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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
五章 アルティナ王国Ⅱ
109/207

109,受け継ぐ賢き人の地位


 ――私は、レーシェ=ヴェレーノと申します。


 再会したとき、交わされた挨拶を思い出す。

 母親は、どうしてそんな名乗りを上げたのか。どうしてラスターの知る『リリャ=セドラ』ではなかったのか。

 ラスターがわかったのは、ここで母親は『レーシェ=ヴェレーノ』と呼ばれていること。『リリャ=セドラ』であって、『レーシェ=ヴェレーノ』でもあるということ。それはどちらも彼女を呼ぶ名前であるのだということ。


「起きてたのか、おまえ」

「さっき起きた。声が聞こえてきて」


 シェリックの肩を叩く。下ろしてもらった廊下に立ち、シェリックとフィノとを見上げる。

 まだ夢の中だった。温かい背中に負ぶさって、伝わってきた規則的な振動が心地よくて。

 夢の端、まどろむラスターの耳に届いたのは、聞き慣れたシェリックの声だった。シェリックの声が、シェリックではない名前に返事をしていたことに、気づいたらラスターは問うていた。どうしてシェリックが別の名で呼ばれているのかと。


「お母さんは名前がふたつあるんだ」


 リリャとレーシェ。ラスターになじみ深いのは前者で、けれども王宮で呼ばれているのは後者で。


「戻ったら聞こうと思ってて、そしたらシェリックがシェリックじゃない名前で呼ばれてて。お母さんと同じ。それは、どうして?」


 レーシェに尋ねようとしていた。聞きそびれていたことを。ラスターが母親と再会してから、ずっとずっと気になっていたことを。どうして名前がふたつあるのかと。


「そうか……考えればそうだよな。おまえは、レーシェの娘だからな」

「今日、グレイに言われたんだ」

「グレイ?」

「うん。薬師の見習い。お飾りの賢人にされて災難だな、って」


 薬室にふたりだけしかいなかったあのとき。

 ――あんたも災難だな。お飾りの賢人なんかにされて。

 言われた意味がわからなくて、ラスターはおとりにされたことだと思っていた。それを皮肉がられたのではないかと。

 けれどもグレイが知るはずがない。ラスターは賢人として薬室に行ったのだ。ナキにあれだけ敵意を向けられていたのは、ラスターが薬師になったからだ。嘘の賢人だと、本当は偽物だと、誰にも話しはしなかった。ならば、グレイはどこでそれを知ったのか。

 リリャには名前がふたつある。シェリックにも、ふたつある。二人の共通点。どちらも賢人であるということ。だからラスターはふっとひらめいたのだ。賢人であることと、名前がふたつあること、それは何か関係があるのではないかと。


「グレイ殿がいましたか」


 予想外で、それでも納得はしたのだと言わんばかりにフィノはつぶやいた。


「シェリック殿、あなたは面識がないでしょうが、受継について、唯一その内容を知る見習いです」

「おまえは別だと?」

「私は初めから聞いていましたから。受継を実際に見たことはないですが、ラスター殿の役割についてはご存知です。ですので、私もできる限り力になりますよ」

「ありがとう、フィノ」


 何を言うのだとばかりに苦笑するフィノに、ラスターは笑い返した。フィノの笑顔は安心する。なんだか勇気づけられるのだ。


「ねえ、賢人ってなに? その地位に就くコトだけじゃないの?」


 ラスターは改めてシェリックに問いかける。もし。ラスターの言ったとおりだけだったなら、容易く看破されるなんてないはずだ。

 フィノが話したように、受継を知る見習いが少ないのなら、なおさら。


「賢人は、その地位を与える際に、儀式みたいなものを行う。それが受継と呼ばれている。おとといの朝、俺が口上を述べて、おまえがそれを受けただろう? あれだ」

「うん、覚えてる」


 ユノの手ずからカードを受け取って、治療師を紹介されて、母親と再会して。あれが二日前。まだ、たったの二日しか経っていない。


「結論から言えば、あれはただの見せかけの儀式だ。本来の受継じゃない」

「うん――えっ?」


 勢いで頷きかけて、ラスターは途中であごを持ち上げた。


「……違うの?」

「ああ」


 あれだけ形式ばって、かしこまって、ラスターは緊張していたのに。シェリックは嘘だという。それならば、やった意味は?

 ――いや、ないわけがない。受継をすると知らせて、ラスターが見せかけの賢人となることで囮になったのだから。


「正式な受継は口上を述べるだけじゃない。賢人のその名前も、一緒に受け継がなければならない。もしおまえが本当に薬師の賢人になるのならば、『レーシェ』という名も受け継ぐんだ」

「――あ」


 ふたつの名前。どちらも彼女の名前。

 ラスターの名前はひとつだけ。つまり、本当の賢人ではない。知る人が知れば、簡単にわかってしまうからくり。


「ここ数年は受継も起こらなかったですし、見習いの中でも知っている方はほとんどいないでしょう」

「そんなに珍しいの?」

「ええ。見習いの方が長年王宮にいるのは珍しいですよ。大抵の方は、ある程度こちらで学びましたら、国内や異国に行かれますから」

「確かに、長い期間留まるのは賢人くらいだな」

「ええ。ただ、グレイ殿は……お亡くなりになった賢人の一人と旧知の中だったようですから、それでご存知だったのでしょう」


 フィノから受けた説明に、グレイの言葉を思い返してみて――今ならわかる。グレイは受継を知っていたから、ラスターを嘘の賢人だと見抜いたのだ。


「そっか……。じゃあ、シェリックは、ディアが本当の名前なんだね」

「――いや」


 呼んだら駄目だろうかなんて浮かんだ考えはすぐさま、なかったことにされた。


「え? だって……」


 だってそうだろう。『シェリック』が受継でもらった名前なら、『ディア』が本当の名前ではないのか。それさえも違うと、シェリックは言う。


「それはレーシェや他の賢人の場合だ。俺の名前は、どちらも違う」

「じゃあ、本当の名前は?」

「ないな」


 あっさりと答えられる。重大なことなのに、そんな軽く答えないでほしい。


「預かりものの名前なんだよ。だから、本来の俺の名前はない。産まれたときはあっただろうが、忘れたな」


 なんで。どうして。

 口を吐いて出かけた衝動を堪える。変な音を鳴らした心臓は、聞かなかったことにした。代わりに、シェリックの言葉をひと言として聞き逃したりなどしないよう、耳を澄ませる。堪えて、シェリックがそう言っているからと言い聞かせて。ラスターは無言のまま頷きかけるが、途中でやめた。

 だって、そんなの同意したくない。

 産まれたときにはあった。どこかで『ディア』という名前をもらって、そうして今はシェリックを名乗っている。どれもこれも、嘘っぱちの名前。


「――どこでなくしてきたのさ。名前がなかったら、呼べないじゃん」

「別に、今ないとは言ってないだろう」


 ラスターにとって、彼はシェリックだ。レーシェがリリャであるのと同時に、彼はシェリックなのだ。ラスターが三年前、最果ての牢屋から連れ出した時、彼は確かにそう名乗りを上げた。それ以来彼はシェリックだと、ラスターはその名を呼んできた。

 シェリックはこともなげに話す。何でもないように。

 だからラスターも同じように返す。何でもない風を装って。


「シェリックでいい。今は借りてるだけの名前だけどな。この名前は、いつか時が来たら返す」


 返す、とは、誰に。

 そうなったら。そのときが来たら。新しい受継が起きて、『シェリック』を次の人に継がなければならなくなったなら? そうしたら、シェリックは? 名を返して、名前のなくなったシェリックは?

 ラスターは唇を引き結ぶ。

 やっぱり無理だ。駄目だ。何でもなくなんか、ない。名前は、その人がその人であることを示すためのものだ。ここにいるのだと、存在は確かなのだと、証明するためのものだ。


「……いなくなんか、ならないでよ」


 可能性が口を吐いて出てきてしまった。暗闇にまぎれて、そのまま溶けて消えてしまいそうな気配を、右の手でしっかりと捕まえる。


「唐突だな。なんで俺がいなくなるんだよ?」


 ラスターの様子に、一笑しながらシェリックは応える。

 空耳かもしれない。ラスターの不安がそう聞き取ってしまっただけかもしれない。

 笑顔の裏で、音にならなかったひと言で、言外に告げられた気がしたのだ。

 今はまだ、だなんて。



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