあげる。それはいつの日かめぐりにめぐって自分の元に返ってくるのだと、聞いた覚えがある。
誰かのために。──誰のために?
今日はナキのために。元気になってくれるように。
何ができるだろう。何をすればいいのだろう。ナキを元気づけるには、どんなことをしたらいいのだろうか。ラスターが同じような事態に陥ったなら? 何をしてほしいだろう。
答えが出るより、薬室についてしまう方が早かった。
じっとしているだけではきっと浮かんでこない。どうせなら、何か薬でも作りながら考えようと心を決める。
ユノの治療薬はまだあったはずだ。常備薬はどうだったろうか。在庫に関しては棚を調べないといけないから、ひととおり見て、それから──
「あれ、早いね。おはよう」
ラスターは目をぱちくりとさせる。
「おはよう。ファイクも早いね」
てっきり、一番乗りしたと思っていたのに。昨夜治療室に残ったファイクがここにいるとは、予想外だった。
「ナキが目を覚ましたから、何か口に入れられるものをと思って」
「ナキ、起きたの? どう?」
残ると宣言したファイクに任せて、ラスターとグレイは先に部屋を出てきたのだ。意識が明確になったのなら、だいぶ回復したのではないだろうか。
「薬が抜けるには時間が必要だけど、昨日よりは少しましかな」
「そっか……でも、よかった」
「本当にね」
常であれば、焜炉の周辺がグレイの定位置だ。レーシェやナキ、ラスターが立つこともあるけれど、ファイクがそこにいるのは珍しい。
焜炉にかけた薬缶から、勢いよく湯気が立ち上る。ファイクは火を止めて、沸いた湯を水筒に移し替え始めた。
「何か、必要なものはある? ボクも一緒に行くよ」
「うーん……君はまだ来ない方がいいかもしれない。まだ、たまに錯乱状態があるから。こんなだよ」
「わ……痛そう」
水筒から手を離し、見せてくれたファイクの右腕。真新しい引っかき傷と赤くなっている箇所がいくつもある。昨日グレイがしていたように、ナキを押さえ込もうとしたのだろう。
「じゃあ、持っていくものがあれば、それを手伝うだけにするよ」
「うん、ごめんね。本来なら君も連れていくべきなんだけど、ナキが嫌がると思って。僕でもこれだったからさ」
はは、とファイクが笑みを漏らす。
ファイクでここまでなら、ラスターはもっと抵抗されてしまうだろう。ファイクやグレイと比べて、ラスターはナキにいい感情を持たれていない。それは初めて顔を合わせて、ここで過ごして、常日頃感じていた。
いつかはちゃんと仲良くなりたい。でも今は、それよりもナキの体調を第一に考えたい。ナキに負担がかからないように。ナキが衝動的に毒を摂取してしまった原因は、少なからずラスターにあるのだから。
「何を用意すれば──」
ファイクに尋ねかけたラスターは、口をつぐむ。
ファイクはいつも疲れている雰囲気だったから気づかなかった。今も、ちゃんと見ていなかったからわからなかった。
今更ながら彼の様子を知る。いつもと違うのは、見せてもらった右腕だけではない。ファイクの目に、うっすらと隈ができている。昨夜ラスターとグレイに宣言したとおり、ファイクはひと晩中、ナキについていたのだろう。眠らず、彼女の傍に。
そうしてまた、戻ろうとしている。ナキの元へ。ナキを安心させる、そのために。
ラスターにファイクの代わりはできない。ナキがそれを望んでいないから。
何をすればいい? ナキに、ファイクに、今何ができる? 何をしてあげられる?
ひらめいた考えが、ラスターの足を動かした。薬室に置いていたラスターの鞄。目が、手が、目的とするものを探していく。あれはまだ、残っていたはずだ。
ナキのために。ナキが必要としている、ファイクのために。今、ラスターにできること。
「ファイク」
「うん?」
水筒に詰め終え、ふたを閉めて振り返ったファイクの目と鼻の先。ラスターは探し当てた小瓶を二本、突きつけた。
「──わっ! び、びっくりした……何?」
「ボク特製の栄養剤。ファイクの分とナキの分。おか──」
勢いに任せてファイクの手に握らせてしまう。状況がつかめず、目を白黒させているファイクにラスターは言い直す。
「レーシェ直伝の薬だから、効果は保証するよ。ナキ、形のある食べ物はまだ無理だと思うから」
「あ、ありがたいけど……」
尻すぼみに返された答えに、ファイクの言いたいことを何となく理解する。
「ファイクが黙っててくれればわからないよ」
「それ、あとで絶対僕が怒られるやつじゃないか……」
「だから、言わなければいいんだ」
ラスターが作った薬だと知られたら、ナキは決して飲んではくれないだろう。
「……君も悪知恵が回るんだから」
「嘘じゃないよ」
嘘は言っていない。ただ、言わないようにするだけだ。言わなければ嘘にはならないし、ばれてしまうこともない。
口を開かなければ、災いの訪れだってないのだ。