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潮待ちのレール ― 春浅き岬 ―  作者: たむ


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9/9

第九章 春へ下りる道

 岬から町へ戻る道には、いつも少しだけ“受け取ったあとの時間”がある。


 行きの道は、まだ見えていないものへ向かう道だ。

 見届けるために上がる日もあれば、風の先を受けるために上がる日もある。

 けれど帰りの道は違う。

 何かが解決したわけではなくても、何も変わっていないわけでもない。

 人は岬で受けた風や光を、すぐに言葉へはできないまま、それでも身体のどこかに持って町へ下りていく。

 第十一作の終わりに必要なのは、たぶんその時間なのだろうと、湊は思っていた。

 春そのものではなく、春の手前のものを少しだけ身体に通したあとで、人がどう日々の場所へ戻るのか。

 その戻り方の中に、この巻の本当の意味があるのかもしれなかった。


 帰る日の朝、春口は前日より少し曇っていた。

 空は明るいが、青みは薄い。

 それでも、冬の重い白さではない。

 高いところの雲がゆっくり流れ、港の水もどこかやわらかい色を返している。

 春は、来たと断言できるほどではない。

 けれど、もう来ていないとは言えない。

 その中途の感じが、まるで第十一作そのもののようだった。

 過去を終えたとは言えない。

 だが、遠くの明るさを見たあとでは、もうただ同じ場所へ閉じたままではいられない。

 春浅きとは、そういう戻り方のことなのだろう。


 朝食のあと、湊は一人で少しだけ坂を下りた。

 港まで行くわけではない。

 岬へも向かわない。

 宿と町のあいだの、いつもの勾配をただ歩く。

 第九作で、この坂は人の昨日を足に出す場所だった。

 第十一作の今は、その昨日の上に、ほんの少しだけ先の季節が重なっている気がする。

 勾配は同じ。

 石垣も、家並みも、曲がり角も同じ。

 それでも、見え方が違う。

 同じ町を、少し違う季節の明るさで見られるようになったこと。

 それ自体が、この巻の成果なのかもしれなかった。


 坂の途中で振り返ると、宿の窓に朝の光が当たっていた。

 夜の灯りではない。

 だが、灯りの巻や待合の巻を経たあとでは、その朝の光にも“人を受ける場所の明るさ”があるように見える。

 澄江は、その窓へ岬の風を持ち帰ったのだろう。

 汐里もまた、いま少しずつ自分のやり方でそうしている。

 宿とは、過去をしまう場所ではなく、外で受けたものを日々の中へ少しずつなじませる場所なのだ。

 第十一作まで来ると、そのことが前よりずっと具体に分かる。


 宿へ戻ると、汐里が帳場の前で帳面を閉じていた。

 その動きには、橋の巻や坂の巻のころより、もう少し先の季節を知っている人のゆとりがあった。

 大きく変わったわけではない。

 だが、窓の開け方、光の受け方、客を迎える声の置き方に、どこか“迎えるものは人だけではない”という感じがある。

 季節もまた、宿へ入ってくる客の一つなのかもしれない。


「少し歩いてきました」

 湊が言う。

「坂ですか」

「ええ」

 汐里は頷いた。

「今日は、下りる道も少し違って見えますね」

「そうですね」

「どう違いますか」

 彼女の問いに、湊は少し考えてから答えた。


「前は」

「ええ」

「戻る道とか、受け止める道として見ていた気がします」

「はい」

「今は」

「今は?」

「少しだけ、持ち帰る道にも見えます」

「……」

「岬で受けた風とか、遠くの明るさとか」

「そうですね」

「それを町へ持ち帰るための道」

「分かります」

 汐里は静かに言った。

「私も、そう思っていました」


 その言葉に、湊は少し驚き、そして嬉しく思った。

 同じ場所を、同じ変化として見られること。

 それは、第十一作で二人が同じ風を受けた証でもあるのだろう。

 母の風を理解するだけではない。

 その先に、自分たちがこれからどう町の中へ戻るかを、少し同じ明るさで見られるようになってきているのだ。


「母の先に」

 汐里が帳場の窓のほうを見ながら言う。

「ええ」

「自分の時間があるって話しましたよね」

「はい」

「今は、それが宿の中でも少し分かる気がします」

「どういう意味で」

「母が残したやり方を守るだけじゃなくて」

「ええ」

「これから来る季節を、どう宿へ入れるかは私が考えていくことなんだなって」

「……」

「春の風でも、夏の光でも、秋の影でも」

「それって」

 湊は静かに言った。

「かなり先まで見ていますね」

「はい。少しだけ」

「第十一作らしいです」

「本当に」

 汐里は小さく笑った。

 その笑いには、もう待合の中の戸惑いより、岬の先で風を受けた人の落ち着きがあった。


 昼前、湊は最後にもう一度だけ、宿の裏手から海のほうを見た。

 ここからは岬そのものは見えない。

 だが、あの先端で見た遠くの明るさの位置だけは、もう分かっている。

 見えないから消えるわけではない。

 第七作で夜航の灯りについて知ったことと、どこか同じだった。

 春浅き岬で得たものもまた、位置として自分の中へ残るのだろう。

 近くが変わらなくても、遠くの少し明るい場所を知っている。

 それだけで、人は前より少し違う帰り方ができるのかもしれない。


 駅へ向かう時刻が近づくと、汐里は自然に玄関の見送りの位置へ立った。

 第八作の橋で、人によって見送る距離を測り始めた彼女は、いまもう、どこで見送るべきかを身体で知っている。

 玄関。

 坂の途中。

 橋の手前。

 それぞれ意味が違う。

 そして今日の見送りは、岬の風を持って帰る人への見送りなのだろう。


「次は」

 汐里が言った。

「ええ」

「もう少し春の中になりますかね」

「たぶん」

 湊は頷く。

「でも、今回の春の手前があったからこそでしょうね」

「はい」

「いきなり春になるんじゃなくて」

「風や光が少しずつ先に来る」

「そうですね」

「宿も、そうやって季節を受けていきたいです」

「もう十分」

 湊は言った。

「そうなり始めていると思います」

 汐里は、その言葉を聞いて静かに頷いた。

 大きく感情を見せないところもまた、いまの彼女らしかった。

 橋を渡り、坂を上り、待ち、風を受けてきた人の頷きだった。


 駅へ向かう坂を上る。

 第九作で重さを知った坂。

 第十作で待合へ向かう順番の坂。

 第十一作の今は、その先に遠くの明るさを一度見た人の坂になっている。

 重さは消えない。

 だが、重さの中に少しだけ抜けがある。

 春の手前の風が通る分だけ、勾配の見え方が違う。

 それは小さな違いだ。

 けれど、シリーズのここまでを通ってきた今は、その小ささがいちばん大きいことも分かる。


 例の止まり場で、二人は自然に少しだけ歩をゆるめた。

 もう説明はいらない。

 この町の勾配と順番が、二人の身体にも少し入っている。

 そして今日は、その上に岬の風まで薄く重なっているのだろう。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「父親にも、母にも、春があったかもしれないって」

「ええ」

「私、前より自然に思えます」

「そうですね」

「大きな春じゃなくて」

「小さな春」

「はい。風とか、光とか、顔の向きとか」

「……」

「そのくらいの春でも、人には十分なのかもしれませんね」

「かなり」

 湊は答えた。

「十分だと思います」


 春口駅のホームへ上がると、空はまた少し白みを増していた。

 それでも冬の白さではない。

 待合の巻を越え、岬の巻を通ってきたあとでは、その違いがもう身体で分かる。

 ホームの白線。

 待合のベンチ。

 坂の勾配。

 その全部が、これまでより少しだけ先の季節に開いているように見えた。

 シリーズの地図は、また一段深く、そして広くなったのだろう。


 列車が入ってくる。

 いつものように乗り込み、窓際に座る。

 ホームには汐里が立っている。

 宿を守る人として。

 人の順番を待てる人として。

 そして、これから来る季節を宿へ迎え入れる人として。

 第十一作は、彼女にとっても大きな巻だった。

 母の先にある自分の時間を、初めてはっきり受け取る巻だったのだろう。


 発車の合図。

 列車が動き始める。

 ホームがゆっくり流れ、赤い屋根が遠ざかる。

 岬は見えない。

 だが、あの先から見た遠くの明るさだけは、もう自分の中に位置を持って残っている。

 見えないから失うわけではない。

 このシリーズは、ずっとそうやって場所の意味を自分の内側へ持ち帰ってきたのだった。


 湊はノートを開き、第十一作の最後の頁に書いた。


 ――見届けたあとの岬には、まだ始まりきらないものを受ける風がある。

 ――人は過去を越えるのではなく、過去を持ったまま、遠くの少し明るい海を見る。

 ――その明るさは近くをすぐに変えない。

 ――それでも、見たという事実だけで自分の立ち方は少し変わる。

 ――父にも澄江にも、そういう小さな春があったのかもしれない。

 ――そして汐里もまた、母の先にある自分の季節を迎える人になり始めている。

 ――春口とは、遅れや待ちや悲しみを抱えたままでも、少し先の明るさを見失わずにいられる町なのだ。


 書き終えたとき、車窓の向こうに海がひらけた。

 近くの水はまだ冷たい色をしている。

 けれど、遠くのほうだけ少し明るい。

 それを見て、湊は静かに思った。

 第十一作は、たしかに春の巻だったのだろう。

 花の巻ではなく、風と光と、遠くの明るさの巻として。

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