124,その身に悪夢を招き寄せ
※拙い表現ではありますが、今回もお食事前後での閲覧はご遠慮した方がいいかもしれません。
──苦いのに、どうして飲まなきゃいけないの?
舌先でなめた粉はとても苦くて、口に広がる味も、鼻に残る匂いも酷くて、ラスターは半泣きになりながら吐き出した覚えがある。喉のいがいがが良くなるように、火照った頬の熱を鎮めるために、薬を飲まなくてはならない。いつまでもそのままだと苦しいだろうと、早く遊べるようになりたいだろうと、祖母はラスターに言ったのだ。
良い薬は苦い味だけれど、今のラスターを苦しめているものと戦ってくれる。体調がよくない人には必要不可欠だと、そうも言われた。
薬は人を不幸にするものではない。身体の不調を治すために、その人が違和感なく動けるように、辛さを和らげるためにあるのだと、ラスターはそう教えてもらった。
だからラスターは早めに治すために、涙目を隠しながら苦い薬を水で押し込んだ。苦くて、辛くて、じゃりじゃりした不快感全てが嫌で、もう二度と飲むものかと誓って──そうしたら翌日には熱が下がり、喉の痛みもましになった。
何でも治せる薬は存在しない。症状に合った薬を出して、少しずつ、少しずつ、良くしていく。薬とは、そうであるはずだ。
──だったら、ここで試せばいいんでしょ?
誰も傷つけていない。──本当に?
誰も苦しませていない。──ではここに倒れているナキは?
誰のために?
「瞳孔は?」
「広がってる。意識は、ある……? 何飲んだんだよ、もう!」
「落ち着け。焦燥に駆られては思考を鈍らせる」
「毒が全身に回る前に対処しなくちゃならないだろ!」
「なら、わかることから確認していく。ナキを頼む」
「……わかった」
「即効性あり。致死性は不明。経口摂取にしては回るのが早すぎる。成分は……わからないな」
「でも、調べないことには対処法もわからないじゃないか!」
「治療師を呼んで──いや、今は受継中か。戻ってくるまでは俺たちだけでなんとかするしかない」
「……冗談でしょ?」
「いたって本気だ」
水差しを床に置き、ラスターはふらりと立ち上がる。力の入らない足で、三人の傍に寄った。
グレイは二本の棒で、割れた小瓶の破片をつまみ上げている。ファイクはナキの枕元にしゃがみ、あちこちに視線をさまよわせている。床に置き去りにされた空のグラスが、所在なさげに佇んでいる。
ラスターはナキの傍らに膝を折り、青ざめた彼女の顔を見下ろした。
「──ナキ」
口は開くも、ラスターの呼びかけには応じない。応えようとしてくれてはいる。けれど声を出したくないのか、返事をしたくないのか、もしくは発せないのか。話せないわけではないと思いたい。
グレイの払いのけた小瓶が無残に散らばっている。気をつけないと踏んでしまいそうだ。茶色い硝子の破片が、室内灯の光を浴びて不気味に反射した。特徴的な匂いはない。
「触るなよ。二次被害は面倒だ」
「触らないよ」
グレイが注意を促してくる。ラスターが見たその先へ、伸ばしかけた手をも止めさせるために。胸元に引き寄せた手を、ぎゅっと握りしめた。
他に、何か。手がかりはないだろうか。
腕を抱えるナキ。ナキの傍で座り込むファイク。食い入るように小瓶の破片を眺めているグレイ。ナキは小瓶の中身が毒だと断言してはいない。だからこれは毒ではないと──そんな楽観視をしてはならない。現にナキは倒れたのだ。
ふと、作業台に仲良く並んだ瓶が目に入る。
ナキはおそらく、あの中のいくつかと混ぜ合わせて作ったのだろう。近くに寄ってもわかる。色も大きさも様々な瓶。これほどまでに数があるのが恨めしい。褐色の瓶がいくつかと、緑色の瓶が一本。当然ながら、どれも中身はわからない。
一体何を作ったのだろう。何の薬を作るために、この試作品をこしらえたのだろう。いくつか手に取り、眺めていた瓶の隙間。ころりと転がるものを、ラスターは見つけてしまった。
薬室や治療室でも見かける。馴染み深いと言えばそうであるが、今最も見つけたくないものでもあった。
「ねえ、これって……」
一本の注射器。すぐ隣に置かれたグラスには、わずかに残る無色透明な液体があった。
直接打ち込んだのか。ナキは。自身の血液に。早く毒が回るように。
浮かんだ想像にぞっとした。口から含むより、血液に流してしまう方が、毒の周りは断然早い。効き目だって早く現れる。まず間違いなく。けれど、それでは助からない。
「──いや」
近くに来ていたグレイが首を横に振った。
「よく見ろ。これは使われていない。中身は空だ」
もう一度顔を近づけて凝視する。グレイの言うとおり、注射器の内部は乾いている。中に何か入っていた形跡も見当たらない。
それならば、どうして効果が現れたのがこんなに早いのか。
「さっき飲んだときより前に、ナキは飲んでた……?」
置かれてるグラスの中身が瓶に詰められる前で、ナキは既に試していたのだったら。
「多分な。これを使われていたら、望みは潰えてる」
何のだなんて、わかりきったことは訊かない。
「──怖いコト、言わないでよ」
「事実だ」
聞きたくない。認めるのも嫌だ。
グレイの険しい目が間近にある。あとで残りそうなほど眉間にしわを作り、喋るとき以外は口が固く引き結ばれる。苛立たしいような、怒っているような顔だ。
「助けられる可能性がなくなったわけじゃない。こいつの中身を調べて、薬を作るのが一番手っ取り早いが……」
見知ったことを淡々と、それでいて手加減などなく、グレイはひとつひとつ述べていく。まるで、努めてそうしているように。
そうだ、グレイの確認事項に一喜一憂している場合ではない。
「ファイク」
いつも聞いている声より、一段と低い。感情の抑えられたその声は厳しく、眉根の寄った顔を崩さずにいるから余計にそう思える。
「成分分析、できるか?」
「……やるしかないじゃないか」
ナキと同じくらい青くなった表情で、しぶしぶながら、それでもファイクはしかと頷く。
できないなどと言わない。言いたくないが本音だろう。ラスターだって、助けられないなんて言いたくない。
「──っち、──よ」
ラスターが呼びかけても反応しなかったナキが、小さく声を発した。
「ナキ? わかる?」
ナキの腕が振られる。払われたファイクの手が、行き場を失い宙に止まった。
「……ないで──って、言ってるでしょ……!」
ナキはうっすらと目を開けて、何かを振り払っている。弱々しかった腕が、次第に強く。やがて大きく見開かれた目が、怯懦に染まった。
「こっち、近寄るなあああ!!」
「ナキ!? 何を見て──」
ファイクの言葉が宙ぶらりんに浮く。
髪を振り乱し、半狂乱になって叫んだナキ。ファイクもグレイも映さず、ラスターさえも見ず、誰もいない方向へと。まるで、ラスターたちには見えない何かがそこにいるかのように。
そのときだった。水の中で咳き込むような、変な音がしたのは。
横向きになっていたナキが、身体をくの字に折り曲げてえずく。何度も、何度も。胃に入れていた全ての飲食物を追い出すように。
誰も動けない。吐瀉物の匂いが鼻について、もらってしまいそうになる。
副作用、だろうか。これは。あと何度、この状態が起こる。そのたびにナキは叫ぶのか。ラスターたちには見えない何かに怯えて。
成分がわかって、薬が完成したとしても、ナキの身体が保たないかもしれない。飲んだ毒の量はどのくらいだったのか、グラスの中身はいつ飲んだのか。それは毒だったのか。小瓶とグラスの中身は同じ毒だったのか。
どうしたらいい。どうしたら助けられる。毒の対処なんて、どうしたら──
──たまにあるんだよ。
不意に、祖母の背中が浮かんで。
「胃洗浄……」
同時に、単語がぽつりとこぼれ落ちた。
「俺がやろう。ナキが暴れる可能性がある」
理由を訊くより先に、グレイは言った。
どこから調達したのか。顔の下半分を覆った手巾の端を頭のうしろで結んでいた。
「管は治療室だな?」
「確か、そのはず……」
「毒を排出する。下剤を準備しておけ」
「う、うん。あと鎮静剤だね」
「ああ」
「え、ちょっと、どういうこと? グレイも、確かめてからにしてよ」
「……悪い。俺も動転してる」
困惑したファイクに、いち早く動き出していたグレイが動きを止める。
「ラスター、この毒が何かわかったってこと?」
「もしかしたら、だケド……」
思い出せ。ラスターは知っている。もてない確信が口の中で居座るも、覚えがある。きっと。
「似てるんだ、ボクの村でたまに起きた中毒症状と。野菜に似た毒草で、草の根っこを間違って食べちゃった人がこんな症状だった、気がする」
可能性のひとつでしかない。あのときは祖母が薬から何から対処していたし、ラスターはその補助をしていただけだった。記憶に引っかかっていたのは、ラスターが作った薬が払いのけられてしまったから。こんなものが飲めるかと、怒気を露わにされながら。
「毒に関してはボクもそこまで詳しくない。お医者さんじゃないから、当たってるかどうかもわからないケド……でも、もし当たってたら、なんとかなると思う」
「ナキは助かるかもしれない、だね?」
ファイクの言葉に頷く。
「──乗った。手をこまねいているよりは、可能性に賭ける」
「僕も。分析を急ぐよ!」
くぐもったグレイの声が、動き始めたファイクが、頼もしく思える。
「ラスター。症状がわかるなら、俺たちの補佐をしながら以前と同じ症状かを見極めてほしい。わかるのは、あんたしかいない」
「うん。それと、お母さんが戻り次第、治療師を呼びに行こう。ボクたちよりはずっと詳しいはずだから」
「賢明だな。それで、どうしたらいい?」
「ええと、寝かせてあげて。それと、遮光して、頭を冷やして──」
祖母のやっていたことを、ラスターは記憶の底から引っ張り出す。丸まっていても、きびきびと動いていたあの背中を。けれどもここに祖母はいない。祖母の背中を見ていたラスターしか、ここにはいない。
やるしかない。まだ助けられるなら。助けられる可能性が、ここにあるというなら。
ラスターは祈る。ナキの体力が保ってくれることを。絶対助けるのだと、同じ思いが三つ、ここにあるのだから。