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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
六章 アルティナ王国Ⅲ
126/207

126,馳せた心は過ぎし日に


 息をしてはいけないような錯覚に陥り、固唾かたずを呑んで二人を見守っているしかできない。正しくは、動いている一人と、横になっている一人を。

 悠然と時を刻み続ける針が恨めしい。ねめあげたところで、針が止まることもなく。

 逸る心と問いただしたい欲求、今それをしてはならない抑圧とがせめぎ合い、もどかしさで破裂してしまいそうだ。

 それが限界に達してしまいそうだったそのとき、ルースが口元から手巾をゆっくりと外した。そうしてそこにいる全員の顔を順繰りに眺めたあと、にっこりと微笑んだのだ。


「ここまで来たら、もう大丈夫。頑張ったね」


 彼の笑顔とそのひと言に、張り詰めていた心だけでなく何もかもが溶ける。ラスターとグレイ、ファイクは、三人ほぼ同時に、その場にへたり込んだ。


「良かったー……」


 治療師の太鼓判が押されたなら、もう大丈夫だ。無我夢中だった。気持ちが負けては悪い結果も引き寄せてしまう。だから、一瞬でも考えないように、目の前の対処に、ナキに、集中した。

 間違った処置でないか。失敗するのではないか。ナキが死んでしまうのではないか。忘れていた怖さが今頃になってやってきて、ラスターは溜め込んでいた息と一緒くたにして深く吐き出した。

 良かったと、心の底からそう思う。

 ラスターたちの願いが通じたのだろう。あのあと時間を置かずに戻ってきたレーシェは、薬室の惨状を目にするなり、瞬時にナキを治療室へ運ぶよう指示を出した。ラスターは治療室へと走り、ことの次第を治療師たちに伝えに行った。その説明をしている最中にグレイとファイクによってナキが運び込まれ、治療が始まり、薬師見習いたちが総出で協力をし、今に至る。


「お疲れ様。君たちだけで良くやったね。初期の処置が的確だったよ」


 何でもないことのように笑うルースは凄い。彼がいてくれて良かった。


「……どうなることかと思ったぞ」

「もう、絶対にごめんだよ……」


 寝台を背にして床に座り込んだグレイがこぼせば、端で寝台にもたれかかるファイクが同意する。

 祖母の見よう見まねでしかなかった。記憶の奥底に残っていた光景だけが頼りだった。

 ルースの対処はラスターたちとは比べものにならないほど正確で、何より速さが違った。ラスターたちが行ったのは応急処置でしかなかったのだと、思い知らされた。

 それでも、助けられたことに繋がったのだ。ナキを無事に助けることができたのだ。


「毒の処置なんて、よく知ってたわね?」

「うん。おばあちゃんがやってたから」

「ああ、それで」


 合点のいった様子で頷くと、身をかがめたレーシェに背中を優しく叩かれた。


「ほら、しゃきっとしなさい。頑張ったんだから。あなたたちもお疲れ様」


 首を動かし、座り込む二人へと声をかける。ナキが眠る寝台のすぐ傍にいる、二人へと。あちらもあちらで動きたくなさそうだ。

 ラスターが膝を伸ばして立つと、途端に重さがずしんとやってくる。腕もだるくて、座ったままここにいたい誘惑に駆られた。

 動きたくない気持ちはよくわかる。ラスターも同じだからだ。今すぐ寝転がりたい。寝台でなくてもいい。その辺の床の隅にでも転がってしまいたい。

 と、グレイが億劫そうに立ち上がり、ルースへと歩み寄った。


「──エリウス殿。お力添えをしていただいて、ありがとうございました」

「どういたしまして。早くに気づいてあげられなくて申し訳ない」

「とんでもない。こちらの管理の甘さが招いた事態です」


 見慣れない二人の会話をなんとなく眺める。ラスターとはどちらも知り合いだけれど、お互いに話す姿は珍しい。薬師と治療師は業務内容が似ているから、二人も顔を合わせれば言葉を交わすのだろう。

 未だ立とうとする気配のないファイクを見やり、使い終えた薬品を片づけているレーシェに行き着く。レーシェも治療師見習いと親しげにしている。なんだか不思議な感じがした。

 薬室に散らばった硝子や汚れた床は片づけたけれど、作業台に並んでいた瓶は、まだ放置されっぱなしだ。戻ったら、あれも片づけなければ。


「ルー──」


 ひょっこりと顔を覗かせたセーミャが、瞬間口を閉ざす。


「エリウス殿。どうです? 彼女の容体は」

「うん、もう大丈夫。あとは安静にさせておくことと、経過観察かな」

「わかりました」


 言うが早いか、セーミャは向こうへと戻ってしまう。

 ──そっか。

 グレイの会話を聞いたときから、何かしっくりこないような感じがあった。受継のせいだ。彼が治療師を、名とともに受け継いだということは、彼はエリウス=ハイレンなのだ。

 だからセーミャは彼をルースとは呼ばなかった。彼はもう、ルースではないからだ。

 これが受継か。本当の。ラスターが受けたものではない、本来の受継というものなのか。


「あとはこちらで引き継ぎます。お任せください」

「ええ、お願いします」


 ルースと呼ばれなくなった彼の左耳に、装飾品がひとつ見えた。派手でなく、素朴な淡い水色の石。

 彼は装飾品なんてひとつもつけていなかったから、ラスターの目についた。治療師となったそのお祝いに、もらったものだろうか。主張しすぎない薄い色。小ぶりな石。彼を体現したような装飾品だ。


「ファイク、ラスター、戻るぞ」

「う、うん」


 会話を終えたらしいグレイに呼ばれ、ラスターは慌てて意識を戻す。歩く、たったそれだけの動作なのに、足が重い。今日一日の疲れが全て詰め込まれたみたいだ。


「──僕は残るよ」


 動こうとしないファイクを促そうとしたら、本人に先を越されてしまった。ファイクはちょうど、備えつけられていた椅子に座り直すところだった。


「誰かナキについていなくちゃいけない。治療師の人たちもいるけど、見慣れた顔があった方が安心すると思うんだ」


 その顔は疲労が色濃かったが、ファイクの言動には頑として譲らない意志も見えた。


「わかった。必要なものがあれば伝えてくれ」


 グレイもラスターと同じことを感じたのだろう。ファイクの提案を退けることはなかった。


「うん、ありがとう」

「レーシェ殿は?」

「私はエリウス殿と話があるからここにいるわ。先に戻っててちょうだい」

「お言葉に甘える」

「お願いします」


 あとのことをファイクたちに託し、ラスターは先に出たグレイを追いかける。グレイは歩くのが速いから、小走りで追いつくしかない。早く隣に並ぶことができたのは、グレイの足の運びが常よりゆったりとしていたからだ。


「助けられて良かった」

「ああ」


 それ以上会話は続かず、グレイとただ歩いていく。語れることは何もない。反省はいくつもあるけれど、ナキが助かったなら、今はそれだけでいい。

 明かりのついた廊下と外との暗さがまるで違う。

 ぽつりぽつりと。明るさも間合いも異なる星たちは、ラスターたちを楽しそうに見下ろしていた。黒だけでは寂しいからと、誰かが無造作に空へと放ったみたいだ。

 地上では何があっても、どんなことが起こっても、時間は絶えず流れているし、空は変わらず頭上にある。


「もうこんな時間なんだ……」


 ばたばたしていたからすっかり忘れていたけれど、そういえば、ユノと結局会えずじまいだった。塔に行けば、明日は会えるだろうか。

 時間の流れを感じている場合ではなかった。一刻一刻と迫る制限と記憶との戦いだった。安堵した瞬間にどっと疲れに襲われたのは、許してもらいたい。それまでの時間が濃密すぎたのだから。

 半ば引きずるように歩いていた足を止める。開けた夜空が高くて、月が遠い。


「どうした?」


 やってこないラスターを不思議に思ったのか、グレイから声がかけられた。


「あ、うん……」


 視線が吸い寄せられていた。月明かりに、ぼんやり浮かぶ姿へと。

 ラスターが見つけたものを、グレイも気づいたのだろう。それ以上は何も聞かれなかった。


「寄り道してきてもいい?」

「ああ。先に戻るぞ」

「うん」


 どうして見つけられたのかはわからない。目立つ格好ではないのに。少しだけ外灯に照らされていたとはいえ、薄暗闇の中だったのに。きっと、見つけるべくして見つけたのだろう。

 くたびれた花壇の隅で、考えごとに浸る横顔が腰をかけている。曲がった背中が小さく見え、緩く組まれた指は動き方を忘れたようだった。

 日が暮れると目立たなくなる外套。そのせいばかりではない。夜に消えてしまいそうな雰囲気で、彼はそこにいた。


「どうしたの?」

「──ああ、ラスターか」


 どうしてだろう。向けられたその顔が、あまりにも頼りなく見えてしまったのは。迷い子みたいなシェリックの傍へ、ラスターは引き寄せられていた。


「珍しいね。そんなに弱ってるシェリック」

「弱ってる? 俺が?」


 思いもしなかったと、シェリックは組んだ手に目を落とす。そうして顔を上げて、目を合わせたラスターにふっと笑った。


「おまえも大概だろ」

「そうかな。ちょっと大変だったから」

「そうか」

「うん」


 互いに口を閉ざして夜の中に収まる。喋りたくないわけではない。けれどシェリックと一緒だと、無理に話さなくてもいい。ただここにいる、それだけでいい。

 あの日も足が重くて、今より空に近づいて。シェリックと一緒に、見上げた星空があった。


「座ったらどうだ? 疲れてるだろ?」

「ありがと」


 シェリックの左側へありがたく座らせてもらう。星を見ていないシェリックが珍しい。

 占星術師といっても、いつも星を見ているわけではないのだろう。

 落とされた視線が、占めているであろう考えが、ラスターの予想を飛び越えた位置にあるに違いない。シェリックは占星術師として、今までもこんな時間を過ごしてきたのだろうか。

 一人きりで星を仰いで、読み解いた意味を見出して、辻褄のある解釈を並べて、望んだ誰かに伝えていく。それが、ラスターの想像した占星術師のすべきことだ。行く末を、未来を占うために。


 ラスターが薬を作るように、シェリックは星と向き合う。夜空を見て、文献を調べて、誰の力も借りずに、一人きりで──

 あれ、と思う。

 薬師には見習いがいる。ナキに、グレイに、ファイク。セーミャは治療師見習いで、ユノは魔術師見習いに当たる。それでは、占星術師は?


「そういえば、占星術師の見習いって見かけないよね? どこかに出かけてたりするの?」


 不意に湧いた疑問が口を吐いて出てくる。ラスターが見かけていないだけで、どこかでシェリックと同じように星を見ているのだろうと。


「いない」


 瞬間、後悔が襲ってきた。

 何気ない疑問を、口に出さなければ良かったと。

 大きい声でも、強い口調でもなかった。訊いてはいけないことを、訊いてしまった気がした。


「ごめん」


 それ以上は訊かない意思表示をした。だって、知ってはならない。シェリックがひた隠しにしようとしていたから。聞いてはならない。それが二人の暗黙の約束事。

 ラスターは代わりの話題を引っ張り出す。ことさら明るく、今のは聞かなかったことにして。


「あ、そうそう。シェリックは星命石の言い伝えって知ってる? ボク、今日フィノから聞いたんだケド──」

「──かつては見習いが一人だけいた。気違いな奴だと言われながら、それでも見習いで居続けた。六年前、俺が禁術を犯すまでは」


 どくん、と。

 心臓の音が大きく跳ねる。

 逸れた話が戻されるとは思わなかった。シェリックが最果ての牢屋にいた理由。ラスターが訊くまいとしていた話。互いに避け、口には一切出さずにいた話題。

 破られた約束。越えられた一線が信じがたい。どうしてと、上がりかけた疑問を押し込める。違う。それよりも、訊かなければならないことがあるはずだ。


「それ……ボクが聞いていいの?」


 シェリックの意思表示を。彼からの許しを。


「駄目だったらまず話さない」


 今日のシェリックは何か変だ。こんな話を切り出すなんて。シェリックもラスターも、お互いのことは聞かず話さずでいたのに。

 前まではそれでよかった。今も、それでよかったのかもしれない。けれど、シェリックは話すのだという。今までラスターに言わずにいた、シェリックのことを。


「無理にとは言ってない。俺が勝手に話すだけだ」


 でも、とシェリックが言う。


「聞いてくれるなら、ありがたい」

「──聞くよ!」


 聞かないわけがない。これはきっと、今ここにいるラスターにしかできないことだ。


「ありがとな」


 意気込んで答えたラスターへ淡く笑い、シェリックは星のさざめく空を仰いだ。

 遠きその頃に思いを馳せるように。独白するかのように。

 シェリックはゆっくりと話し始める。


「そうだな、どこから話すか──」


 彼に起きたことを。

 彼が願ったことを。

 シェリック=エトワールという占星術師が、かつて犯してしまった罪を。



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