111,捉えどころのないままに
――どうしてあなたがその名をご存じなのですか。
――聞いたからだよ。『シェリック』に。
生前のエリウスが挙げた名は、間違っても自分ではない。自分より前の占星術師だった、ノチェのことだ。彼の正式な名を、エクラ=ノチェといった。
まだ自分がディアと呼ばれていたとき、彼は星命石を自分に託し、さらには自分を占星術師にした人だった。そうして彼は姿をくらまし、行方どころか生死すら不明となった人だった。王宮にもたらされた訃報はいつのことだったか、はっきりとは覚えていない。しかし、レーシェが禁術について聞いてくるようになったのは、その頃を境にしてだ。
「ここなら誰に聞かれる心配もねぇ。昼まで好きなだけ話せる」
魔術師の塔半ば。頂上からも地上からもほぼ同じ高さという位置に、その部屋はあった。
物を嫌ってか、無駄というものを一切省かれている。整えられた空間は、誰の手も触れられたくないと言いたげだ。壁にも寝台にも飾り気はなく、机上に散らばった紙だけが唯一、人のいた名残を感じさせる。紙に描かれているのはどこかの地図か。
「ここは?」
「俺の集中部屋」
あとから入ってきたリディオルが扉と相対する。呟いていた何かは聞こえなかったが、誰かに聞かれないよう、あるいは入ってこれないよう、術でも施したのだろう。便利なものだ。
何であれ、シェリックにとってはありがたい。森の中よりも確実に、誰にも聞かれることがなくて済む。
窓も開いていないのに、どこかで鈴の音が鳴った。
「――で。おまえがさっき言ってた根拠ってやつ、聞いてもいいかよ?」
扉に背を預け、腕組みをしたリディオルはそう切り出してきた。
傍から見たその姿勢。扉を守る門番のようで、無性におかしくなった。自分をここから出さないようにするため。そんなとらえ方もできてしまった。
「……話す気あんのかよ?」
「ああ。悪い」
押しかけたのはこちらなのだ。時間を浪費している場合ではない。
「――俺が知っているのは、死者を呼び寄せる禁術だ」
何から話そうか。やはり初めからか。
「六年前、俺はレーシェに請われて禁術を使った。亡くなった前占星術師、エクラ=ノチェを呼び寄せるために」
何度も何度も頼み込まれて、断りきれなくて。初めは濁していた回答を明確に断言するまで、さほど時間はかからなかった。禁術はあるのだと、自分がそれをできるのだと教えてしまった。
禁術を行ってはならないとされるのは、禁術で呼び寄せた魂が、星の巡りから外されてしまうから。空から授けられ、また空へと返される魂が、その循環から外されてしまうのだ。循環から外された魂は星になれなくなり、空にも返れず、やがて消滅してしまう。地上で宿っていた肉体もなくなっているから、元には戻れないのだ。
だから禁術は行ってはならない。星の巡りから外されてしまった魂はどこにも行けなくなり、消えてなくなってしまうから。
シェリックとて、何も人から頼まれたからというそんな簡単な理由だけで、禁術に手を出すことを決めたのではない。詳しい説明など何もなしに自分を賢人にしたノチェに、言いたいことはそれこそ山のようにあったのだ。
たとえノチェが星の巡りから外されるのだとしても。その重大さは知っていたはずなのに、占星術師だった彼なら、あるいは回避できるのではないかと、そんな絵空事を描いてしまった。
「禁術を行う前、試したことがあったんだよ。その禁術が成功するかどうか、占ってみたんだ。結果は失敗。術が成功する可能性はないと、教えられた」
「その結果を知りながら、よく実行に移したな?」
「今思えばな」
未来が覆ることはない。他人の未来を占じて、それは痛いほどわかっているはずだった。
それはきっと、他人の未来だったからだ。身近な誰かには該当しないのだと、思ってしまっていた。
「当てはめたくなかったんだろうな。どうにもならない未来があるんだと、努力したところで結果が変わることはないんだと、俺が認めたくなかった」
自分や自分の身近なに降りかかってくる望まない未来を、受け入れたくなかった。
「懺悔はいい。どうしてそれが今、疑問として抱くまでに至った?」
そう、こんなのはただの昔語りだ。シェリックとて、許されたくて話したわけではない。
「セーミャから禁術を請われた話をしたよな?」
「断ったんだろ? 昨日聞いて――」
それがどうしたとでも言いたげだったリディオルは、唐突に口をつぐんだ。
いい加減気づいただろう。なぜ自分が、昔語りから話し始めたのかを。その意図と、理由を。
「昨日、俺にわざわざ雨を延期しろと言ったのはそのためか?」
「ああ」
雨が降っていてはできない。雨雲がそこにあったのでは、見えないから。空が覆われてしまうから。雲が、星を隠してしまうから。
「結果は?」
もうリディオルにも予想がついているだろうに。わかりきった答えだと知りながらも確かめるのは、その先を受け入れる覚悟ができているからか。
知りたくはないのに、知らなければならない。知ってしまわなければならない。現実とは、えてしてそんなものだ。
万が一。あるいは億が一。それだけ膨大な数が出そろえば、どこかひとつくらいは別の答えがあるかもしれない。淡すぎて、すぐにでも消えてしまいそうな希望を抱くのだろう。
だからシェリックは打ち砕く。どれだけ望まなくとも。あのとき逃げてしまった自分と、向き合うためにも。
「成功する」
願ったところで何も変わらないのだと、今はもう知っているのだから。
「セーミャの提案を受け入れて禁術を行ったなら、今度こそ成功する。星は、そう教えてくれた」
昨夜、観測塔にて占じたのは二度。リディオルに呼ばれる前に占じた、エリウスを呼んだならどうなるか。もうひとつは気まぐれに、ラスターを連れてきてもう一度。もしもノチェを呼んだならどうなるか。
前者は成功すると、後者は失敗すると出たのだ。六年前の結果を――いや、術の前提と根本がおかしいと、疑うには十分すぎるだろう。
「六年前に占じた結果がすべて正しかったと推測しよう。ならば、何がおかしいか。術の方法か、それとも条件が間違っているんじゃないかと思ってな。それで、おまえに訊きにきた」
「ノチェが本当に亡くなったかどうか」
「ああ」
聞き役に徹していたリディオルが、長く深く、息を吐いた。言いたいことも感情も、言葉にする代わりに、そこへ紛れ込ませたみたいに。
「――知るわけねぇだろ。あいつの生死なんざ。こちとらおまえが来る前に何度か顔合わせたくらいだっつーのに」
「言われてみればそうか」
シェリックは占星術師となって王宮に来た。その前からノチェは行方不明になっていて、王宮では周知の事実だった。シェリックがここにやってきたその日、王宮の人間には大層驚かれた。行方の知れなかった占星術師が戻ってきたと思ったら、それはまったくの別人だったのだから。
ノチェとの関係において、リディオルはシェリックよりも希薄だという。だからこれは、裏づけなどなくて、理屈も所以すらもなくて、はっきりとした因果関係がない中での、単なる感想だ。
「おまえなら、何か知っているんじゃないかと思ったんだよ」
漠然として、言い表せないほどの。
予感。なんて、そんな言葉で片づけてしまいたくなる、人任せの感情。
「だから、趣旨がわからねぇよ」
「俺もだ」
それはきっと、占星術師の勘なのかもしれない。自分にそんなものがあるというのなら。
「話は終わりかよ?」
「ああ」
ため息を吐きながら指を鳴らすリディオルに、かけていた術はこれで解除されたのだろうと予測をつける。鈴の音がまたひとつ。術の合図にしてはまたずいぶんと可愛らしい音色だ。
りん、と響く。
同時にひとつ、思い出した。
「――忘れてた。昨日の答えだ」
ユノに遮られてしまって、結局答えられなかった。六年前、シェリックが何を考えていたのか。どうして禁術を実行したのか。
「何か、したかったんだよ。あの人のために。あの人の顔を、期待に満ちた顔を、曇らせたくなかった」
目の前のことしか考えられなくて、目に見えていた事実だけが全てだった。そこから先なんて思いつきもしなくて。少し考えたなら、簡単にわかったことなのに。
「失敗するって、わかっててもか?」
「ああ」
それはきっと、表向きの理由。
歪な笑みを浮かべた自分に、リディオルはどう思っただろう。
「失敗するなら、それはそれで良かった。希望が潰えて、絶望に打ちひしがれたあの人を、傍で支えられるなら、それでいいと思ったんだよ。――最低だろう?」
誰にも言わなかった自分の罪科。
誰にも言えなかった告解。
禁術が失敗して終わるなら、自分がノチェの代わりになろうとした。占星術師である以前に、自分はノチェであろうとした。傍にいたなら、ノチェになれるのだとさえも思っていた。
「……救えねぇな。おまえも、レーシェも」
「本当にな」
結末を知りながらも、それでも探してしまう。彼女のためにできることを。今でも、なお。
それは、なぜ?
ノチェに取って代わろうとすらしたのは、なぜ?
その答えは初めからきっと、自分の中にあった。