118,明けた空に、陽はまた昇る
──ありがとう。
蔑み、疎まれ、罵倒されることはあっても、自分にそんな言葉をかける人間など皆無だった。妙ちきりんな人間もいるのだとしか、思わなかった。
それでも、初めて頭をなでられたあの日。背が縮むのではないかと思ったくらい上から押さえつけられ、髪をぐしゃぐしゃにされて、感謝を告げられたあの日。
迷惑だと叫んだその反面、筆舌に尽くしがたいほど嬉しかったのを覚えている。むずがゆい思いと気恥ずかしい気持ちと。照れくささから仏頂面になるも、顔が赤くなってしまうのは嫌でもわかった。そんな自分へと笑いかけてくる『彼』があまりに優しかったから、『彼』を真正面から見れず、自分の顔を隠すのに必死だった。
どうしてそんなに優しいのかと問えば、『彼』も似たような境遇だったからだと。同じような思いをさせたくないからだと、そう返された。
いらない人間じゃない。たとえ必要とされなくても。ここにいていいのだと、そうも言われたのだ。自分は存在してもいいのだと、認めてもらえた気すらしていた。
『彼』への思いを忘れたことは、一日たりともなかった。
忘れはしない。忘れるなんてできない。
拾ってくれた恩と、名をもらった感謝と、初めて手にした生きる理由と、それから仲間たちに恵まれて──その全てに裏切られたこと。
夢のような日々だった。思い描いた理想みたいな世界だった。
けれどかつて夢見たそのまま、それは夢でしかなかった。ただの幻想で、嘘にまみれ、虚構で作り上げられた現実だった。
脆く儚い夢の世界は、いつか必ず覚めるときがやってくる。願っても、願わずとも、覚めてしまえばそこでおしまいだ。
塗り固められていた虚構を暴かれ、現実を突きつけられ、信じていたあらゆるものを踏みにじり、『彼』は自分の前から姿を消した。痕跡すら残さず、ふっつりと。
あまりにもあっけない幕切れを前にして、彼の存在こそが夢だったのではないかと思った。ならば、この胸に居座るどす黒い感情は? 行き場のない激情の塊だけが、『彼』が確かにいたのだという形跡だ。
偽りの優しさの裏側を見抜けず、それどころか全面的に信頼を置いていた。あまつさえ、『彼』の元こそが安寧なのだと、どうして信じ切ってしまったのか。追いかけようとした『彼』の足跡は一向に見つけられず、手も足も出ずに終わってしまった。
騙されていたことも、打つ手がなかったことも、逃げるしかできなかった自分も──何もかもが悔しかった。
忘れてはならない。
他の誰もが忘れてしまっても、自分だけは覚えていなければならない。この感情の渦が消えてしまわないように。どこまでも暗く、深い感情が、間違っても癒されたりしないように。
だから、そうできるだけの強さが欲しかった。
激情を消せずにいられる力をも欲した。力を求めたなら、『彼』に対抗できるかもしれない。『彼』へと叩きつけたい感情の全てを、忘れられずにいられるのかもしれない。
本物の力を、夢などではない現実においての強さを手に入れたかった。
すぐに消えてしまうものではなく、仮初めのものではなく。
偽物の存在でしかなくとも、借りものの命でしかなくても、真実が望んだ答えではなかったとしても、それでも『彼』にたどりつけるなら。
どんなことをしても構わなかった。何が起こっても良かった。そこに苦痛が待っていたとしても耐えられた。
もう一度、もう一度だけ。
『彼』に会えるのなら。この激情を吐き出せるのなら。
願うのはただひとつ。
『彼』をこの手にかけたいと。
**
きらきらと。さんさんと。
あふれんばかりにさざめく光を浴びながら、シェリックはのんびりと歩くセーミャを追っていた。
一歩一歩踏みしめた足の運び。シェリックが普段歩くより少し遅いくらいだから、周りを見渡す余裕があった。
森の色が、いつの間にか緑だけではなくなっている。いつもよりめまいを覚えるような気分になるのは、この色合いのせいか。こんなにも鮮やかだったろうか。一昨日セーミャに連れられてきたときよりも、彩り豊かに映る。
シェリックがそう感じたのは、何も森の中だけではない。シェリックから数歩離れ、先を歩いているセーミャの足取りもどこか違って見えた。
何が、どう、と訊かれると説明に困る。ただ、シェリックがそう感じた、それだけだ。
──あっちは俺が何とかすっから。
普段の人となりにそぐわない言動をしたリディオルが、恐らくはその言葉通りに何とかしてくれたのだろう。呼び出された結果がそうであったならいい。
けれど、もし、そうではなかったなら。セーミャがもう一度、禁術を望んだなら?
──いや。
何度でも断る心持ちではいる。いるけれど、浮かんだ考えをまず否定しなければならない。
リディオルが何とかすると断言したのだ。そうできる見通しもあるのだと。だからセーミャは、禁術を望んだりはしない。願望にも似た思いを確認したくなるも、そこは堪える。代わりに、シェリックは別の問いかけをした。
「どこまで行くつもりなんだ?」
違うのはもうひとつあったか。セーミャが向かっている方向だ。
シェリックが塔にいたから、そこから離れる方向へ歩いているのは当然なのだが、セーミャがどうしても来て欲しいと譲らなかった。目的地が塔だったなら、あの場で話をしただろうに。
「もう少しです」
こちらを顧みず、セーミャはひと言だけ返してくる。振り返らないのをいいことに、シェリックはこっそり嘆息した。
この調子で行先も明確にしてくれない。敷地内を歩き回ったおかげで、建物の位置関係をある程度思い出しはしたけれど、セーミャがどこへ向かっているのかは想像がつきかねる。
海の方角へ歩いているのはわかるが──海?
思い当たりそうだった想像が、葉を踏みしめる音で霧散する。
こなごなに砕かれた葉が密度を増し、地面をさらに覆い隠していく。下を向かずとも、足下に敷き詰められた黄色が嫌でも目につき、明度にくらみそうになった。
下を見ても前を向いていても視界に入るのだから、仕方なしに空を仰ぐ。今度は、木々から漏れた光がシェリックの目を容赦なく射た。
強すぎる光は目に毒だ。どこまでも人の思考を遮りたいらしい。昼刻の時間は嫌いではないが、どうにも慣れない。シェリックが好む時間帯ではないからか。
目頭に手を当てて一度逃れ、再度前方へと戻した目が、開けた空を映した。
森の終わり。そこから覗いた青空。ところどころに漂う雲へと、一本の煙が立ち上っている。つい先刻、浮かびかけて消えてしまった想像が、現実味を持って現れる。
海へ近づくなら、必然的にその場所へも近づく。
海にほど近い王宮の敷地。小高い丘となっているその場所で治療師が弔われたのは、まだ昨日のこと。三日三晩、絶やさずに灯される炎が、治療師を葬送する導となるのらしい。
今日で二日目。
立ち上る煙は、今まさに治療師を空へと送っているところだろう。
「すいませんでした」
同じ光景を見ていたであろうセーミャが、気づいたらシェリックへと頭を下げてきていた。
お辞儀をしても真っ直ぐな背。ひとくくりにされた髪。結わわれなかった髪がはらりと落ち、彼女の頬にかかった。
「謝られる謂れはないが」
「禁術のことです」
顔を上げ、セーミャはそう口にした。
真正面から見返してくる目。そこには、二日前に見せていた、狂気にも近い感情は見られない。まだ穏やかではないが、決してきつい眼差しでもない。けれど、セーミャの意志が宿る色をしている。
がちがちに力の入っていた肩もなく、いい意味で力の抜けたような姿勢だった。まるで、二日前と今では、別人だったかのように。不意に、セーミャが微笑んだ。
「もう、禁術は望みません。お師匠様が空に還る路の邪魔もしません。大丈夫かと言われると、それはあまりわからないですが……なんとかします」
「どういう心境の変化だ?」
儚い希望に縋っていたセーミャが、その希望を捨てるのだという。今にも壊れてしまいそうに笑い、狂おしいほどに禁術を希った彼女は、もうそこにはいない。面影ひとつでさえ、別の人がなりかわったようだ。
何かが起きなければ、変わりはしない。何か──恐らくは、リディオルがしたと思われる、何かだ。
「師が、手紙を残してくれていたんです。立ち止まっても、いつかまた、前に進むときが来るのだと。人は、それを繰り返して生きていくのだと。師の最後の教えを頂きました」
懐かしむように、セーミャの目元が和らぐ。柔らかく、慈愛に満ちた表情。セーミャはよく見せていた。セーミャ自身、気づいていないだろう。彼女が治療師とともにいたとき、よくこんな表情をしていたのを。
胸元に当てたセーミャの手が語る。彼女の師の教えを。彼女の師の言葉は、ここにあるのだと。
「なので、師の教え子であったことを恥じないように、振り返らないようにすると決めたんです。思い出してうしろを振り向いても、人が歩いて行くのは前に向かってですから」
どうしてレーシェに似ているだなんて錯覚してしまったのだろう。今のセーミャとレーシェは、似ても似つかないのに。
「……そうか」
「はい!」
破顔したセーミャが大きく頷く。青空を背に。空へ向かう師を後方に。セーミャは、ここから進むと決めたのだ。
二日前と違う。あの日のセーミャではない。いつになくセーミャがまぶしく見えて、シェリックは目を細めた。
「──強いな、あなたは」
ついこぼれた感想に、セーミャは眉尻を下げて首を振る。
「そんなことはありません。わたし一人では気づけませんでしたから。まだまだ弱いです。けれど──」
いたずらめいた顔をして、セーミャは笑った。
「人は打たれ強いんです。くじけても、へこたれても、また立ち上がる強さを持っているんです。人の思いは、決して弱くありません。考え方ひとつで、いかようにも変えられるんです。ご存じありませんでしたか?」
晴れやかに語るセーミャを見て思う。
いったい誰にそれを教わったのやら。セーミャにそう諭したのは、シェリックもよく知る人物ではないかと。
「それは知らなかったな」
「ではひとつ、情報更新ですね」
セーミャの変化に。立ち上がった彼女の強さに。何度も、何度も、思わずにはいられない。
シェリックに強さがあったなら。レーシェの意志をくじく覚悟があったなら。禁術を取りやめていたなら。乗り越えることができたのではないか。
懺悔も後悔もせず、王宮でともに過ごせたのではないか。レーシェに重傷を負わせることなくいられたのではないか。
もし、もしも──
過去のやり直しができたなら。叶わないとわかっていても、想像せずにはいられない。
人の思いの強さを、意志の強さを、曲げずにいられたのなら。
六年前の禁術を、止めることができたのではないか、と。