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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
五章 アルティナ王国Ⅱ
112/207

112,浸る思いはまだ遠く


 師を空へと返すその日。目覚まし時計の電子音より先にセーミャを起こしたのは、荒々しく窓を叩く雨粒だった。ゆりかごのように心地いい場所にいたのに、無理矢理その場所を奪われるような。

 重い滴が絶え間なく硝子を打ちつける様は、そのうち雷でも鳴りそうだ。予報は聞いていたけれど、まさかここまで強い雨になるとは。

 灰雲ばかりで覆われた空。本当に昼までにやむのかどうか怪しい天気。上がってくれなければ、昼に控えている儀式を行えない。──それならばいっそ、色彩の薄いこの景色に隠れて、消えてなくなってしまえたらいいのに。


「──なんて」


 つぶやいたところで何にもなりやしない。誰にでも等しく朝はやってくるし、新しい一日はもう始まっているのだ。

 布団からい出たセーミャはまだ開ききらない目をこすり、椅子に座らせていた着替えに手を伸ばす。半分寝たままでも慣れた手が着替えを済まし、顔を洗い、髪を整えてくれる。

 セーミャは手を動かすだけ。淡々と、動くままこなすだけ。

 薄い化粧を施し、かばんを肩にかけて靴を履く。そうして、いつもの自分が完成するのだ。


 でも今日はそれだけではなかった。ふと目に飛び込んでくる光景があった。敷居の傍、使わないまま置き去りにされていた傘がそこにある。開くこともなく、ずっとずっと、置いたままの傘が。

 それは、意味も理由もなかった。言うなれば目についたから。ただ気になったから、それだけだ。本当になんとなく。

 セーミャは壁に立てかけていた傘を手に取った。もらいものではあるけれど、使う機会はほとんどない。雨の日に出歩く人は皆無だし、わざわざ外に出たいとも思わない。そうでなくともセーミャ自身、雨は嫌いなのだ。

 閉じた傘は杖のようだ。長さも形状も、魔術師の見習いたちが持っているものと酷似する。持っていたところで場所を取るだけだし、別に外へ出かけるわけでもない。この部屋から治療室までたどり着くのにも、屋根続きだから濡れる心配はない。

 ただ今日は、傍に置いておきたかった。なんとなしに、そんな気持ちになっただけのこと。


「行ってきます」


 誰が聞くでもない空間に告げ、雨の返事を聞いて、セーミャは空っぽの部屋をあとにした。

 今日は通常の勤務だけではない。それ以外に、師を送るための準備をしなければならない。昼に待つ、師の葬送のために。

 説明すると準備するというただひと言で終わってしまうが、そのためにやらなければならないことは山積みだった。

 彼の遺品を整理して、一人では寂しくないようにと添える花を選んで。空へ向かうための指標となる天命石は、昼にはできあがるのだと聞いた。夜明け前から降っていたこの雨も、同じ頃にやむのらしい。


 天命石とは、亡くなった人に添えて送り出すための石だ。

 星命石が願いを込めて送られる守護石であるように、天命石にも願いが込められる。空へ向かう道しるべになるように。それと、亡くなった人が星になってもわかるように。地上に残された人たちが、その星を見つけられるように。


「……見つけられるでしょうか」


 星なんてひと言で言っても、空にある星の数は膨大だ。特定のひとつを見つけるなんて、不可能に近い。


「どうしたの? 何か探しもの?」


 白衣を羽織り終えたセーミャの横に、いつの間にかルースがいた。


「おはようございます。いえ、たいしたことではないので」

「そう? あ、おはよう。それと今戻りました。遺族の方への連絡と天命石のできあがり具合って、どうなってます?」


 ルースは手早く白衣を着込みながら、同時に確認をしてくる。治療室にいた全員に向けて尋ねていたものだが、そのことならセーミャにもわかる。


「アルティナにいらっしゃる方々へは昨日のうちに。判明していない方もいましたので、そちらは他の遺族の方に教えていただいたり、お願いしたりしてあります。天命石は仕上がり次第、フィノ殿が届けてくださるそうです。葬送する時間には間に合うとおっしゃっていました」

「わかりました。ありがとう、セーミャさん」

「どういたしまして。受継はいつ行われるんです?」


 席を外していたルースが向かったのはシャレルの元かレーシェの元か。どちらかに報告するとしか聞いていないセーミャには、ルースが二人のうちどちらに行ったのかわからない。

 けれども向かった先で賢人となることを受諾すると告げたはずだ。


「明朝……かな。まだ明日以降としかうかがってないよ」

「そうですか。そちらの準備は、何かあります?」

「特には。なので、こっちに集中できるかな」

「ありがたいです」


 昼までそれほど時間もない。葬送する儀式も天気が天気だから、雨が上がった頃としか言われていないのだ。何にせよ、時間は限られているし、猶予もあまりない。

 王宮内に知らせに行くのなら、ルース以外の誰かがいいだろう。彼にはここにいてもらって、全体の指示と、状況の把握、連絡の集積役を務めてもらった方がいい。


「ルース、連絡係はわたしが行きます」

「うん、ありがとう。こっちは安置所の先生を運ばなきゃならないから男手がほしいところかな」

「わかりました」

「あとは──」


 他の見習たちにルースが指示を出していく背後。セーミャまで届くものがあった。きょろきょろと見渡したセーミャの目と耳が、それを見つける。治療室の隅から、小さくすすり泣く声が聞こえてくるのを。


「エリウス殿が……こんなに早く……」


 涙する彼女の肩に手を添えて、男性は何度も頷いた。

 ああ、悲しむとはああいうことを言うのだ。ただの一滴の涙さえも出てこなかったセーミャは、本当は悲しくないのかもしれない。師が亡くなったことを、悲しいなんて思っていないのかもしれない。

 師の亡くなった場に遭遇してもそのあと何事もなく業務に戻れたのだから。

 二人から目を逸らし、段取りを確認しているルースの手元を覗く。


「星命石はどうするんです? ルースが継ぐんですか?」


 死者を葬送する際、死者には天命石を添えて送り出す。持ち主のいなくなった星命石は遺族に託されるのが習わしだ。本来ならば。

 賢人の受継が起こるときは、星命石もともに受け継がれるのだと聞いた覚えがある。


「そうみたいだ。装飾品とは縁が薄いからなあ……」


 師が生前つけていた星命石は、耳につける装飾品に仕立てられていた。師の左耳に飾られていた星命石。それをルースが継ぐのなら、今度はルースの左耳に飾られるのだろう。


「意外と似合うかもしれませんよ」


 普段身につけていない人がつけると、その差異が新鮮に映ったりする。


「似合うかな、俺?」


 耳元を指し、そう尋ねてきたルースをじっと見る。


「あんまり想像はつかないですね」


 そしてあまり似合わなそうだとは、さすがに言えなかった。

 項垂れたルースをしり目に、セーミャは頭に入れた段取りを浮かべる。


「酷いんだからもう……」

「実際に見てみないとわかりませんよ。──それでは、他の賢人たちに知らせに行ってきます。昨日回れなかったところだけですよね?」

「そう。あとは伝えてあるので、残りのところお願いします。雨が上がったら、滞りなく行いますと」

「わかりました」


 ルースの声に背を向け、頭の中にはこれから向かう先を浮かべて。どう回れば効率がいいだろう。時間はかけられないから、最短距離で回るのが望ましい。

 嘆いている暇などない。雨が上がったら、師を弔わなければならないのだから。

 雨は嫌いだ。それなのに願ってしまう。ずっと降り続けばいいのにと。この雨が、上がらなければいいのにと。そうすれば、師を送る儀式もなくなったろうに。

 いっときだけ、ほんの少しだけ、先延ばしにできる。いずれはやってくることなのに。あと回しにしても、何も変わらないのに。それでも。


「──嫌いです、雨なんて」


 ぽつりとこぼした言葉は、すぐに雨音が覆い隠してくれた。




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