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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
六章 アルティナ王国Ⅲ
121/207

121,知らない、知らない、奥底で


 ──ラスター殿をこれ以上巻き込みたくなければ、私とともにアルティナまでお越しください。


 聞こえよく言うのなら、提案だった。実際にはそんな易しいものではない。一種の脅迫だ。初めから巻き込む前提で話を進めていただろうに、ずいぶんおかしな言い回しをする。皮肉を重ねようとしたところで、シェリックの頭にふと浮かんだのだ。

 もしも、シェリックがフィノの提案どおりに戻ったならば──?

 フィノの羽織る漆黒の外套は、賢人かそれに連なる者の証。フィノが見習いであれ賢人であれ、シェリックが賢人として戻るのなら、少なくとも同等、もしくはそれ以上の地位には就ける。

 だからシェリックは甘んじて受け入れた。フィノの提案を。シェリックが王宮に、賢人として戻れるのなら、フィノの提案を根本から覆せる可能性が浮かんだから。

 従ったと見せかけて反旗を翻せるように。ラスターを王宮に留めようとする者がいるなら、シェリックに対する人質として扱おうとする者がいるのなら、その者の意見を真っ向からはねのけられるように。

 アルティナ王国における賢人という地位は、決して低くない。ラスターを利用された分、こちらもその地位を存分に利用してやろうと思ったのだ。

 レーシェはぎこちない笑みでもって、シェリックの問いを受け止めた。


「怖い人ね……誰に似たんだか」


 シェリックは息を吐いた。そんなのは決まっている。


「一人しかいないだろう。あいつと似たと言われるのはしゃくだが」


 こんな無茶苦茶な考え方をして、そんな方法を思いつかせる人物など、リディオルしかいない。それはレーシェとてわかっているだろうに。

 シェリックだって、リディオルと再会しなければ、こんなことを思い浮かべられたかどうか怪しい。ルパで出くわしたのと、船で一緒だったのと。ほんの数日だったとはいえ、すっかり悪影響を与えられたものだ。

 感謝していないこともない。認めるのは本当に癪だけれど。


「──あの人みたいだと、思っただけよ」


 刹那。ばっとレーシェを顧みる。

 捉えられたのはほんの一瞬。瞬きの間に消えてしまうくらいの、わずかな変化。それでも、シェリックが察するには十分すぎた。

 無理矢理貼りつけたような笑顔。どうしてそんな表情をしていたのか。その理由を、もっと考えていれば良かった。

 痛みを堪えるみたいに、口に出すことすらはばかれていたように。

 シェリックは知っている。見たばかりではないか。つい先日、シェリックを呼び出したセーミャの表情を。他に何を犠牲にしても、と言わんばかりに。セーミャがそれほどまでに望んだのは誰だったか。

 憂いと切なさと。思い起こしてしまった胸の痛みが、いつか抱いた感情と重なって。そんな顔をしないでくれと叫ばずにいられたのは、今があの日とは違っていたから。大人になったシェリックの理性が、変えることを是としなかったから。

 ──六年前のあの日、寂しそうな目をしたレーシェの脳裏に、誰がよぎったのか。知っている。シェリックにはわかる。それが、誰なのか。


 甦る。戻ってくる。六年前の思いが。禁術を行うと、決めたあの日が。

 まるで六年前のやり直しだ。あの頃よりも大人に近づいたシェリックが、あの日と同じ顔をしたレーシェを見下ろしている。

 こんなに小さかっただろうか。完璧だったこの人は。こんなにも小さく、華奢きゃしゃな肩をしていただろうか。この六年のうちに、小さくなってしまったのか。それともこれが、あの日から流れてしまった六年という歳月の、代償だとでもいうのか。

 そんな顔をさせたくなかった。シェリックに笑いかけるその裏で、どれほどの悲しみを押し込めていたのだろうと。

 涙を流せずにいたセーミャがあの頃のレーシェと被って、気になっていた。大切な人と会えなくなった悲しみを晴らせないかと。憂いを取り除き、空虚感を埋められはしないかと。余計なお節介とは知りながらも、何かできはしないだろうかと。セーミャ、を──

 いや、違う。セーミャに対してではない。シェリックは、セーミャを見ていたのではない。セーミャにかぶった境遇を面影を、追いかけていた。シェリックが見ていたのは、セーミャではない。

 伝えられなかった言葉。決して見ないと決めていた思い。


 ──そうか。これは、あの日の続きだ。

 この人を救いたかった。いなくなってしまった彼への悲しみが、少しでもなくなるように。

 この人を助けたかった。彼の代わりになれるように。

 この人が笑顔でいられるように。この人の傍にいられるように。そう思って、シェリックは──


「レーシェ」


 ずっと、目を背けていた。

 その感情の正体が何であるか、確かめられずにいた。知ってしまったら、穏やかな日々が壊れてしまいそうで。仮に認めたとしても、レーシェを困らせてしまうだろうことはわかっていたから。

 六年前の禁術が失敗して、レーシェに大怪我を負わせて、後悔ばかりが募って。

 シェリックを連れ出したのはラスターだった。シェリックより十も年下の少女。いつでもあっけらかんとしていて、真っ直ぐ言葉をぶつけてきて、どこかレーシェに似ていて。

 ラスターを助けて、そうすることで、シェリックはうしろめたさを軽くしたかった。

 ラスターを助けていたその裏で、レーシェを助けたつもりになっていた。

 ラスターではない。セーミャでもない。シェリックが本当に助けたかったのは──


「俺は、おまえを助けたかった。ラスターを助けながら、その実、ずっとおまえを助けている気になっていたんだ」


 六年前、レーシェにできなかったこと──レーシェを助けられなかったこと。ラスターに手を差し伸べたのは、その代わりだった。

 シェリックはラスターを、レーシェの身代わりにしていたのだ。

 今ならわかる。ラスターがレーシェの実の娘だと、レーシェは生きていたのだと、それがわかった今なら。

 牢から連れ出されたからではない。ラスターがレーシェに似ていた、それだけではない。全て、全て、シェリックの身勝手な思いのせいだ。

 優しくしたくて、そうありたくて、それはラスターのためではなかった。


「そうなんでしょうね。あの子は、私の娘だから。私の面影は少なからずあったでしょう」


 どうしてラスターから目を離せなかったのかなんて、問う必要もない。答えは初めからここにあった。六年前から──いや、それよりも前から、答えはシェリックの中にあったのだ。レーシェに言えなかった思い。なかったことにしたかった感情。それが答えだった。


「俺は、おまえを──」

「じゃあ、今は?」


 ふっと笑ったレーシェが、言葉を遮った。


「──今?」


 妙な返しをされた気がして、意味をつかみあぐねる。


「あなたは私のためだったという。罪滅ぼしなのかわからないけれど、それはあなたが一番よくわかっているし、間違ってはいないでしょう。でも、今も同じかしら?」

「ああ」


 今も昔も変わらず。この人の憂いを晴らしたいと、この人を助けたいと、そう思っている。


「嘘ね。同じはずがないわ」


 届けられなかった思い。六年越しの言葉。それが、同じではない?

 レーシェは断ち切ってくる。今このときは、六年前ではないのだと。

 返答に詰まるシェリックへと、レーシェは笑いかける。まだわからないのかと、困ったように教えてくれた。見当もつかないシェリックへと、その答えを。


「だってあなた、今私に話しかけながら、誰のことを考えているの?」

「誰のことなんて、そんなの、おまえに──」

「私を見ながら、その向こうに一体誰を見ているの?」


 憂いを帯びた表情は嘘だったとでも言いたげに、レーシェは尋ねてきた。できの悪い子どもへと、優しく諭すように。

 シェリックが助けたかったのはレーシェだった。けれどもレーシェは違うという。シェリックが見ているのは、レーシェの向こうにいる誰かだという。

 レーシェ以外に誰がいるというのだ。シェリックはずっと、ずっと、ただ一人のために。

 ──ただ一人? 本当に? ではなぜ、シェリックは賢人に戻ろうとしたのだ? レーシェのためではないと、言ったばかりではないか。

 違う、それはレーシェのためだ。レーシェを助ける代わりにラスターを助けて、レーシェを助けた気になっていて──


「俺、は……」


 シェリックが、本当に助けたかったのは──?


「きっと、あなた自身も気づいていないんじゃないかしら? でもね、私にはひとつだけ言える。あなたが私に向けているのは恋情でも慕情でもない。私に怪我を負わせた罪悪感だけよ。それは特別な感情かもしれないけど、恋慕とはほど遠い感情だわ」


 特別な感情。レーシェに抱いていた思いは、シェリックがずっと隠していた思いは──そんなものでしかなかったのか。


「違う」

「違わない」

「俺は──!」


 荒げかけた声が鎮められる。笑みの納めたレーシェの両目に。その静かな色に。シェリックがレーシェに抱いていたこの気持ちは、思い込みでしかなかったのだと。


「私は、あなたを恨んではいない。あんな無茶な頼みごとをさせてしまったのは、私よ。結果としてはあの人に会えなかったけれど、恨むわけないじゃない。だからあなたももう、解放してあげて。あなたを、私というかせから」

「──枷?」


 何を言うのだ。


「縛られてなんかいない。出まかせを言うな。俺は、おまえのために──っ」


 レーシェの枷など存在しない。縛られてはいない。たとえあったとしても、縛りつける枷なんてものはずっと前に外されている。この身を戒める鎖は既に失われた。だというのに。

 わからなくなる。自由なはずのこの身が、動けなくなる。レーシェに縛られていた? レーシェのためではない? ならばシェリックは何のために? 誰のために──?


「シェリック」


 呼ばれる。レーシェに名前を。そうして教えられる。シェリックは。


「あなたは、あなた自身を許してあげて」

「許す……?」


 浮かぶ余地すらなかった単語が、音だけを形作る。それは今初めて聞いたような、不思議な響きを伴った。


「ええ」


 頷いたレーシェが優しく微笑む。


「あなたはもう、許されていいのよ」


 その瞬間だった。

 ひと筋、柔らかな風が吹いたのは。

 二人の間を通り抜けて、またどこかへと向かって。

 シェリックはそこに立ち尽くしたまま、聞いているしかなかった。

 レーシェの言葉も、風の声も。シェリックの内側を通り抜けて、あるいは脇をすり抜けて、行方もわからぬどこかへと消えていく。

 シェリックをここに連れてきた彼のように。

 禁術を起こし、生死を彷徨った彼女のように。

 誰も彼も暖かく、残酷に通り過ぎていく。

 穏やかで、無情な、二人をわかつ風が。

 それは雲のように。移り変わる季節のように。長らく留めはしない。昔のままでいることを、六年前と同じであることを、認めはしない。

 それでも、その風は穏やかで。優しい、優しい、あのときを思い起こさせた。



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