105,見返す瞳が語るのは
拾った音が、明瞭な言葉となって聞こえた。意図したできごとではない。自分の意志にそぐわない風が、勝手気ままに運んできたのだ。
知りたかった理由のひとつではある。それでも知らなければ知らないままでいいとすら思っていた。心の奥底、秘めていた自分の願望を叶えるために、気を利かせたつもりか。
全ては風のいたずら。くだらないおふざけで、戯れ。だから、笑って許せた。取るに足らないことだと、あきれながら放っておけた。――いつもなら。
噂の類いではない。彼女であれば、必ず抱いたであろう疑問。それをどうして看過してしまったのだろう。気にならないはずがないのだ。だって、彼女は――
湧き上がってきた苦笑いを手のひらで覆い、広がるのを留める。己の失態も覆い隠してしまいたかった。
きゃらきゃらと、楽しそうに唄う風だけが舞っている。
「……まじかよ」
人の心情など知らずに、けらけらと。
**
一度は外の薬草園へ行きかけたのだが、ふと思いついたラスターは。くるりと方向転換して進路を変えていた。
今日はおしまいと言われたけれど、その合図が必要なのは、ラスターではなく別の人ではないだろうか。それに、食べるのに一人でなければならないとは言われていない。ならば、誰か他の人に声をかけてみたっていいだろう。
ラスターの頭の中にぽん、と浮かんだのは一人の女性。シェリックを探していた彼女の姿。
珍しく扉が開け放たれている。たどり着いた治療室から、ひょっこりと顔を覗かせた。さて、目的としている人はいるだろうか。
からからと小さな車輪のついた卓を押してくる人がいる。上に乗ったはさみやグラス、金属製の道具がぶつかりあって、危なげな音を鳴らしている。そのとき、ふんわりと、石けんの香りが漂ってきた。いつもより強く香ってくるから、洗濯でもしたあとだろうか。
「あれ、ラスターさん」
白衣の男性がラスターに気づき、こちらまで歩み寄ってくる。昼間、ラスターが薬を渡した人だ。
「ルース……さん?」
彼から名前を聞いていなかったけれど、確かそんな名前で呼ばれていた。
「なにか忘れもの?」
「ううん。そうじゃなくて。あの、セーミャいますか?」
気さくに話しかけてくれた男性へ告げると、彼は「ああ」と声を上げた。
「セーミャさんならそこに――あれ」
振り返った男性は治療室を見渡す。ラスターの見える範囲に、セーミャは見当たらなかった。それはきっと、彼にも同じことが言える。
「ちょっと待ってて」
恐らく、少し前まではここにいたのだろう。治療室に他の見習いたちはいるようだが、肝心の人の姿が見当たらない。
やがて、彼は困った顔をしながら戻ってきた。
「ごめん。セーミャさん、今出てるみたいだ。もうしばらくしたら戻ってくると思うんだけど、待つ?」
「それなら、大丈夫です。たいした用事じゃないので」
「そう? わかりました」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ラスターが礼を言うと、彼は治療室の中へと戻っていく。
ラスターがここに着いたときからそうだったけれど、扉は閉めなくていいのだろうか。開いていた方が入りやすいから、もしやそれが目的かもしれない。
引いた足で治療室から離れるも、五歩ばかり歩いたところで足が止まってしまった。
今はまだ、薬室には戻れない。包みの中身を食べ終わるまで、帰ってくるなと言われたせいだ。中身を、食べないと。
部屋に戻れと言われてしまったから、食べ終えても薬室にはどのみち戻れない。食べなかったら怒られるのだろう。理不尽に。
それならば、今この辺でしゃがんで中身だけさっと食べてしまえばいいのではないか。なんと名案だろう。
しゃがみ込んだラスターは包みを開きかけ、そこにいた誰かとばっちり目を合わせてしまった。思わずその頬をなでる。すべすべで、つるつるで、ひんやりとした顔。こちらを見る自分の顔が何かを思案し、言葉なく訴えている。
――ここ、で?
「嬢ちゃん? 床なんか眺めてどうしたよ?」
音もなくやってきた影が、ラスターの訴えを遮った。
映り込んだ人と目を合わせ、ラスターは現実のその人を見上げる。
真っ黒の外套。見慣れた人物。ラスターを真正面から見下ろしたリディオルは、不思議そうな顔をしていた。
「……薬室に、帰れなくて」
「閉め出しでも食らったかよ? それとも迷ったか?」
どっちも違う。ある意味閉め出されたようなものだけれど。
「お母さんから、これ食べ終わるまで帰ってくるなって言われたんだ。食べ終わったら、部屋に戻れって……」
「それ、どうせ帰れねぇやつじゃねぇか」
「そうなんだケド……」
誘おうとしたセーミャは部屋にいなくて。包みを開けようとしたのだけれど、床があまりに綺麗すぎて、汚すのは忍びないと思ったのだ。そもそも、廊下はものを食べていい場所ではない。
「リディオルはどうしてここに?」
差し出された手を断り、膝を伸ばして尋ねる。近くなった目線が外へとずらされ、つられて動かしたラスターの目にもそれが見えた。
窓の外に広がるのは、視界に収まりきらないほどの木々。森と呼んでいいほどの広さを誇っていた。シェリックと歩いた場所。リディオルが見ているのと同じ景色だ。
「俺はあっち。塔に戻るところだったんだよ。で、嬢ちゃんにばったり」
「二日前に過労で倒れたのに? まだ安静にしてなきゃ駄目じゃないの?」
「俺ほどにもなると、回復すんのもはえぇんだよ」
不敵に笑うリディオルだったが、どうに嘘っぽい。
差した方向だって、どう見ても森しか見えない。リディオルのいう塔が本当にあるのかどうかも疑わしい。
ラスターは、リディオルに包みをずいと差し出した。
「これ、良かったら一緒に食べない? 何入ってるか、わからないケド」
「レーシェから何渡されたんだよ。こえぇなぁ」
やはり、中身を確認してからの方が良かっただろうか。何が入っているのかわからないなんて、そんな怪しいもの、ラスターだったら食べたいとは思わない。
もうこうなったら薬草園に行って、一人で平らげようか。
差し出していた包みを引っ込めようとしたら、ひょいとつまみ上げられた。
「でもま、これ食わないと帰れないんだろ? 協力してやんよ」
ついてきなと、リディオルはどこかへと歩き始めてしまう。ほけっと眺めていたラスターは慌ててあとを追いかけ、リディオルの背中へと告げた。
「ありがとう」
「別に?」
たいしたことではないと、首だけで振り返ったリディオルは笑い返してくれた。