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潮待ちのレール ― 春浅き岬 ―  作者: たむ


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8/9

第八章 遠くの明るさ

 遠くの明るさは、近くの安心とは少し違う。


 宿の灯りのように、いまここへ戻るための明るさではない。

 港の照明のように、仕事や便のために位置をはっきり示す明るさでもない。

 岬の先から見える早春の海の明るさは、もっと曖昧だ。

 まだ何も約束しない。

 あそこへ行けば何かが変わると保証もしない。

 それでも、光だけがほんの少し先へ行っていて、人はついそこへ目を向けてしまう。

 第十一作の終わりに必要なのは、たぶんそういう明るさなのだろうと、湊は思っていた。

 過去をきれいにしまい終えてから前を向くのではない。

 しまいきれないものを持ったまま、それでも遠くの明るさに目が向いてしまう。

 その“向いてしまう”感じこそが、春の手前の本当の力なのかもしれなかった。


 翌朝、春口はよく晴れた。


 空の高いところには薄い雲が残っているが、光は昨日までよりはっきりしている。

 港の水面には白い反射が散り、坂道の石の縁も乾いて見えた。

 それでも暖かいわけではない。

 風はまだ冷たい。

 ただ、冷たさの中に閉じた感じがない。

 冬の終わりの“耐える冷たさ”から、春の手前の“抜ける冷たさ”へ、季節が確実に移り始めているのだろう。

 それを見ていると、人の心の変わり方も同じなのかもしれないと思う。

 昨日までの重さが消えるわけではない。

 だが、その重さのあいだを通る空気が少し変わる。

 それだけで、人は同じではいられなくなるのかもしれなかった。


 朝食のあと、湊は一人で岬へ向かった。

 今日は汐里も篠原も同行しない。

 汐里は宿に残り、「今日は、相沢さんが一人で見る日な気がします」と言った。

 篠原もまた、「遠くの明るさは、最後は自分で受け取るしかありません」とだけ言っていた。

 第六作でも第七作でも、第八作でも第九作でも、最後の一歩はたいていそうだった。

 記録と証言は、場所まで人を連れていく。

 だが、その場所で何を自分のものとして受け取るかは、やはり一人の時間になるのだろう。


 岬への道は、もう何度も歩いたはずなのに、今朝はまた少し違って見えた。

 草はまだ浅い色のままだ。

 花もない。

 だが、道の両側の低い茂みの先端だけが、ほんのわずかに柔らかく見える。

 春とは、まずそういう“先端の感じ”から来るのかもしれない。

 全体が変わるより前に、縁や先だけが少しゆるむ。

 人の心も同じなのだろう。

 父を完全に赦したわけではない。

 澄江の悲しみを全部理解したわけでもない。

 それでも、自分の中のどこか先のほうだけが、少し違う向きを取り始めている。

 第十一作のここまで来て、湊はそれをはっきり感じていた。


 岬の手前で足を止める。

 第十作までの待合や順番の感覚が、ここでもう一度身体に戻る。

 いきなり先端へ出ない。

 風へ自分を渡す番を少しだけ待つ。

 それから、一歩ずつ岬の先へ向かう。

 春浅き岬とは、そういう順番を持つ場所でもあるのだろう。


 先端に立つと、海は昨日より明るかった。

 色として大きく変わったわけではない。

 青というより、白を多く含んだ淡い鋼色に近い。

 だが、その奥、島影のさらに向こうの水面だけが、わずかにひらけて見える。

 そこへ光が落ちている。

 近くの海よりも、遠くの海のほうが明るい。

 その不思議な見え方に、湊はしばらく目を離せなかった。


 遠くの明るさ。

 それはまさに、第十一作の言葉なのだろうと思った。

 足元の草はまだ冬のまま。

 頬に当たる風も冷たい。

 それでも、遠くの海だけが少し先の季節を知っているように明るい。

 人が前を向くというのは、たぶんこういうことなのかもしれなかった。

 近くの現実がすぐには変わらなくても、遠くのほうにだけ先に明るさがある。

 その明るさを見たからといって、何かが解決するわけではない。

 だが、見てしまった以上、自分の立ち方は少し変わる。

 第十一作の岬は、それを教える場所なのだろう。


 父もまた、そういう明るさを見たことがあったのだろうか。

 霧のホームの人。

 夜航の港の人。

 冬灯の坂を上る人。

 雪待つ待合で長くなる人。

 その父が、ある春の手前の日、岬の先から遠くの少し明るい海を見たことがあったのかもしれない。

 そのとき父は、何を思ったのだろう。

 戻れると思ったのか。

 遅れたままでも次の季節は来ると思ったのか。

 あるいは、そこまで言葉にはならず、ただ遠くの光の向きに目を取られただけかもしれない。

 けれど今は、その“目を取られただけかもしれない”こと自体が大事に思えた。

 人は、明確な希望を持てなくても、遠くの明るさに目を向けてしまうことがある。

 その瞬間だけでも、季節はその人に届いているのだろう。


「過去を越えるわけではない」


 湊は、誰に言うでもなく心の中でそう思った。

 父も、自分も、汐里も、澄江も、過去を越えるわけではない。

 千紘の不在も、遅れた朝も、夜の灯りも、消えない。

 ただ、そのすべてを持ったままでも、遠くの明るさが見える日がある。

 春浅き岬とは、そういう日のための場所なのだろう。


 しばらくして、湊はノートを開いた。

 風が少し強く、頁の端が揺れる。

 それでも今日は書きたい言葉が、すでに胸の中でほとんど形になっていた。


 ――春浅き岬では、近くのものはまだ変わっていない。

 ――だが遠くの海だけが少し先に明るい。

 ――人はその明るさを見たからといって、すぐに軽くなるわけではない。

 ――それでも、その明るさを見たという事実だけで、自分の立ち方は少し変わる。

 ――父にも、澄江にも、そういう小さな春があったのかもしれない。

 ――自分にも、いま少しだけそれが来ているのかもしれない。


 書き終えて顔を上げると、風はまだ冷たかった。

 だが、冷たさの向こうにある明るさは消えていない。

 それで十分なのだろうと思った。

 春は、いまここを暖めるためだけに来るのではない。

 まだ届ききらないところから、先にこちらを呼ぶように明るくなる。

 その呼ばれ方を知ることが、第十一作の到達点なのかもしれなかった。


 岬から戻る道は、これまででいちばん静かだった。

 解放感があるわけではない。

 何かに決着がついた感じでもない。

 ただ、足元の草の浅さや、石の冷たさや、道端の影の薄さを、前より少し受け入れて歩ける。

 近くはまだ変わらない。

 それでも遠くが明るいなら、道の途中も以前とは少し違って見える。

 それが“春浅き”ということなのだろう。


 宿へ戻ると、汐里が帳場の前にいた。

 今日は窓を開けていない。

 けれど、閉め切った感じでもない。

 外の光を受けるように少しだけ障子が引かれ、室内の明るさがやわらいでいる。

 それを見て、湊は思った。

 汐里もまた、もう自分のやり方で“遠くの明るさ”を宿の中へ入れ始めているのだろう。


「どうでしたか」

 彼女が訊く。

「遠くの海が」

 湊は少し笑った。

「明るかったです」

「はい」

「近くはまだ冬のままなのに」

「ええ」

「それで、十分だと思いました」

 汐里はその答えを聞いて、すぐに深く頷いた。

 まるで、自分も同じ答えに少し前にたどり着いていたかのように。


「母も」

 彼女が言う。

「ええ」

「そうだったのかもしれませんね」

「どういう意味で」

「近くがすぐには変わらなくても」

「はい」

「遠くが少し明るければ、それを持って戻れた」

「そうですね」

「宿って、たぶんそういう場所にもできるんでしょうね」

「遠くの明るさを」

「日々の中へ少しずつ馴染ませる場所に」

「かなり」

 湊ははっきり答えた。

「もう、そうなり始めていると思います」


 その言葉を聞いて、汐里は少しだけ目を伏せ、それから笑った。

 派手ではない。

 だが、自分のこれからの時間をどこかで受け取り始めた人の笑いに見えた。

 第十一作は、彼女にとってもまた、未来を大きく決意する巻ではなく、“遠くの明るさを宿へ持ち帰れるかもしれない”と知る巻なのだろう。


 夕方、帳場に入る光はやはり少し長く残った。

 灯りを点ける前の、まだ昼とも夜とも言い切れない時間。

 そのやわらかい明るさの中で、湊はシリーズのここまでを静かに思い返していた。

 遅れた朝。

 夜の灯り。

 橋。

 坂。

 待合。

 そして春浅き岬。

 それらはどれも、過去の深みを掘るための場所だった。

 だが同時に、いまはそれぞれが“これからを少しだけ受けるための場所”としても見え始めている。

 シリーズはたしかに、そこまで来たのだろう。


 夜、ノートにはこう書かれた。


 ――遠くの明るさは、近くの安心とは違う。

 ――近くがまだ変わらなくても、遠くが少し先に明るいだけで、人の立ち方は変わる。

 ――父にも澄江にも、そういう小さな春があったのかもしれない。

 ――汐里もまた、遠くの明るさを宿へ持ち帰る人になり始めている。

 ――第十一作は、過去を越えるのではなく、過去を持ったまま遠くの明るさを見る巻なのだろう。


 書き終えたとき、窓の外にはもう夜が来ていた。

 だがその夜は、第七作の夜航の灯りの夜や、第十作の雪待つ待合の夜とは少し違う。

 闇の向こうに、まだ見えない明るさがあることを知っている夜だった。

 第十一作は、次の終章でその感覚を静かに町へ返していくのだろうと、湊は思った。

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