115,彼女の石と引き換えに
「──うねぇだろ」
聞き取ってしまったつぶやきが、シェリックに隣を向かせる。
決して耳ざとい方ではない。それなのに拾ってしまったのは、この距離感だからだ。つぶやいた本人に自覚はないのか、それとも意図せずか。どちらにせよ今のひと言は、シェリックに向けたものではないだろう。思えばさっきもそうだった。
口に出した記憶などないのだと言いたげに、リディオルはシェリックをまじまじと見ていた。
また何か考えに没頭しているのだろうことはわかる。聞かなかったことにして、さらには見なかったことにしてもいいのだが、この様子だとシェリックがいないところでもやりかねない雰囲気がある。リディオルならば、巧みにかわすくらいしそうではあるけれど。
「意外だな」
「何が」
てっきりもっと思考に深く浸っているのだと思っていたら、意外にも返答は早かった。
繰り広げられかけていた、治療師見習いたちのいさかい。当事者たちがいなくなったため、事態は収束している。そのさなかに起こしかけていたリディオルの奇行を、シェリックは教えることにした。
「おまえ、止めに入ろうとしただろ」
セーミャを責めていた女性へ、リディオルは何か言い返そうとしていた。
あそこでシェリックが止めなければ、ルースが割って入らなければ、リディオルはきっとあの渦中に入っていただろう。湧いた感情に促されるままに。それは常ならば、リディオルの望まない事態だった。
余計なことに首を突っ込まない。面倒ごとは避けて通る。感情に流されず、気ままに、風の吹くままに、生きていけたらそれでいいのだと。
そのリディオルが、人の悪意の矢面に立つ? 真正面から歯向かおうとした? いったい何の冗談だ。
「つーかおまえ、嬢ちゃんに星命石返したのかよ」
ため息を吐くように、気だるげな様子を隠しもしないリディオルの問いかけは、いつもと何ら変わりない。
「いや、まだだ」
「だったら早いとこ返して来いよ」
「ああ」
「あっちは俺が何とかすっから」
「──おまえが?」
口を吐いて飛び出した疑問は、リディオルへと届いてしまう。慌てて口を押さえてももう遅い。
「不満かよ? 俺が動くのが?」
「いや、そうじゃない……悪い、思いも寄らなかった」
リディオルとセーミャと。双方の接点はそうないだろう。リディオルが倒れたことで、彼は二日ばかり治療室に居座った。それを接点として挙げるなら、そう呼べなくもない。
リディオルは何とかすると言った。ならば適当に濁して終わらせたりはしないと思うが──
「当てずっぽうじゃねぇよ」
シェリックの心中を見透かすように、リディオルはそう言った。
「そうできる見通しはあるんだな?」
「なきゃ言わねぇ」
「わかった」
頷くシェリックから、リディオルの目が逸らされる。リディオルがこれほど人を気にかけているのは珍しい。無意識の中での行動をしているようだったから、ちぐはぐな感じが不必要なほど際立つ。
──人を気にするより、まずは自分か。
それでも、言いたいことだけははっきり伝えておきたい。
「リディ」
「ん?」
「そっちは任せた」
面食らったリディオルが、一瞬後にはふはっと吹き出した。
「おうよ。おまえは嬢ちゃんとこ行けよ?」
「ああ」
ルースとセーミャの去っていった方向へと歩いていくリディオル。その背中を見送り、まばらになった黒い人たちを眺めやる。
とにかく、ラスターを探さねばならない。見つけて、星命石を返さないと。
今日は同じ格好をしている者が多いから、判別するだけでもなかなかに困難を極める。右も左も黒い外套を羽織る人ばかり。ここにいるのは確かなのだが。帽子がないだけ顔がわかりやすいのが救いか。
ふいと視界に入ったのは見知った顔。レーシェと目が合った。レーシェがこちらを指さしながら、目の前の人物に何かを伝えている。
うしろ姿。ひとつ結びの髪。
「ラスター!」
上げた声は無事に届いたようで、レーシェに話しかけられていた小さな黒が振り返ってきた。二人の近くにいるのは、他に三人ほど。薬師の見習いだろうと見当をつける。
「シェリック?」
近寄ってラスターの左手を取り、傍らのレーシェへと告げた。
「悪い、ちょっと借りる」
「構わないけど、早めに返してね?」
「ああ」
「──えっ、え? なに? どうしたの?」
事態が呑み込めていないラスターを無視して、シェリックは強引に連れていく。
「シェリック?」
ラスターに再度呼ばれ、場所を移さずとも良かったかと浮かぶ。けれど話したいのは大事なことだ。できるなら二人きりの方がいい。
ラスターを解放し、その手を自らの隠しへと突っ込む。ユノから手渡されたあと、ずっとしまっていた石を出すべく。
「おまえこれ、落としただろ」
シェリックが取り出したものをまじまじと見て、ラスターは二、三度目をぱちくりとさせる。そうして、自分の胸元に手を当てた。
「……あれ?」
続けて首回りも触り、しまいには自分の服の中まで覗いた。
「ほんとだ、ないや。どこで落としてたんだろう……」
「気づいてなかったのか?」
直前のラスターのひと言が答えだ。シェリックがユノから受け取らなければ、ずっと気づきもしなかったのだろうか。
「どこで落としてたじゃねえよ。身分証と一緒に肌身離さず持っとけって、リディに言われてたろうが。忘れたとは言わせねぇぞ」
「忘れてないケド……」
釈然としない様子にあきれるも、差し出したその手に、ユノから預かった石を乗せてやる。
「これ、どこで見つけたの?」
「ユノが拾ったらしい。治療室で落としたんじゃないか?」
「うーん……覚えてない」
ラスターはなおも首をひねっている。
この石は、ラスターが首から下げていた。見せてもらったのは、シェリックが覚えている限り二度。どこでどうして落としたのかは知らないが、麻紐の結び目でも緩くなったかしたのだろう。
「とにかく、今度こそなくすなよ。今まで大事にしてたのはわかるが、今まで以上に気をつけろよ」
「うん、なくさないようにする」
麻紐を握るラスターの手に力がこもる。二度はしないと、その手は語る。
「うん、ごめん。これからは気をつける」
「そうしてくれ」
「ありがとう、シェリック」
「俺じゃなくてユノに言ってやれ。俺は託されただけだ」
「うん」
昨夜話せなかったことも、渡せなかったものも、これで済んだ。リディオルに話したかったことも話したし、あとは──
ふと、ラスターが視線を落としたままなのに気づいた。
シェリックから受け取った石を手の中で回し、食い入るように眺めている。
「どうかしたのか?」
その様子が、何かを探しているように思えて。
「なんか、いつもと違って──あ」
何かを見つけたようで、石の表面を指で触る。確信を得たラスターが小さくつぶやいた。
「割れてる」
「──割れてる?」
「うん。ほら、ここ。この下のところ」
シェリックに見えるよう、ラスターが見つけたと思しき箇所を見せてくれる。背をかがめ、目を凝らすと、ようやくそれを発見できた。
石に入っていた横一直線のひび。くるまれた金属の隙間からわずかに見えるものだが、飾りの隙間から表面に触れると指の腹が訴えてくる。ここに、ひびが入っていると。
「落としたときの衝撃か何かか?」
一直線のひび割れは、石の全面に入っている。これは、そのうち真っ二つに割れてしまうのではないか。
「わからないケド……星命石って割れるんだね」
しみじみとこぼされたひと言に、シェリックは息を吐いた。
「……もう少し危機感を持ったらどうだ」
「だって、薬で使う石とは違って、この石は割れないって思ってたから」
「石は石だろうが。強い力が加われば割れるだろ」
ラスターの言うとおり、星命石に使われる石と路傍に転がる石を、同じ『石』と呼ぶには違和感がある。けれども見目どんなに違おうと、どちらも石であることに変わりはない。
「想像つかなかった。うーん……でも、これ、どうしよう……このままじゃ割れちゃうよね」
「多分な」
ラスターに、ようやくちゃんとした『困った顔』が浮かべられる。
「フィノに訊いてみたらどうだ?」
「フィノ?」
「ああ。あいつは、鉱石学者の見習いだ」
ラスターのような例は聞いたことがないが、石に詳しい人間ならこの王宮にいる。鉱石学者の見習いであるフィノなら、何か知っているかもしれない。あわよくば直すことだって、できるかもしれない。
「星命石のことだって、俺たちよりは詳しいはずだ」
「そっか。うん、訊いてみる」
頷いたラスターは、星命石を首から下げた。反射した銀光がきらりと目くばせをする。緑石は自分が守るのだと、心配するなとでも言いたそうに。ならば持ち主である彼女をも守ってほしいと、シェリックは密かに見返す。
ラスターにこの石を授けた人は、どんな願いを込めたのだろう。誰からもらったのかは定かでないと、ラスターは話していた。レーシェでないのなら、ラスターの祖母かはたまた父親か。
「シェリック」
服の中へと落とされ、星命石はシェリックの視界から消える。ユノから預かったその石は、本来の持ち主の、あるべき場所に収まって。首元に見える麻紐だけが、その存在を主張していた。
「届けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
大切にしまわれた石。唯一にして無二の星命石。
ラスターの屈託ない笑顔が、シェリックにとっては何よりの礼だった。