116,『君へ』
夜半と呼ぶには早く、夕飯刻というには遅い。扉を叩く、あるいは取手を握って開くという誰にでもできる動作。それだけのことをするのに、ためらいを覚えてしまうのは初めてだ。
セーミャとルースを追ったはずが魔術師見習いの三人組にとっ捕まり、雨降りの術や葬送の流れについてなどを訊かれ、一人一人細かに説明していたらこんな時刻になってしまった。
頓挫していた計画もようやく実行できる寸前まで至ったし、ただ時間を取られたばかりではなかったが。
躊躇している場合ではない。リディオルがここにきたのは、必要があったからだ。頼まれたことを果たすために。非常に不本意だが。
叩いた治療室の扉を待つことふた呼吸。扉は内側から開けられ、出くわしたセーミャが露骨に顔をしかめてくれた。
「……ずいぶん長い散歩をされていたようですね?」
「つれねぇなぁ。ちゃんと戻ってきてやっただろうがよ」
疑り深い眼差ししか注がれず、いささか分が悪い。何をどう言い訳したところで一蹴されるのが目に見えている。
ところがその状態も長引きはしなかった。目を伏せたセーミャが、半身を引いたのである。
「どうぞ。あなたのことですから、どうせ大人しく戻って来ただけではないんでしょう?」
「わかってんじゃねぇか」
先に室内へ戻るセーミャは、すたすたと奥へ行ってしまう。
一歩踏み入れただけでむわっと鼻に押し寄せてくる薬の匂い。怪我にも病気にも縁のなかった自分が匂いに慣れつつある。二日もこの部屋に押し込められていたせいだろう。
羽織っていた黒い外套、リディオルが聞いた低い声音はもうない。向けられた背、そこに下ろされていた髪も同様に。
身にまとった白衣。セーミャの髪は頭の中ほどでひとつに結わわれ、動く度に揺れている。昼間とは違い、いつもの彼女の格好だ。
「ルースは賢人になる準備があるからと出かけています。ユノ殿がそちらの塔に戻っているのはご存知でしょう? 他の見習いたちも、今はいません」
卓に置かれていた書物には、ちらと石の写真が見えた。その白黒の写真をもっと見ようとしたところで書物が閉じられる。セーミャの手で重しがされ、それ以上は見せたくないとでも言いたそうに。
「あいつらはいい。用があんのはあんただ」
「──わたしに?」
振り返り、ほんの少し見開かれた両目は、予想すらしていなかったと語る。
「でしたら手短にお願いします。遺族の方へ天命石の説明をしたり、ユノ殿の経過をまとめたり、わたしにもまだやることがありますので」
瞬間見せた驚きは、目を逸らされて隠される。よこされたのはそっけない返事だった。冷淡な態度、それと突き放された物言い。
笑わなくなった。声を荒げなくなった。リディオルがここに居座っていたときよりも、ずっと。
彼女の時間が、あのときから止まってしまったのではないかと思うくらい、今の彼女は感情の起伏が小さい。
師を送ったからか。空高くに。こことは違う世界に。それとも。
「それで、泣いてる場合なんかじゃねぇ、だからあんたは薄情者だって?」
彼女がそう、言われたからか。
「見ていらしたんですか?」
「たまたまな」
セーミャの声がわずかに歪む。苦渋の色をはらんで。
「なら、わかったでしょう? わたしは他の見習いの人たちと違って、お師匠様が亡くなっても悲しまないし、泣けもしない、薄情な奴なんです。あなたも、軽蔑したらいいですよ」
「泣かない奴が薄情者だっつーんなら、俺もあんたと同じ薄情者だな」
「あなたは関わりがあまりなかったじゃないですか。王宮にもほとんどいなかったのを知っています」
ここ数日、王宮に戻ってきているのが珍しいほどに。セーミャの言ったとおり、リディオルとエリウスに深い関わりはない。
「あんたのお師匠様の近くにいたのは、ルースも同じだろ」
「ルースは強い方ですから」
「強いから悲しまないって?」
「そうは言っていません」
「悲しんでいない奴が、わざわざ死者に会いたいなんて思わないんじゃねぇか?」
「どうでしょう? 悲しくても悲しくなくても、会いたいとは思うんじゃないでしょうか。ルースがそんなこと言っていたんですか?」
「それが禁術だと知りながら、なお望んだりもしねぇだろ」
演劇のようにすらすらと続いていた会話が、ふつっと途切れる。思い違った答えを返していたと、彼女も気づいただろう。リディオルが、誰について話しているのか。
「……シェリック殿から、お聞きになったんですね」
「ああ」
禁術のこと。二人だけで話したのだとは想像がついた。誰に聞かせる相談でもないし、おもむろに話してわざわざとがめられる危険性など、自分だったらはなから除外する。
だからセーミャがしゃべったのでなければ、自ずと答えは導き出される。リディオルに話したのは、セーミャの言うとおりもう一人だ。
「まだ呼び出そうと考えてんならやめとけ。あんたのためにも、あんたのお師匠様のためにもならない」
「あなたも、シェリック殿と同じことをおっしゃるんですね」
「常識だからとか、そう言いたいんじゃねぇ。六年前に禁術が行われたときどんな末路をたどったのか、多少なりとも知ってんだろ」
「……成功は、しなかったと」
彼女の師が語ったのでもなければ、セーミャが禁術の話なんて持ち出しはしない。というより、できない。敷かれた箝口令は解かれたわけでもなし、王宮の書庫からとうに資料は廃棄されているだろうから、それもないだろうし。ここ数日、話題に上がりすぎているのがおかしいのだ。
だから。
──成功する。星はそう、教えてくれた。
何があっても、セーミャにそれだけは伝えてはならない。
「──いけないことですか?」
静寂にすら紛れるのではないかという小さな声。忘れ去られていた感情が、ほんの少し思い起こされて。
「突然亡くなってしまったお師匠様にお会いしたいと、もう一度だけ声をお聞きしたいと、最後の挨拶をしたいと。わたしが願うのは、そんなにいけないことですか?」
それはそのとおりだ。どんな理由があって、どんな死に方をしようとも、この世での生を終えてしまったのだから。
身体の前で組まれた指。祈るように、縋るように、しっかりと合わさって。
「シェリック殿もおっしゃっていました。人は亡くなればそれまでだと。空に還る死者の邪魔をしてはいけないと。それがこの世界の理なのだと」
正論は正しい。間違っていないから当然だ。けれども、今この場でセーミャに突きつけるのは、きっと正しいことではない。
「シェリック殿だって、理をねじ曲げようとされていました。だから、禁術を使ったのではないでしょうか?」
「俺はあいつじゃねぇから、わからねぇよ」
「……そうですね」
淡々と。震えもせず、やるせない吐息に混じって紡がれた言葉は、セーミャの口からこぼれていった。
「──ちょっと来い」
セーミャの手を引き、リディオルは部屋の奥へと向かう。寝台を通り過ぎ、その扉を目前にして、セーミャの手が強張った。
「リディオル殿、そこは、お師匠様の……」
「知ってる」
他の誰でもない、自分が寝かされていた部屋だ。嫌というほど覚えている。
リディオルは扉を遠慮なく開けた。静まり返った空間が二人を出迎える。
息を詰めるようにセーミャは黙り込んだ。その手をさらに引っ張り、寝台の端へと座らせる。遅れて点けた灯りが室内を明るくした。
リディオルが出て行った頃から変わり映えのしない部屋。主のいなくなった場所。微かな笑い声が聞こえてきた。今にも壊れてしまいそうな気配をにじませて。
「なぐさめてくれるんです? あなたが?」
「しゃれになんねぇから、そういう冗談はやめとけっつーの」
自嘲めいた笑みを浮かべるセーミャへ、リディオルは懐から取り出したものを差し出した。何の変哲もない、一枚の封筒を。
「……なんですか、これ」
「あんたに」
受け取ろうとしないセーミャに、リディオルはなおも差し出し続ける。封筒とリディオルを見比べ、収めた笑みの代わりに、今度は怪訝な表情を浮かべて。わからないながらも、セーミャは不承不承といった体でそれを受け取った。
「あなたから手紙をいただく理由なんて、何も──」
封筒を裏返した途端、セーミャは息を呑んだ。
リディオルは知っている。そこに書かれている文字を。なにせ、リディオルが彼から初めに受け取ったのだから。書かれた宛名に、彼の筆跡。セーミャがわからぬはずがない。
「どうして、あなたが……」
視線を上げもせず、かすれた声で尋ねてくる。
「頼まれたんだよ、あんたのお師匠様に」
──ねえ、リディオル。
あの日。リディオルが倒れた夜。
ほんのわずかな時間だった。リディオルが、彼と最後の言葉を交わしたのは。
『ひとつ、お願いがあるんだけど。いいかな。この手紙、セーミャに渡しておいてくれる? 多分僕は、これ以上は動けないから』
『……なに、不穏なこと口走ってくれてるんですか、あんた──っ!?』
嫌な気配を覚えて起き上がろうとするも、腕に感じた痛みと彼の腕力のせいで再び寝台に沈められる。
普段ならたやすく振り払えた強さが、そのときに限っては抵抗することさえも敵わなかった。押さえつけられ、舌打ちする。脱力していく腕を、是が非でも認めなくてはならなくて。
『今の君だったら、僕にでも止められるよ。君は大人しくしてること。セーミャによろしく伝えといてくれる?』
なんだそれは。
『冗談じゃ、ねぇ……勝手なこと、しないで、くれますかねぇ、エリウス殿……!』
ちらと見えたのは、彼の手中に収められた一本の注射器。打たれたのは鎮静剤か睡眠薬か、自分にとって望まない類の薬品だったことはわかった。
リディオルの意思とは反対に、意識が徐々に遠のいていく。
本当に冗談ではない。こんな辞世の句めいた言葉を聞くのも、それを彼の教え子に伝えることも。誰が伝言役なんて引き受けるものか。
『──それと、ごめんって言っておいて』
そのひと言を聞いた瞬間、かみつくように彼の襟元を引っつかんだ。力の入らない手で、全身をかけて。
『っざけんな! 伝えんなら……あんたが言えよ!』
たったこれだけのことに息が上がる。まったく動じることなく涼しい顔をして、彼は息を吐いた。
『君も無茶するなあ。でも、もう限界でしょ。現にほら、つかむだけで精一杯だ』
小刻みに震える手。指摘されたまさにそのとおりだった。自分の身体ではないみたいに、うまく動かせない。動いてくれない。
『でもま、意外な一面が見れたよね』
『……引き受けませんよ。俺は、絶対に』
『うん。だから、君に委ねる』
『──は?』
任せるではなく、委ねる?
『渡すも渡さないも、君に任せるから』
『はぁ!?』
重くなっていくまぶたが視界を狭める。彼が向けた笑顔は、いつも彼が教え子に見せていたのと同じ。
握っていることもできなくなった手をゆっくりと外され、起こした半身すらあっけなく戻されて。
『頼んだよ』
押しつけただけではないかと。文句も言い返すこともできず、遠ざかる足音の気配と、扉の閉まる音が鳴って──リディオルが覚えているのは、そこまでだった。
引き止めることができなかった。彼はこの部屋から出て行って、そうして二度と戻っては来なかった。
「あの人の直接の声じゃねぇが、あの人が残した、あんたへの言葉だ。誓って、中身は見ちゃいねぇ。あんたが禁術を使ってあの人に会うより、ずっと確実な言葉だろ」
何を思ってセーミャにこの手紙を残したのか。リディオルに言づてを頼んだのか。
彼とつきあいは深くない。だからリディオルには想像でしか語れないが、彼なりに心配をしていたのではないだろうか。彼がいなくなったあとに、セーミャが彼に会うことを望むのではないかと。セーミャに禁術の話をしたのが彼だったなら、もう一度会える可能性を求めてしまうのではないかと。
セーミャが彼の近くにいたように、彼もセーミャの近くにいたのだから。
「──出てる」
返事はない。微動だにせず、一心に封筒を見つめ続けているセーミャをそのままに、リディオルは部屋から出た。邪魔者はいない方がいい。
あれほど彼の傍にいたセーミャが、彼が亡くなったあの日以来、この部屋に近寄ろうともしなかった。一日の大半をこの治療室で過ごしていたというのに、だ。
笑わなくなった。声を荒げなくなった。全身で表現していた感情の全てが乏しくなった。彼女が表情を変えるのは、いつだって彼女の師のことだけ。
たちが悪い。泣かれるよりも、ずっと。
引かされた貧乏くじが重いのはわかりきっていた。引き払ってなおも残る割り切れなさが、どうしても許容できない。
不可抗力だった。たまたまそこにいたのがリディオルで、彼の頼みごとを引き受けざるを得ない状況に置かされて。
彼は委ねると言った。渡さない選択肢など、選べないではないか。
「俺に頼むんじゃねぇよ」
あのときその場にいたという、ただそれだけの理由で。