128,かつてあなたに起きたこと
※今回、軽い暴力表現があります。苦手な方はお気をつけくださいませ。
兄みたいだった。
ずっと、兄のように思っていた。
適度に甘やかされて、必要があれば叱ってくれた。ギアには弟がいたから、年下であるシェリックへの接し方も、きっと自然とそうなっていたのかもしれない。
王宮に来る前にはノチェが傍にいて、シェリックの道を示してくれるしるべだった。王宮という未知の場所においては、ギアがその役目を担ってくれた。
救われていた。大げさに聞こえるかもしれないが、拠り所だった。敵ばかりの王宮で、シェリックの一番近くにいてくれた味方だった。
何度助けてもらっただろう。どれだけ手を差し伸べてくれたのだろう。気にかけてくれていたその裏で、どれほどの憎悪を募らせていたのだろう。
ギアが初めて露わにした悪意に、頭がついてこなかった。それでも、納得をしてしまった。次の賢人になることがほぼ確定していたのに、見習いでもなかったシェリックに奪われてしまったこと。あれだけ王宮の人間が教えてくれていたのに、そこにギアが当てはまらないとどうして言えようか。
ギアが何も言わずに受け入れてくれたことこそがおかしかったのだ。何も思わないわけがない。快く迎え入れられるはずもない。シェリックはそれに甘えて、看過してしまった。ギアの気持ちを慮ることなく。
──なんて。聞き分けのいい役を演じても意味がない。
本当は、わかっていた。
認めたくなかっただけで、わかっていたのだ。恨まれていたなら、仕方ないと。ギアが憎むのは当然だと。シェリックの前では見せなかっただけで。心の奥底では蓄積する一方だったと。
ひらめいた刃に指は動かなかった。驚きはしたけれど、恐怖も悲嘆もそこにはなくて、目の前にやってきたギアをただ見返した。
自分が存在してはならないのなら、存在することすら許されないというのなら、受け入れてしまえばいい。それでギアの気が済むのなら。ギアの憎しみが少しでも軽くなるのなら。
せめてギアの顔だけは、この表情だけは焼きつけておこうと、今生の土産に持っていくのだと、そう思って覚悟をした直後。横からぶつかってきた衝撃と、くぐもった声がした。
「──え」
抱きすくめられた感触と、とっさにその背に回した手が触れた、生温かい液体。驚愕の表情で飛び退ったギアを、彼女の向こう側に見た。
「……レーシェ?」
どうしてレーシェがここにいる。ギアとシェリックを結ぶ線上に、どうしてレーシェが割って入ったのだ。
「どう、して……」
あのまま受け入れてしまえば終わりだった。ギアの憎しみをシェリックが受け入れてしまえば、それで終わりだったのに。
「どうして入ってきた! これは、俺とギアの問題だ! レーシェに関係は──」
「ないとか言ったらしばくわよ」
地の底から這い上がってきたような声に黙りこくる。どうしてレーシェがこんなに怒るのか。わけがわからなかった。
「関係ない、わけがないでしょう。私が呼ぼうとしたのは、あの人だから……それなのに」
レーシェはシェリックの肩をつかんだ。
「なに、諦めてるのよ……避けるくらい、しなさいよ! 文句も、感謝も、言いたかったんでしょう? あの人からもらった名前を、あの人が助けた命を……助けられたあなたが、簡単に諦めてどうするのよ!」
「──っ!」
シェリックを放し、レーシェは振り返る。距離を取ったギアの方へと。
「いなくていい人間なんて、どこにもいないわ……馬鹿を言わないでちょうだい。あの人を呼び出して欲しいと、私が言い出したのよ。シェリックは、それに応じて、くれただけ……シェリックは、禁術なんて、何も……知らなかった」
背中からでもわかる。荒くなっていく呼吸、上下する肩の動きが大きい。レーシェの左脇から落ちていく血が、みるみるうちに水たまりを形成していく。赤い、赤い、水たまり。水音が跳ねて、大きくなっていく。
「……それが虚言ではないと、どう証明する」
「この場では……無理ね。私と、シェリック……二人だけで立てた計画だから。証明はできなくても、今、これだけは言えるわ」
レーシェがふっと息を吐く。笑った気配がした。
「星を見るのは、誰かのために。……あの人が理由なく、賢人を渡す人でないくらい……あなたも、知っているでしょう? あの人が決めたことを……あの人以外にあたってどうするのよ。あなたは……自分のことばかりね。シェリックがいようと、いなかろうと……あなた、占星術師には向いてないわ──」
呪いをかけるように。
言いきったレーシェは、足下の赤へと崩れ落ちた。力を使い果たしてしまったかのように。
「──レーシェ!!」
しゃがもうとしたシェリックを、ギアの刃が牽制する。今、レーシェの脇腹をえぐったばかりの短剣で。その刃に、生々しい血をしたたらせて。うしろに下がらざるをえなくなり、レーシェをちらと見る。
意識はあるのか。彼女の息は。彼女の命は。まだそこにあるのか。
「どいてくれ、ギア」
「嫌だね」
「これは、俺たちだけの話だ。レーシェは関係ない。だから、レーシェは助けさせてほしい」
「断る」
下げたかかとがぶつかる。背後にあるのはシェリックの胸の高さほどの壁。そこから先は、地上へと続く空中だ。
迫るギア。下がれない足。広がる血だまりが、目についてしまう。
早く、早くしなければ。レーシェが死んでしまう。シェリックをかばったレーシェが、死んでしまう。
「ギア、頼む……!」
このままでは、レーシェが──
「呼び出せばいいだろ?」
そうするのがさも当然だと。淡泊な瞳がシェリックを見返す。
倒れたレーシェをまたいで、ギアはシェリックへと一歩近づいてくる。それ以上とれない距離が、シェリックに混乱を来した。呼び出せばいい? 何を?
「ギア? 何、言って……」
「おまえなら知ってるんだから。ノチェから教わった術を使って、死者を呼び出せばいいだろ?」
死者? ──誰、が?
倒れたレーシェを見る。ゆっくり歩いてくるギアを見る。
「このまま……レーシェを、見殺しにしろって言うのか……?」
これ以上レーシェを放置したなら、そうなることは明白だ。今ならまだ、間に合うかもしれないのに。目の前にいるギアが、それを許さない。
見過ごせというのか。助けられる命を見捨てて。禁じられた術に頼れと、そう言いたいのか。シェリックがその方法を知っているのだからと。
躊躇なく突き出された刃をかろうじて避け、短剣を持つギアの右手を、両手で捕まえる。
「っ、やめろ、ギア! 先に、レーシェを手当てさせてくれ! そのあとなら、俺は……おまえに殺されてもいい!」
怒られたばかりだ。レーシェが聞いていたなら、きっとまた盛大に怒られてしまうだろう。──ああ、でも、シェリックが消えてしまうのなら。もう怒られることなどないのか。
「ギアに、そんなに恨まれていたこと、知らなかった。俺は最初からずっと、おまえに甘えていたんだな」
止まったギアの動きに、一縷の望みを託す。
謝るのは違う。そんなもの、ギアは欲していないだろう。願いたい。ギアにまだ言葉は届くのだと、信じて。
「殺すほど俺が憎いなら、そうすればいい。けど、レーシェは助けさせてくれ。手遅れになる前に……お願いだ」
「──もう、おせぇよ」
「ぐっ──!?」
空いていた左手で腕をつかまれ、みぞおちを蹴られる。息が詰まったその一瞬で、ギアから手を離してしまった。
力で敵うわけがない。年も、体格も、腕力も、ギアの方が勝っている。
うずくまったシェリックの胸ぐらがつかまれる。壁に押しつけられ、首元に切っ先が押し当てられた。
「ギア……レーシェを……」
ギアの向こうで、レーシェが倒れている。彼女の血に塗れて、うつぶせに。
少し癖のある栗色の髪は、伸ばしている最中だと話していた。ノチェに再会するまでは、切らないのだと。願掛けにするのだと。地面に広がり、赤と混じり合ったその髪は。
届かない。
助けられない。
「──あっちでノチェに伝えてくれよ」
振り上げられた短剣が、シェリックの絶望を映し出す。刹那の猶予もない。
「おまえも恨んでたって」
しかしその刃が、シェリックに届くことはなかった。
突然発生した突風とともに、舞い降りたと言うのが正しいか。彼はシェリックからギアを引きはがし、そのまま投げ飛ばした。どこにそんな腕力を隠していたのか。
「おい、無事かよ?」
咳き込むシェリックの耳に、頼もしい言葉がかけられる。やってきた黒一色の彼を見上げた。つい先日賢人となったばかりの彼を。
「無事、じゃないが……レーシェが……!」
「わかってる。あいつは任せろ」
屋外なのに、高さもあるのに、いったいどこからやってきたのやら。瞬間移動でも覚えてきたかのように、リディオルは現れた。
ギアを託し、シェリックはよろよろとレーシェの元へ駆け寄る。
「──ル、邪魔をするな!」
「そりゃあ、聞けねぇ相談だな」
体格でいうなら、リディオルでもギアに勝てないだろう。けれど、リディオルは魔術師だ。風を自在に操る力を持っている。賢人になったばかりとはいえ、頼りになるのは前々から知っている。せめて、レーシェを助ける、その間だけでも。
「レーシェ……レーシェ!」
何度も名を呼びかけると、閉じていた目がうっすらと開いた。
まだ、意識は残っている。息はある。助けられる。手遅れではない。手遅れなんかにはさせない。彼女を失うわけには──
「待ってろ、今──」
「……ごめんなさい」
かき消えそうなほど小さな声が、聞こえてきた。
「なんで謝る! これは、俺が……!」
唇を噛みしめる。
言えなかったせいだ。レーシェに、禁術が失敗すると。
知らなかったせいだ。ギアに、あんなに恨まれていたと。
シェリックのためらいと無知が、レーシェに重傷を負わせてしまった。
「失敗、しちゃったわ……うまく、止めるつもりだったんだけど……。ごめんなさい、せっかく、あの人に会えると、そう思っていたのに……あなたに、重荷を……背負わせてしまったわね……」
「そんなことない。重荷なんかじゃなかった。レーシェ、頼むからもう喋るな!」
「やっぱり……まだ、私には……あの人に……会う、資格なんて──」
唐突だった。
糸が切れたように話が途切れたのも、レーシェの目が開かなくなったのも。
何かの冗談であってほしかった。
呼びかけようとした声が出てこない。返ってこない恐怖を覚えてしまったから。呼んでしまったら、本当におしまいだとわかっているから。
「──これは、何事だ!?」
やってきた四人目の声も、そこにいたギアやリディオルの声も、何もかもが遠くて。
されるがままにレーシェと引き離され、シェリックは一人、連れて行かれた。禁じられた術を使った罪で、王宮の地下牢へと入れられた。
自分の状況も、ギアがあれからどうなったのかもわからず、シェリックはただ重罪であることだけを告げられて。そうして王宮の地下牢から最果ての牢屋へと移された。
後悔が募るばかりだった。懺悔を重ねても、なにひとつ代わりはしなかった。
時は無情に過ぎていって、先にいた囚人たちはやがて息絶えていって、いずれ自分もこうなるのだと、それが罪の償い方なのだと思って、感覚は麻痺していって、生きることすらどうでもよくなって──
「何がおかしいの?」
そうしてあの日、ラスターが現れたのだ。