101,うそぶく台詞の裏側に
さて。
静養していなければならない二人と、突然の賢人就任の知らせで喜びつつも混乱している治療師の見習いたちと。
本人たちだけで話したいこともあるだろうし、部外者がここにいては彼らの邪魔になってしまう。リディオルやユノがいくらけが人や病人に見えないとはいっても、本来ならばまだ安静にしていなくてはいけない。自分がいては気が休まらないだろうし。
「俺はそろそろ失礼するぞ」
いまだにぎゃんぎゃん言い合っている魔術師師弟の合間を縫って、シェリックは右手を挙げながら通り抜けた。
「おー。そんじゃ見送りでもしますかねぇ」
「ラスターの星命石、よろしくお願いします」
「ああ」
律儀に頭を下げてきたユノに応じ、シェリックは白い幕から出る。
作業場の近くでは未だにルースが囲まれ、先ほど受けた話について語っているらしい。受継――それは賢人を次の代へと引き継ぐ儀式。そんな事態はそうそうやってはこないから、物珍しさもあるだろう。シェリックも、実際に見たのは二回だけだ。自分が受けたときと、もう一回。
ルースたちがいる輪の中に、セーミャの姿はなかった。彼女も見習いだろうに。
ではどこに。見回した目が、隅で一人、書物をめくる彼女に行き着いた。シェリックの視線に気づきはせず、見習いたちの話に混じりもしない。ただ静かに目を通しては、紙に何かを書き綴っている。ルースの受継も、一度聞いたらもうそれでしまいだと、あとは自分には関係ないのだと、言いたそうに。
一人だけ遠ざかった空間で、移り変わっていく現状を拒んでいるようだった。
かける言葉が見つからない。その空間に割って入る勇気もなく、シェリックは止めていた足を無理やり引きはがした。
すがられた願いを断ったことに、後悔はしていない。後悔はずっと前に一度した。同じことでもう一度の後悔はしたくない。それに、正論で語るならばセーミャの考えは間違っているのだ。
いくら言いたいことがあるからと望まれても、死者の眠りを妨げてまで呼び出してはならない。人は誰に限らず、亡くなったのなら魂となり、死した魂は全て空へと還り、星になる。授かった命を空に還し、再び地上に授けられるその日が来るまで。それが、星の巡りと呼ばれるこの世界の理だ。
その導きの邪魔立てをしてしまうと、空に還れなくなってしまう。身体を失い、空へと還れず、星になれなくなった魂は、あてもなく地上をさまよう。そうして行き場のないまま、やがて消えてしまう。
よく、二度と会えなくなると言われるが、それは比喩などではない。星の巡りから外れれば、魂は消滅する。消滅するということは、次に授けられるはずの命もなくなってしまうのだということ。元はエリウス=ハイレンであった魂が、次の生を与えられることなく、消えてしまうのだ。
占星術師ならば誰もが知っているであろう話だが、占星術師ではない彼女が、星の巡りについてどこまで知っているのかはわからない。まるきり知らない可能性も、大いにあり得る。彼女が慕っていた師だろうに。ひとつの望みを叶えるため、その先をも失ってしまってもいいのだというのか。
理屈で通せる感情ばかりではない。わかってはいても、シェリックが意見を変える気はない。理を犯さないために自分はいる。犯してしまった先を知っているということは、眼前で食い止める役にもなれる。六年前と同じ愚は犯さないと決めた。
だから、シェリックの目下の問題はもっと別のもので。
「――見送りじゃなかったのか?」
治療室を出てからも、止まらなかった後方の足音。首をひねり、その主へと問いかけた。
「三日は安静にするよう言われてただろう?」
「いいんだよ」
まんまと抜け出してきたリディオルは、悪びれもせずに答える。
リディオルが勝手についてきているだけなのに、傍からだとシェリックが連れ出しているように見えなくもない。それを狙われたか――これでは共犯になってしまうではないか。
「……おまえの脱走に俺を巻き込むな」
「そりゃ思い過ごしだ。たまたまおまえが出て行くときと被っただけだっての。一日早まったところで変わりゃしねぇし、それに――」
リディオルがちらりと見たのは、今出てきたばかりの治療室。
「今、あっちは俺を引き留めてるどころじゃねぇだろ」
シェリックも同じようなことを考えていた。部外者である自分がいては、邪魔になるからと。吐いたため息はひとつ。
「……いいことを言っている雰囲気のところ悪いが、おまえが出てきたかっただけだろうが。俺は騙されないぞ」
「こういうときくらい見逃せよ」
何かしでかしそうな雰囲気はあったのだ。シェリックがセーミャと治療室にやってきたときから。リディオルは白衣ではなく、黒い外套を羽織っていて、いつでも動けるように準備をしていた様子だったから。初めからきっと、好機を狙っていたに違いない。抜け目ないというか。
リディオルにおとなしく、という単語はそぐわない。静かなときは大抵何かしらやらかす前触れだ。それはもう、身にしみてわかっている。
「……わかった、今回は見逃す」
「ははは、すっげぇ不本意な顔」
「首根っこつかんで今から戻しに行ってやろうか?」
「遠慮するね」
会話にも表面的にも、二日前に倒れた人物とは思えない。あくまでシェリックの目にはそう映っているだけで、実際はどうだか。推し量るのが難しいほど完璧なのだ。普段と何も変わらないのだと、リディオルのまとう空気すらそう主張しているようで。完璧すぎて――気にくわない。
「あまり無理は――」
「しねぇよ。口うるさい誰かさんから散っ々言われてたからな」
そこまで言ったつもりはないのだが――いや、そうではない。
リディオルに言ったのは、シェリック以外の誰かだ。では誰が?
ユノだった可能性はある。あるけれどリディオルのことだ。何度か遭遇した光景を思い返してみても、適当にあしらっているだろう想像は難くない。では、ルースならどうか。多少言いはしそうだが、あまりしつこくはなさそうだ。残るは、相手が誰であってもずけずけとものを言えるレーシェか、意表を突いてラスターか、あるいは、シェリックに禁術を願ったセーミャか。
「リディ」
「あ?」
「おまえ、何を企んでる?」
「企んじゃいねぇよ。どうすっかは考え中だ。ユノがまだ動けねぇからな。ま、できることはやろうと思ってる」
そうだ、シェリックも考えなければならない。これからのことを。
「まずは手慣らしに、雨でも降らせることから始めようかね」
ひらひらと手を振り、さらりとリディオルは言った。天候を変えることをそんな簡単に言わないでほしい。アルティナという限られた地域とはいっても、町ひとつ分以上の広さは悠にあるのだ。
――アルティナ。魔術師。予報。決して外れはしない天候。これからのこと。自分にできること。やらなければならないこと。
「――それ、明日にずらせるか?」
それは思いがけないところで出会う人のように、シェリックの頭の中にふっとやってきた。
「予報はまだ出してないからできるぜ。降らせたらまずいのかよ?」
「確かめたいことがある」
雨が降る前に。空が雲で覆われる前に。星が隠れてしまう、その前に。
互いに合わさった目が、互いの意図を探る。
六年前と似かよった状況。シェリックは断ったのだから、決して同じではない。同じにしてはならない。繰り返してはならないと、シェリックが決めた。
「六年前と同じことは繰り返さない。絶対に」
悲劇など、起こしてはならない。もう二度と。
「なら、大丈夫じゃねぇ?」
リディオルは笑う。口角の端だけ上げて、器用に笑ったのだ。
「おまえがそう断言するんだったら、悲劇にゃなんねぇよ」
「大言壮語にしたくないだけだ」
「んじゃ、俺が保証してやんよ」
そう言いきる自信はどこからやってくるのか。根拠も理由もないだろうに。どうやら、信頼はしてくれているらしいけれど。
「それはありがたいお言葉だな」
「結果は神のみぞ知る、ってな?」
そんなことを言ったら、物事の結果を禁術で知ることができる占星術師は、みんな神になれてしまう。崇められたいかと問われたなら、シェリックが返すのはただひとつ。絶対にごめんだ。
「おまえが信心深いとは驚きだな」
「なわきゃねぇだろ。神が何をしてくれるよ? 信じるのも、どうにかすんのも、結局は自分だろ」
どれだけわかりきった結果が待っていたとしても。覆せない事態だったとしても。
「そうすりゃ全部自分のせいにできる。神なんて、いるかどうかもわかんねぇ存在に責任転嫁して何もかも諦めるより、ずっとどうにかできたんじゃねぇかって思えるだろ」
どうしようもなくて神に祈る。あるいは願う。それをリディオルは責任転嫁だなんて言う。
「やれるだけやって、それでも不安に思うなら背中を押してもらえりゃいい。神頼みって、そういうことじゃねぇか? 神を信じるより先に、自分の可能性を信じろって思うね」
「――ああ」
シェリックに話しながら、本当は別の誰かに話しかけているのではないだろうか。すぐ隣にいるシェリックではなく、全く別の誰かを想定して、その人に話しかけているかのように。
「違いないな」
目には見えない存在ではなく、自らの力を信じられたら。もしそうだったなら、現状はもっと変わっていただろうか。
治療室にいる彼女が、あるのかどうかも危うい可能性にすがることも、なかっただろうか。
**
「――違うわよ! それ、生のまま塗ったら火傷痕が残るし、感染症引き起こす可能性があるでしょ!? 使うなら熱湯消毒か煮沸消毒してから!」
「そうなの?」
「そうなの、じゃないわよ……治療の基本は湿潤療法でしょ!」
「ええと、湿潤療法って?」
「なんでそれすら知らないのよ!」
「――ナキ」
声を荒げかけたナキだったが、レーシェに呼ばれてぐっと唇を引き結んだ。
「教えてあげなさいね?」
ナキに選択権はないのだと、そんな圧力すら感じられる。素直に従うナキも、レーシェには逆らえないようだ。
固唾を呑んで待つラスターへと、ナキは嫌な顔をしながらも教えてくれた。
「……熱傷における湿潤療法は、熱力量によって皮膚を失った部位、つまりは熱傷潰瘍をもう一度皮膚で覆って、消滅させること。皮膚はもともと再生能力を持ってるから、その再生能力がうまく働くような環境を整えてあげるの。それだけで熱傷創は治療できるといわれてるわ。皮膚移植をせずに、皮膚を再生するって考えよ」
「創傷治療における湿潤療法だね。人間が本来持ってる、傷に対する自己治癒能力を最大限に引き出す治療法だ。一番の敵は乾燥と消毒。感染の対策は細菌の除去じゃなくて、感染源の除去だ。だから、治療薬は必要ないんだよ」
ナキに続いてファイクも教えてくれた。その説明はよどみない。
「そう。あんたが知ってるのは傷口を消毒して直す方法。乾燥させたり消毒する方法は、今はあまり使わないひと昔前の療法よ」
「そうなんだ……」
解熱剤はラスターの知っているものと同じなのに、火傷治療の薬だけ違うのは初耳だった。治療法自体が変わっているなら、わからないはずだ。
「熱傷は見た目が目立つけど、擦過傷や挫創と同じ経過をたどるんだよ。だから、その知識さえあれば誰でも治療できる普通の外傷だ。熱傷自体に特別な合併症があるわけでもないからね」
言われてみれば、そうかもしれない。他の外傷と違って、合併症が起こる確率は低い。
「湿潤療法の利点は傷を早く治せること。治療する際の痛みがないから、日常生活に差し障りはない。それに、植皮手術も不要になるんだ」
「すごいんだね……」
今まで痛みを堪えながら治療している経過しか見たことがなかったから、それがなくなれば患者はずいぶん楽になるだろう。
ユノの傷だって、見た目は酷い。酷いけれど、痛みにうめいたりはしていない。それはつまり、湿潤療法で治療を進めているからか。
「とにかく、創面を乾燥させないこと、消毒しないこと、異物を残さないこと。それから、浸出液を適度に制御すること。この治療法はその四つが大事。だから、あんたがこれから作るのは消毒する保護材じゃなくて、乾燥させない保護材」
またひとつ、ラスターが知らない知識である。
ラスターが知っているのは、肉厚の植物を使うという、祖母に教えてもらった治療法だ。ナキは、それをひと昔前の治療法だという。ならば、新しい治療法を覚えておかなければならない。アルティナではそうだというのなら。
取り出した小さな冊子に、二人から教わったことを書き留めておく。覚えている単語を書き出しただけだったから、なんだか下手な穴埋め問題みたいになってしまった。
「……保護材の作り方もどうせ知らないでしょうから、ファイク、あんたが教えてやりなさいよ」
「えっ、僕が!?」
「あんたそれ仕上げたら終わりでしょ? あたしはレーシェ様に教えてもらいたいことがたっくさんあるの。せっかく治療室にいるのに、こんな機会は滅多にないんだから。あんたと違って暇じゃないの」
「それなら僕も教わりたいなー、なんて……」
「いいからやりなさいよ!」
「ひゃい! すみません!」
二人は小声で話しているけれど、会話がラスターの元まで丸聞こえだ。こちらを向いたレーシェに笑顔で応じるナキをうっかり見てしまって、ナキが聞かせたくないのはラスターではなくレーシェだったのだと確信した。
グレイは出かけてしまってここにはいない。鍋で煮詰めていた液体を瓶に入れて、どこかへと持って行ったようだ。
知らない知識があるなら覚えていけばいい。ひとつひとつ。順に。
ラスターは冊子を閉じて、項垂れているファイクに向き直った。
「お願いします」
「わ、わかったよ……」
勝ち誇った顔をしたナキがレーシェの元まで向かう。その姿は、こっそりと鼻歌でも歌っていたのではないかと思うくらい楽しそうで。
初めに話しかけられたときから、ナキはラスターに厳しい。理由はわかっているし、仕方ないことだ。知らないラスターが悪いのだ。
嫌な顔をしながらも、それでも教えてくれるのなら、身につけなければならない。賢人なのにそんなことも知らないのかなんて、言われてばかりではいけない。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
ナキに、ファイクに、グレイに。
今はまだ難しくても、いつか必ず、認めてもらえるように。