119,火のないところに立たぬと
「鉱石学者見習いに用事なんて、何かあった?」
隣を歩くレーシェから何気なく問われ、ラスターは視線をさ迷わせた。
廊下を見上げたところで高い天井があるだけだし、外は暮れゆく夕日に向かって走りたくなるような、いい天気だ。うっかりここから逃げ出したくなるほどに。
何をどう説明したらいいだろう。大切にしろと言われていた石を落としたことからか。その石にひびが入っていたことか。これは本当に星命石なのかも訊いてみたい。
一種の逃避なのかもしれないが、訊きたいのは本当だ。まずは当たり障りのないところからいこうと、ラスターは腹を決める。主に、二番目以降の質問へと。
「お母さんが肌身離さずつけておきなさいって言ってた石、あるじゃん」
「ええ。それが?」
「これって、星命石なの?」
首から下げていた麻紐を引っ張り、先端に下げられている石をレーシェに見せた。事細かに説明するより、見せた方が早い。それに、見せるだけで大体全ての疑問が払拭されるはずだ。
「ええ、そうよ。大事に持ってくれてるのね。嬉しいわ」
肯定してもらえた嬉しさよりも、申し訳なさの気持ちが勝る。
「……それ、なんだケド」
「それ?」
「落としちゃって……」
「落としたの?」
小さいから見つけづらいだろうか。麻紐を首から外し、レーシェの手に渡す。
喜んでもらえた直後にこんな報告をするのはとてもいたたまれない。シェリックに言われるまで、ラスターはなくしていたことにも気づいていなかったから、余計にだ。
それは果たして、大事に持っていたと言えるのだろうか。
「ここ、なんだケド……」
ラスターも一緒になって覗き込み、傷のついた部分を指で差した。
「──あら」
目を凝らして眺めていたレーシェも、ようやく見えたらしい。昨日、ラスターが見つけてしまった、石に入っているひび割れを。
「落としたときに?」
「うーん……多分、そうだと思う。気づいたらついてて、シェリックがフィノに訊いてみたらどうかって。星命石のコトなら、ボクたちよりも詳しいだろうからって言われて……」
「それで用事。確かに、専門外である私たちよりは、何か知っているかもしれないわね」
石を間近で眺め、ラスターがしたのと同じように石の表面にも触れて。
「──そうね、フィノだったら直せるかもしれないわ。はい、ありがとう」
そんな言葉とともに、石が返される。
やはり星命石だった。この石は、ラスターの星命石だった。母親に肌身離さずつけておきなさいと言われたのは、これが星命石だったからなのだ。
そんな大切な石を、ラスターは落としたばかりでなく、傷までつけてしまった。
石をくるんでいる銀の飾りごと、ラスターはぎゅっと握りしめた。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「傷つけちゃった……」
誰にもらったのかは覚えていない。でもきっと、祖母か、母親か、ラスターの知らぬ間に贈ってくれたのだろう。星命石は赤子に贈られる石だから。生まれたばかりのラスターに、お守り石として授けてくれたのだ。
大事に持っていられなかった。ラスターのために贈られた星命石だったのに。
「形あるものはいつか壊れるのよ。私は、あなたがずっと持っていてくれただけで十分だわ。故意に落としたわけでも、割ろうとしたのでもないんでしょう?」
「うん……」
「だったらいいわ。それは私たちの願いを込めただけだから、あなたが背負い込む必要はないの」
ラスターは目をぱちぱちさせた。
「願いって?」
「あなたが健やかであるように。誰かを癒やせる人であるように。元気な姿を見せてくれたから、ひとつは叶ったかしら?」
星命石。生まれた赤ん坊に贈られるお守り石。どうやら、贈る人たちの願いが込められたものでもあるのらしい。
「初めて聞いた……」
「言ったこともないし、聞かれたこともなかったからね」
澄ました顔でうそぶかれてしまう。
「それ以前に、いなかったじゃん」
「そうね。元気に育ってくれて嬉しいわ」
目を細めながら言われてしまっては、怒るに怒れない。こっそりと息を吐いて、ラスターは星命石を首にかけ戻した。もう二度と、落としたりなくしたりはしない。
けれども、これ以上ひび割れが広がりはしないだろうか。変な力が加わって、割れたりはしないだろうか。ラスターはそれが心配だ。
そうならないように、大切に持っていればいい。今度こそ、肌身離さずに。
問題は、この傷を修復できるかどうか。
「ねえ、お母さん。フィノたちがいる部屋ってどこ?」
「ここよ」
薬室を出てから数十歩。話をするために止めていたと思っていた足は、どうやら違っていたようだ。現に、うしろを振り返れば、すぐそこに薬室が見える。
もう一度、レーシェの指差した部屋を眺めて。
「……隣?」
「ええ。近いでしょう?」
なんて恥ずかしい。王宮の場所に詳しくないから案内を頼んだのに、まさかすぐ隣に位置していたとは。
「……ありがとう」
「どういたしまして。用事が済んだら戻っていらっしゃい」
「はーい……」
部屋の位置の疎さを恨めしく思う。気づかなかったラスターも悪いかもしれない。けれど、外に何も掲げていないこの部屋も悪いのだ。決してラスターのせいばかりではない。
レーシェに手間をかけてしまったことを申し訳なく思うけれど、思いがけず石について聞けたから良かったとする。
ラスターも、いつか誰かに贈る日が来たりするのだろうか。
「想像つかないケド」
もしその日が来るなら、ラスターも願いを託そう。レーシェがラスターにしてくれたように。願いを込めて、星命石を贈ろう。
そんな決意を抱きながら、ラスターは目の前の扉を三回叩いた。
しばらく待っていると、扉が開くともに、むわっとした匂いが押し寄せてきた。どこか覚えのあるような、乾いた土の匂い。
「──はい? おや、どうかされましたか?」
見知らぬ人が出てきたらどう尋ねようかと考えていたら、現れたのは幸いなことにフィノだった。
両手には布製の手袋をはめ、これまた布製の前掛けをつけている。何か作業をしている最中だったかもしれない。
「こんにちは、フィノ。訊きたいコトがあるんだケド、少しいい?」
「こんにちは。ええ、構いませんよ。どんなことでしょう」
急ぎも焦りもせず。聞いてくれる体勢となったフィノへ、ラスターは再度、首にかけていた星命石を外した。
「星命石にひびが入っちゃってて……これ、直るかな」
「ひびですか」
フィノは手袋をつけたまま石を受け取り、銀の飾りの外側から石を調べる。触ったり、逆さにして眺めたり。フィノの調べる目が、ある一点で止まった。
「──ああ、これですね。……残念ですが、修復はできかねます」
「そっか……」
もしかしたら簡単にできるのではないかと、少しだけ期待していた。直らないときっぱり言われてしまうと、諦めるしかない。
「お力になれず申し訳ありません」
「ううん、大丈夫。直せないってわかっただけでも良かったから。ありがとう、フィノ」
返してもらった星命石を首にかける。
ひびは直らない。ならばこのままひびは広がっていき、やがて割れてしまうのだろう。レーシェの言ったように、形あるものはいつか壊れてしまうのだ。知っていても、どこか寂しい。
ラスターの不注意でなくしたりしなければ、もっと長くこの形を保ってくれただろうに。
「その石はやはり、星命石でしたか」
「あ、うん。ボクもさっき知ったばかりなんだ」
そういえば、フィノには一度見せたのだったか。ルパで話をしたときに、これは星命石なのかと問いかけて。
「お母さんが、願いを込めたんだって」
「それは素敵ですね。この星命石は、ラスター殿がもらったふたつめの贈り物ですね」
「ふたつめって?」
覚えがあるのは、この星命石だけだ。それ以外にされた贈り物なんて、思い当たらない。
「形のあるものばかりとも限りません。誰でも、初めての贈り物は一生持っているでしょう」
解けなければ進めないなぞなぞみたいに。浮かばないラスターは首をひねる。
ついには、苦笑したフィノが教えてくれるのだった。
「ラスター殿。あなたが名乗る、その名前です」
「──あ」
形はない。けれど、音として、言葉として、ラスターがラスターであるための証として、それは確かにあった。
「そっか……うん、そうだよね」
煮えきらない返事が答えを鈍らせる。
形のない初めての贈り物。ではもし、それがなかったなら? その人がその人自身であるための証が、なかったとしたら?
──じゃあ、本当の名前は?
「この傷は、いつお気づきに?」
「──あ、うん。昨日かな。落としちゃってたみたいで、そのときに割れたのかも」
引き戻された現実。ラスターは考えごとに無理矢理ふたをした。
「お気をつけてくださいね」
「うん。落とさないようにするよ」
母親の願いが込められた石なのだし。もう二度と、なくしたりしないように。
「ああ、いえ、それも大事ですが、私がお話ししたいのはそうではないんです。石──とりわけ星命石には、言い伝えられている話がありまして」
「言い伝え? どんなコト?」
聞いたことがない。耳を傾けるラスターへ、フィノは教えてくれた。
「『傷のついた星命石へと最初に触れた者に、不幸が訪れる』と。迷信のようなものですけどね」
最初に、触れた者。
ラスターは自分の手の平を見下ろす。
「……触っちゃった」
「迷信ですから、必ずしも起こるわけではないですよ。単なるうわさ話だとでも思っておいてください。それに、ラスター殿の石は飾りに守られていますから、むき出しのままよりは触れにくいですし、ひびもそれ以上割れにくいと思いますよ」
「フィノは? フィノにも触らせちゃった」
「私は手袋をつけていますから。鉱石を触るときは直接手に触れないようにしているので、問題ないですよ」
フィノが両手を見せてくれる。はめていた手袋は、どうやらそのためのものだったようだ。
「そっか……」
ラスターはほっと胸をなで下ろす。ラスターが来る前にもきっと、鉱石を触っていたのだろう。
傷のついた星命石に最初に触れる人。フィノの言うように、この星命石には飾りがついているから、石に直接触れる人なんてそうそういない。けれど気をつけないと。これ以上割れないように、触らせないように──
──ありがとう、シェリック。
──俺じゃなくて。
シェリックに渡された。どこで見つけたのかと聞いたラスターに、治療室じゃないかと返されて。
どくん、と。心臓がひとつ波打った。
──ユノに言ってやれ、俺は、託されただけだ。
そうだ。そういえば、シェリックが言っていた。シェリックは託されただけだと。ユノがこの石を拾ったのだと。ユノ、が──?
どうしてだろう。変な符号だ。関連性なんてないだろうに、結びつけたくなってしまうのは。
ラスターは勘違いをしているのかもしれない。初めに触れたのは、もしかして──
「フィノ、ありがとう。それじゃあ!」
「はい、どういたしまして」
挨拶もそこそこに、ラスターは治療室めがけて駆け出す。
フィノは迷信だと言った。まさかそんなことはないだろう。不幸が訪れるなんて、そんなことは。
──気のせいだよね。
そうだと思いたい。思い過ごしだと、ラスターの取り越し苦労でしかないのだと。
でも、迷信じゃなかったら? 本当に起きるのだとしたら? ユノが怪我したのは、ラスターの星命石に触ってしまったからだったとしたら?
冗談にしたいのに、笑い飛ばしてしまいたいのに、それができない。だって、ユノの怪我は嘘ではない。言い知れないこの不安が杞憂だったらいい。杞憂だったら──
向かう足が、心が、逸る。