113,天へと還す炎を灯し
動かせないこともない。
そう告げたユノの申し入れは、あっさりと却下された。
左腕は白い布でつって固定され、動きに制限がかかることを余儀なくされる。骨を折った人が固定されているのを見たことはあるが、自分がされるのは初めてだ。しかも、折れてもいないのに。
不自由さの増した左腕から目を背け、杖を手に取る。今はこの右手しか使えない。このあとに待つ大役を考えると、いささか頼りない格好だ。魔法を扱うのは右手と杖だけで十分だとはいうものの。
「ユノー、準備できたっすか? 外套手伝うっすよ」
「アルセ殿。お願いします」
杖は一旦椅子に立てかけておき、彼女が準備してくれた外套へと右手を通す。通せない左袖はそのままに、肩へとかけられた。
歩いたらずり落ちそうだと思っていたら、鎖骨のあたりを外套留めで押さえてくれる。
このアルティナ王国を象徴する紋章で象られた、銀の留め具。この紋章を初めて見たときから抱いていたユノの願いが叶うのは、いつになることやら。リディオルがいるうちは、まだ当分先だろう。
「これでばっちしっすね。痛かったりしたらすぐに言うんすよ? うち、傍にいるっすから」
「お気持ち、ありがたくいただいておきます」
「硬いっす! 硬い硬い! ユノは真面目なんすから、もうちょい肩の力抜いていいんすよ」
「そうですかね」
「そうっすよ!」
アルセがいうほど堅いつもりはない。あくまでもユノの中では。けれども思い返してみると、リディオルと接するのと同じようには、彼女と接してはいない。
リディオルは賢人で、アルセは見習いで。どちらもユノより年上で。男性と女性で。
二人の違いは浮かべども、では何がそうさせているのかと問われると、何とも言いがたい。接する態度や人柄、そういったものだろうか。アルセが話しづらいとか、そういうわけではないけれど。
「――ほら、また難しい顔してるっすよ」
見本だといわんばかりに、彼女は指で自身の眉を寄せる。
「そんな顔ばっかしてると、大人になったらこーんな顔しかできなくなるっすよ」
「き、気をつけますね」
細目になった分、迫力が増している。説得力も増えたような気がするのは、迫真の顔芸のせいか。
「今朝も、もったいなかったっすよ。せっかくリディオル殿が雨降りの術をやっていたのに、ユノが来ないんすもん。あれだけ見たいって言ってたのに」
「……まさか寝過ごすとは、思っていなくて」
「それはこっちの台詞っすよ。珍しいこともあるっすね」
ユノを起こしたのは、迎えにやってきたアルセとカルムだった。カルムはひと足先に向かったので、ここにいない。残ったアルセがユノの身支度の準備を手伝ってくれている。
夜明け前から降らせるのだという予報は知っていた。それを行うのがリディオルだということも。前回は見習いたちだけで四苦八苦しながら雨を呼んだので、お手本を見ておきたかった。そう思っていたのに。
寝過ごしたのは、完全にユノの落ち度だ。
「リディオル殿は、先に向かわれたんですか?」
昨日、ユノより前に治療室からこっそりと出て、魔術師の塔まで戻ったという話は聞いた。ルースやセーミャからあれほど安静にしていろと言われていた場面を何度か目撃したこともある。雨を降らせなければならないから出てきた、と説明するには、どうも腑に落ちない。きっとそれも理由のひとつだろうけれど。
ユノは一応、戻っていいと許可の出た身だ。間違ってもリディオルのように黙って抜け出してきたのではない。
「多分向かったとは思うんすけど、実際わからないんすよねー。朝いちでお客さんが来て、それから姿を見てないっすから」
「お客さん?」
朝いちとなれば、まだ雨が強く降っていた頃だ。
外を出歩く人は本当に稀で、滅多なことでもなければ雨の中を出て行こうとすらしない。それがアルティナの常識だ。
外に見える雨は小降りになっており、空も徐々に明るくなってきている。雨の維持はとうにやめているから、そろそろ完全に上がる頃だろう。
昼の少し前。絶妙な頃合いに調整したのは、おそらくカルムだ。彼の雨の調整は、リディオルですら舌を巻くほどである。
「向こうで合流できますかね」
「だと思うっすよ。カルムもいるはずっす」
「それなら私たちも向かいましょう、アルセ殿」
「いっすよ」
訪れたのは誰だったのか。訊きたい衝動を抑え、ユノはもう一度杖を手に取った。
**
雨上がりの空は、空気まで澄み渡っているようだ。陽は昇りきっているのに、頬に触れる風が少しばかり冷たい。雨のにおいが薄れつつある昼どき。
ラスターがそれを告げると、レーシェから「暑いよりはましだわ」と返される。そうだろうか。
ラスターが偽物の賢人となった、あの日のような高い空。見上げるほどにまぶしさが増す蒼穹。これからこの丘で、治療師が弔われる。
くっきりとした青に見守られて、空へと送られる気持ちはどんなだろう。ラスターだったら嬉しい。薄くよどんだ群青に見送られるよりは、ずっと。
見渡していた目がファイクとばっちりぶつかった。
「君、緊張してるの?」
「う、うん」
全く知らない人だったら。面識のない人だったら。こんなにそわそわすることもなかっただろうか。送られる治療師を知らなければ。それと――
「――するわよ。誰だって」
それはファイクの向こうから。ほんのり赤くなった目で、ナキは前を向いたまま言った。
「あたしたちだって、無関係じゃない。緊張くらいするし、寂しいわよ」
すん、と鳴った鼻。
「そりゃあ僕らはつきあい長いし、エリウス殿のことはよく知ってるからそうだけど」
「まったくの他人でもないだろう。あんただって、日が浅くても顔を合わせるくらいはしているはずだ」
「うん、そうなんだケド……」
ファイクのいう緊張感とは、また少し違う。
さっきから気がそぞろになるのは、この慣れない外套のせいだ。シェリックやリディオル、フィノたちが羽織っていたのと同じ、黒い外套。まさか自分も羽織ることになるなんて思いもしなかった。それも、まさか治療師を弔う場で。
身の置きどころがなくてむずがゆくなるのも、きっとそのせいだ。
ラスターがレーシェたちとこの丘にやってきたとき、あちらこちらで治療師の死を嘆く声が上がっていた。肩を寄せ合って泣いていた人も、一人や二人ではない。関係者ではあるし、治療師の人となりを少しは知っている。
ここにいていいのかという場違いな思いがぬぐえないのは、ラスターと治療師との関わりが薄かったからだ。知り合ったのも数日前で、言葉を交わしたのもほんの数回。だから、どんな顔をしてここにいたらいいのかわからないのだ。
出会ってから数日。それは、彼女も同じ。けれど彼女と治療師は違う。
治療師と治療師見習い。二人は仲の良さそうな関係に見えたし、お互いに信頼しているようにも思えた。
亡くなった治療師を初めに見つけたのは彼女だった。ラスターは、あれから彼女とちゃんと話せていない。
来ているはずだ。ここに。この場に。いないはずがない。
それなのに、ラスターがいくら目を凝らしても、沈んだ空気の渦中に、セーミャの姿を見つけることは叶わなかった。
眠り続ける治療師が納められている、四角い棺。棺も治療師もなんだか作りものみたいに見えて、全ては嘘ではないかと思えてしまう。
歩み出ていく三つの影。
名の知らぬ女性と男性に連れられて、歩いてくるユノがいた。羽織っているのは、三人ともラスターと同じ黒い外套。真剣な表情はずいぶんと大人びて見え、いつものユノとは別人のようだ。
左側だけ袖を通さずに羽織られた外套。歩く度にちらちらと見える白い左腕。つられた左腕の白さが強調されて、隠しているのにも関わらず目立っている。右手に握られた杖が、戦場に出て負傷した魔術師を連想させた。
三人は棺の前で立ち止まり、黙礼をする。示し合わせたように周りも黙礼をするのを見て、ラスターも慌ててならった。
「――これより、葬送を行います。最後の挨拶は、よろしいでしょうか」
思っていたより低い声。女性の呼びかけに、誰一人その場を動こうとしない。他の人の出方をうかがっているのか、それとも言い出しにくいからか。
本当に、いいのだろうか。これが最後となるだろうに。
す、と一人、手を挙げた者がいた。
「でしたら俺、いいですか」
「はい。もちろんです」
左手を挙げながら出てきたルースへ、彼女はその場を空ける。
そのやり取りを皮切りにして、次々と人が出てくる。やはりためらう人がいたようだ。治療師へ最後の挨拶をすべく、ナキやファイクたちもそこに加わる。動けずにいたラスターを残して。
並ぶ人の最後尾。ラスターの探していた人がそこにいた。ただ真っ直ぐに、治療師が納められている棺だけを見て。セーミャは並んでいた。
何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。
やがてセーミャの番が来ると、彼女は両手を合わせ、目を閉じて頭を下げた。他の人と大差ない一連の動作。
その光景に、胸が締めつけられる。あそこにいるのはラスターではない。並んだのも、挨拶をしたのも、ラスターではない。なのに、どうして、こんなにも息が苦しくなるのだろう。
最後の一人が遠ざかったのを確認して、女性は再度、元の位置へと立つ。
「よろしいですね?」
今度こそ、誰もそこから動かない。
男性がその場にしゃがみ込み、女性は棺を挟んで反対側へと立った。女性と、ユノの傍らに立った男性の二人がかりで棺のふたが閉められる。
鈍く重い音。それは、治療師との別れの合図。
再び女性の声が上がる。
「──これより送るは星の使徒、今生での務めを果たした者」
そこへ、ユノの声が重なった。
「後生の責務を授かるその日まで、天にお返し致します」
二人の言葉が唱和する。青空に似た高らかなふたつの声。
ユノの掲げた杖の先が赤く光ったかと思うと、瞬く間に炎が現れ、棺へと燃え移った。その姿勢のまま、ユノは棺から一歩遠ざかる。近くでは炎の熱気が届いて熱いのだろう。
炎が棺全体を覆った頃、ユノは掲げていた杖を下ろした。
「送る命火が迷いなくたどり着けるよう、導きを与えたまえ」
天上を仰ぎ、朗々と語るユノの声こそ、導きであるように思えた。
ゆらゆらと。ゆらめく炎の先は、どれも空に向かって。ぱちぱちと燃えるのは棺だろうか。焦げた匂いがやがて流れてくる。
「願わくば──」
願うことならどうか安らかに。何の邪魔も入らず、空まで還れるように。
ユノと同じように、ラスターも空を仰ぐ。
青い、青い空を。太陽に隠れた星を。今は見えずとも、無事にたどり着けるように。
空が頷いてくれたなら、どんなにか。