106,夜の向こうに見えた塔
一段、一歩。
進むたび、上るたび、鮮やかさを増して甦ってくる。あのとき自分が、どんな気持ちでこの階段を上がっていたか。結末を知ってしまった今、その足取りはかつてより軽い。当時の心境が同調していたとしても、もう全て、終わったことだ。
禁術を行使する前に占じたこと。結果を知ったこと。そうして、結果を知りながらも禁術を実行してしまったこと。その全てが、同じ場所だった。
占星術師の観測塔。アルティナのどこより、空に一番近い場所だと言われている。高ければ高いほど、星に近づけると思ったのか。
本当の星の位置は、想像するよりずっと遠い。予想もつかないほどの果てにあるのだという。
星から見たなら、こちらの高さの違いなど微々たる差だろうに。
禁じられたその術が決行されたのは、晴れた夜だった。雲に遮られない満天の下で、ひっそりと執り行われた。
――ねえ、シェリック。星が綺麗よ。いい兆候じゃない?
レーシェは言った。先に起こる悲劇など何ひとつ想像だにせず、無邪気に笑って。
「――そうだな」
あのときのレーシェに答え、シェリックは扉を開く。星空へと続く、頂上へ。
**
暗がりばかりの森の中。頼りになるのがリディオルの下げていた灯火だけで、揺らめく明かりから一歩離れると、途端に何も見えなくなってしまう。心許ない灯りしかなくとも心中どこかわくわくしてしまうのは、故郷の森を思い出してしまうからだ。
夜の森の中、ここは獣の遠吠えなんて聞こえてこないし、小川のせせらぎも届かない。木々だけに気を配っていさえすればいいから、とても楽だ。
塔に戻るのだと、リディオルは言っていた。リディオルの目的地がそこならば、ラスターは同じ道を戻ってこなければならない。この暗い中を、一人で戻ってこれるだろうか。
一度はラスターも通った道だ。あのときと少し異なる道で違う目的地だけれど、一応は来たことのある森だ。前回は陽が高く、連れだって歩いたのもリディオルではなくシェリックで、出口ではセーミャが待っていた。
時刻と人が変化するだけでこんなにも変わる場所なのかと、ラスターは気持ちを改める。薬草園を照らしてくれていた灯りも、森にはほんのわずかにしか届かない。野生の獣はいなくても、王宮のどこかに賢人を殺した人がいる。静かに湧き上がった感情を形にするより先に、ラスターはリディオルへと話しかけた。
「リディオル」
「ん?」
「今ボクたちが向かってるのって、シェリックが言ってた塔?」
「おう。俺らが普段いる場所だよ」
「高いの?」
「まぁな。街からも目視できるし、アルティナの中じゃ相当高い塔じゃねぇ?」
「うん」
それならばラスターにもわかる。街から見えた、いくつもの高い塔。高さでは及ばなくとも、どの塔よりも大きかった王宮。
「高さだけで競うなら、シェリックがいる塔の方が高いぜ」
「え。同じ高さじゃないの?」
街から見えた限りでは、王宮以外の他の塔は全て同じ高さに思えた。
「街から見える方向にある塔は全部同じだ。俺らがいる塔はもっと奥にあんだよ。街から見えることは見えるが、違いはあんまわかんねぇはずだ」
「うーん……? 八本くらいは見えたケド」
「じゃあ足んねぇ。王宮の塔は全部合わせて十二本だ」
十二。そんなに数があるのか。
「十二ってさ、賢人の数と同じ?」
「お。嬢ちゃん鋭いな」
「そんな話をされた覚えがあって」
リディオルから賢人にならないかと持ちかけられ、賢人がなんたるかを知らなかったラスターは、ナクルから教えてもらったのだ。アルティナ王国を補佐する、十二の役職に就く人がいることを。その中の一人がシェリックであり、リディオルなのだと。
「それぞれの賢人が詰めてる場所、それが王宮にある塔だ。まぁ、中には治療室みたいに王宮の建物とつながってるところもあるが、いくつかは王宮とは離れた位置にある。ちなみに、俺らの塔も離れてる」
「――あ、だから」
「そ。わざわざ森の中を通らなきゃなんねぇ」
話しながら歩いていたら、森の出口の向こうに、ようやく見えてきた。今話題に上がっていた塔が。
遠巻きに囲んだ森。足元が見えるくらいの外灯が点々と置かれ、拓けている場所なのに星は見えない。ここは外なのに。紺青の空だけが広がっている。寂しい、ぼやけた青の空。
そのとき、どこからか壊れそうな音が聞こえてきた。音の正体は塔の入り口だ。中から出てきたのは、髪の長い女性。リディオルと同じ黒い外套を着て、十数枚ほどの紙を右手に持っている。彼女はラスターたちに気づくと、ぎょっとしたように動きを止めた。
「よ」
片手を挙げて軽く挨拶したリディオルは、彼女の様子に動じることなく近づいていった。ラスターもなんとなくリディオルにならい、うしろをついていく。
「リ、リ、リディオル殿!? 倒れたとお聞きしましたっすけど、出歩いてていいんすか!?」
女性にとって思いがけない遭遇なのだろう。幽霊でも目撃したかの驚きように、ラスターは少しばかり同情したくなった。
「おー。心配いらねぇよ。おまえもしかして、これから予報告げに行くのか?」
「そうっす。ユノも怪我してて戻ってこないんで、こんな時間になったんすけど」
「それ、明日にできねぇ?」
「……明日っすか?」
畏まった口調でありながらいささか軽い調子。それをとがめるでもなく軽く応じるリディオルと。
治療師見習いの人たちとは違う。きっと彼女は見習いだと思うのだけれど、こんなに軽いやりとりでいいのだろか。浮かんだ疑問に、リディオルだからと納得して終わらせようとするラスターがいた。
「まだ知らせに行ってないっすから、いいっすよ。明日に変更っすね?」
「おー、わりぃな。頼むぜ」
それだけ話したかと思うと、リディオルはくるりと向きを変える。会話を見守るだけだった、ラスターの方へと。
「おし、寄り道終了。行くか」
「寄り道だったの、これ。リディオル、ここに戻るんじゃなかったの?」
「さすがに嬢ちゃん一人で帰すのは危ねぇだろ。急ぎだったから、ちょいとつきあってもらったってわけだ。わりぃ」
それならば、ラスターにつきあわせてしまうのは、盛大な遠回りということになる。
「別に気にしてないし……ごめん。ボクの方が時間取らせてる」
「構いやしねぇよ。協力してやるっつったのは俺だ」
聞いた感じだと、ここで彼女を捕まえられなかったら目的が達成できなかった様子だし。
ちらと女性を見れば、どこかへ向かっていく背中が見えた。リディオルのこんな調子には慣れているのだろう。ラスターはまだ慣れない。では慣れたいかと問われると、別に慣れずともいいと答えてしまう。
「予報って、もしかして雨のコト?」
「あぁ。なんだ嬢ちゃん、知ってたのか」
「お母さんから聞いた」
リディオルの活躍が見れるかもしれないと、あれは冗談ではなかったのか。
「ときに嬢ちゃん、あれからシェリックには会ったかよ?」
再びの暗い道に差しかかり、リディオルからそんなことを言われた。
「ううん。セーミャとフィノには会ったケド」
シェリックを探していたセーミャ。一緒に治療室まで向かったフィノ。
でも、ラスターがフィノと治療室に訪れたことは、リディオルだって知っているはずだ。その場に居合わせたのだから。
そういえばセーミャは、シェリックに会えたのだろうか。
「今日中に会っておくことをお勧めしておくぜ」
「どうして?」
尋ねたラスターへ、リディオルの背中が揺れる。笑う気配がした。
あれから何日も経っていない。まだ、一日と少しばかりなのに。顔を見たいと、無性に思ってしまった。けれど、問題がひとつある。
「どこにいるか知らないよ」
シェリックは占星術師に戻った。今までは傍にいてくれたけれど、占星術師になったシェリックの居場所はわからない。王宮の中だって、ラスターは今まで通ってきた場所しか知らないのだ。一度行ったことのある場所ですら、一人で無事にたどり着けるか危ういのに。
「行きゃわかる。あいつも、嬢ちゃんに会いたいだろうしな」
そうだろうか。シェリックとは昨日別れたきりだ。亡くなっていた治療師に出くわす、その前に。
――会いたい。
「でも……行くって、どこに?」
「ここ」
ひと足早く森を抜けたリディオルが、暗闇の空を指し示す。
――空?
灯りはほとんどない。一本の塔がそびえているのはわかるが、先ほどと趣が全く違う。照らされる灯りの少ないこと。上向いても頂上までは見えなかった。けれども紺青ばかりの空ではない。ここには、ちりばめられた光が浮かんでいる。
「……塔? でも、さっきと違うよね」
「ああ。ここは占星術師の塔だ。そろそろ来る頃じゃねぇ?」
何が。
ラスターが問うよりも早く、扉が開く音が聞こえた。開いたのは塔の入り口と思しき位置。中から出てきたのは。
「……リディ。おまえ、突然風を寄越してきて、何用――」
「シェリック」
顔が判別しにくくなった暗さでもわかった。聞き慣れた高さ。今は愚痴混じりの、声の主は。
「ラスター?」
押された背中に二歩進み、恨めしげにうしろを振り返る。その手に投げられたものがあって、ラスターは慌てて両手を出した。
「ほら、忘れもんだ。行って来いよ、嬢ちゃん」
放られたそれは、リディオルに取られていた包みだった。
ひらひらと振られた手にじっと目線を送り、動じない様子を見て諦める。ラスターはシェリックの元へ向かおうとして、リディオルを顧みた。まだ、伝えていないことがあった。
「……ありがとう」
よくわからないままに、なんとなく礼を言えば、「いいってことよ」と返された。