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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
六章 アルティナ王国Ⅲ
118/207

118,明けた空に、陽はまた昇る


 ──ありがとう。


 蔑み、疎まれ、罵倒されることはあっても、自分にそんな言葉をかける人間など皆無だった。妙ちきりんな人間もいるのだとしか、思わなかった。

 それでも、初めて頭をなでられたあの日。背が縮むのではないかと思ったくらい上から押さえつけられ、髪をぐしゃぐしゃにされて、感謝を告げられたあの日。

 迷惑だと叫んだその反面、筆舌に尽くしがたいほど嬉しかったのを覚えている。むずがゆい思いと気恥ずかしい気持ちと。照れくささから仏頂面になるも、顔が赤くなってしまうのは嫌でもわかった。そんな自分へと笑いかけてくる『彼』があまりに優しかったから、『彼』を真正面から見れず、自分の顔を隠すのに必死だった。

 どうしてそんなに優しいのかと問えば、『彼』も似たような境遇だったからだと。同じような思いをさせたくないからだと、そう返された。


 いらない人間じゃない。たとえ必要とされなくても。ここにいていいのだと、そうも言われたのだ。自分は存在してもいいのだと、認めてもらえた気すらしていた。

『彼』への思いを忘れたことは、一日たりともなかった。

 忘れはしない。忘れるなんてできない。

 拾ってくれた恩と、名をもらった感謝と、初めて手にした生きる理由と、それから仲間たちに恵まれて──その全てに裏切られたこと。

 夢のような日々だった。思い描いた理想みたいな世界だった。


 けれどかつて夢見たそのまま、それは夢でしかなかった。ただの幻想で、嘘にまみれ、虚構で作り上げられた現実だった。

 脆く儚い夢の世界は、いつか必ず覚めるときがやってくる。願っても、願わずとも、覚めてしまえばそこでおしまいだ。

 塗り固められていた虚構を暴かれ、現実を突きつけられ、信じていたあらゆるものを踏みにじり、『彼』は自分の前から姿を消した。痕跡すら残さず、ふっつりと。

 あまりにもあっけない幕切れを前にして、彼の存在こそが夢だったのではないかと思った。ならば、この胸に居座るどす黒い感情は? 行き場のない激情の塊だけが、『彼』が確かにいたのだという形跡だ。

 偽りの優しさの裏側を見抜けず、それどころか全面的に信頼を置いていた。あまつさえ、『彼』の元こそが安寧なのだと、どうして信じ切ってしまったのか。追いかけようとした『彼』の足跡は一向に見つけられず、手も足も出ずに終わってしまった。

 騙されていたことも、打つ手がなかったことも、逃げるしかできなかった自分も──何もかもが悔しかった。


 忘れてはならない。

 他の誰もが忘れてしまっても、自分だけは覚えていなければならない。この感情の渦が消えてしまわないように。どこまでも暗く、深い感情が、間違っても癒されたりしないように。

 だから、そうできるだけの強さが欲しかった。

 激情を消せずにいられる力をも欲した。力を求めたなら、『彼』に対抗できるかもしれない。『彼』へと叩きつけたい感情の全てを、忘れられずにいられるのかもしれない。

 本物の力を、夢などではない現実においての強さを手に入れたかった。

 すぐに消えてしまうものではなく、仮初めのものではなく。

 偽物の存在でしかなくとも、借りものの命でしかなくても、真実が望んだ答えではなかったとしても、それでも『彼』にたどりつけるなら。

 どんなことをしても構わなかった。何が起こっても良かった。そこに苦痛が待っていたとしても耐えられた。

 もう一度、もう一度だけ。

『彼』に会えるのなら。この激情を吐き出せるのなら。

 願うのはただひとつ。


『彼』をこの手にかけたいと。



  **



 きらきらと。さんさんと。

 あふれんばかりにさざめく光を浴びながら、シェリックはのんびりと歩くセーミャを追っていた。

 一歩一歩踏みしめた足の運び。シェリックが普段歩くより少し遅いくらいだから、周りを見渡す余裕があった。

 森の色が、いつの間にか緑だけではなくなっている。いつもよりめまいを覚えるような気分になるのは、この色合いのせいか。こんなにも鮮やかだったろうか。一昨日セーミャに連れられてきたときよりも、彩り豊かに映る。

 シェリックがそう感じたのは、何も森の中だけではない。シェリックから数歩離れ、先を歩いているセーミャの足取りもどこか違って見えた。

 何が、どう、と訊かれると説明に困る。ただ、シェリックがそう感じた、それだけだ。


 ──あっちは俺が何とかすっから。

 普段の人となりにそぐわない言動をしたリディオルが、恐らくはその言葉通りに何とかしてくれたのだろう。呼び出された結果がそうであったならいい。

 けれど、もし、そうではなかったなら。セーミャがもう一度、禁術を望んだなら?

 ──いや。

 何度でも断る心持ちではいる。いるけれど、浮かんだ考えをまず否定しなければならない。

 リディオルが何とかすると断言したのだ。そうできる見通しもあるのだと。だからセーミャは、禁術を望んだりはしない。願望にも似た思いを確認したくなるも、そこは堪える。代わりに、シェリックは別の問いかけをした。


「どこまで行くつもりなんだ?」


 違うのはもうひとつあったか。セーミャが向かっている方向だ。

 シェリックが塔にいたから、そこから離れる方向へ歩いているのは当然なのだが、セーミャがどうしても来て欲しいと譲らなかった。目的地が塔だったなら、あの場で話をしただろうに。


「もう少しです」


 こちらを顧みず、セーミャはひと言だけ返してくる。振り返らないのをいいことに、シェリックはこっそり嘆息した。

 この調子で行先も明確にしてくれない。敷地内を歩き回ったおかげで、建物の位置関係をある程度思い出しはしたけれど、セーミャがどこへ向かっているのかは想像がつきかねる。

 海の方角へ歩いているのはわかるが──海?

 思い当たりそうだった想像が、葉を踏みしめる音で霧散する。

 こなごなに砕かれた葉が密度を増し、地面をさらに覆い隠していく。下を向かずとも、足下に敷き詰められた黄色が嫌でも目につき、明度にくらみそうになった。

 下を見ても前を向いていても視界に入るのだから、仕方なしに空を仰ぐ。今度は、木々から漏れた光がシェリックの目を容赦なく射た。

 強すぎる光は目に毒だ。どこまでも人の思考を遮りたいらしい。昼刻の時間は嫌いではないが、どうにも慣れない。シェリックが好む時間帯ではないからか。


 目頭に手を当てて一度逃れ、再度前方へと戻した目が、開けた空を映した。

 森の終わり。そこから覗いた青空。ところどころに漂う雲へと、一本の煙が立ち上っている。つい先刻、浮かびかけて消えてしまった想像が、現実味を持って現れる。

 海へ近づくなら、必然的にその場所へも近づく。

 海にほど近い王宮の敷地。小高い丘となっているその場所で治療師が弔われたのは、まだ昨日のこと。三日三晩、絶やさずに灯される炎が、治療師を葬送するしるべとなるのらしい。

 今日で二日目。

 立ち上る煙は、今まさに治療師を空へと送っているところだろう。


「すいませんでした」


 同じ光景を見ていたであろうセーミャが、気づいたらシェリックへと頭を下げてきていた。

 お辞儀をしても真っ直ぐな背。ひとくくりにされた髪。結わわれなかった髪がはらりと落ち、彼女の頬にかかった。


「謝られる謂れはないが」

「禁術のことです」


 顔を上げ、セーミャはそう口にした。

 真正面から見返してくる目。そこには、二日前に見せていた、狂気にも近い感情は見られない。まだ穏やかではないが、決してきつい眼差しでもない。けれど、セーミャの意志が宿る色をしている。

 がちがちに力の入っていた肩もなく、いい意味で力の抜けたような姿勢だった。まるで、二日前と今では、別人だったかのように。不意に、セーミャが微笑んだ。


「もう、禁術は望みません。お師匠様が空に還る路の邪魔もしません。大丈夫かと言われると、それはあまりわからないですが……なんとかします」

「どういう心境の変化だ?」


 儚い希望に縋っていたセーミャが、その希望を捨てるのだという。今にも壊れてしまいそうに笑い、狂おしいほどに禁術を希った彼女は、もうそこにはいない。面影ひとつでさえ、別の人がなりかわったようだ。

 何かが起きなければ、変わりはしない。何か──恐らくは、リディオルがしたと思われる、何かだ。


「師が、手紙を残してくれていたんです。立ち止まっても、いつかまた、前に進むときが来るのだと。人は、それを繰り返して生きていくのだと。師の最後の教えを頂きました」


 懐かしむように、セーミャの目元が和らぐ。柔らかく、慈愛に満ちた表情。セーミャはよく見せていた。セーミャ自身、気づいていないだろう。彼女が治療師とともにいたとき、よくこんな表情をしていたのを。

 胸元に当てたセーミャの手が語る。彼女の師の教えを。彼女の師の言葉は、ここにあるのだと。


「なので、師の教え子であったことを恥じないように、振り返らないようにすると決めたんです。思い出してうしろを振り向いても、人が歩いて行くのは前に向かってですから」


 どうしてレーシェに似ているだなんて錯覚してしまったのだろう。今のセーミャとレーシェは、似ても似つかないのに。


「……そうか」

「はい!」


 破顔したセーミャが大きく頷く。青空を背に。空へ向かう師を後方に。セーミャは、ここから進むと決めたのだ。

 二日前と違う。あの日のセーミャではない。いつになくセーミャがまぶしく見えて、シェリックは目を細めた。


「──強いな、あなたは」


 ついこぼれた感想に、セーミャは眉尻を下げて首を振る。


「そんなことはありません。わたし一人では気づけませんでしたから。まだまだ弱いです。けれど──」


 いたずらめいた顔をして、セーミャは笑った。


「人は打たれ強いんです。くじけても、へこたれても、また立ち上がる強さを持っているんです。人の思いは、決して弱くありません。考え方ひとつで、いかようにも変えられるんです。ご存じありませんでしたか?」


 晴れやかに語るセーミャを見て思う。

 いったい誰にそれを教わったのやら。セーミャにそう諭したのは、シェリックもよく知る人物ではないかと。


「それは知らなかったな」

「ではひとつ、情報更新ですね」


 セーミャの変化に。立ち上がった彼女の強さに。何度も、何度も、思わずにはいられない。

 シェリックに強さがあったなら。レーシェの意志をくじく覚悟があったなら。禁術を取りやめていたなら。乗り越えることができたのではないか。

 懺悔も後悔もせず、王宮でともに過ごせたのではないか。レーシェに重傷を負わせることなくいられたのではないか。

 もし、もしも──

 過去のやり直しができたなら。叶わないとわかっていても、想像せずにはいられない。

 人の思いの強さを、意志の強さを、曲げずにいられたのなら。

 六年前の禁術を、止めることができたのではないか、と。




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