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潮待ちのレール ― 春浅き岬 ―  作者: たむ


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第六章 春浅き光

 春の手前の光は、何かをはっきり照らすための光ではないのかもしれない。


 夏の光は輪郭を強くする。

 秋の光は陰影を深くする。

 冬の光は物の硬さや距離の確かさを見せる。

 それに対して、春浅き光は、まだ決まりきっていないものの縁だけを少しゆるめる。

 海の色も、草の色も、石の冷たさも、完全には変わっていない。

 けれど、その変わっていなさの表面にだけ、ほんの薄く別の季節の気配が重なる。

 だからこの時季の春口は、何かが始まった町というより、“始まりきらないものを抱えた町”に見えるのだろう。

 第十一作で湊が見つめているのは、まさにそういう中途の明るさだった。


 翌朝、空は薄雲をかぶっていた。

 晴れてはいない。

 だが、冬の終わりの白さとも少し違う。

 光が上からではなく、まわり全体から静かに来ているような感じがある。

 宿の庭先の草も、昨日までと同じ丈のはずなのに、今日は少しだけ先の季節を含んで見える。

 変わったのは草ではなく、たぶん光のほうなのだろう。

 春浅き、という言葉は、まず光の状態を指すのかもしれないと、湊は窓辺で思った。


 朝食のあと、汐里は宿の裏手に干した布を取り込みながら、ふと立ち止まった。

 空を見ている。

 その視線の上げ方が、冬の巻のころとは少し違っていた。

 待合では人の順番を待ち、坂では息を整え、岬では風を受けた。

 そのあとでは、ただ空を見る仕草一つにも、どこか“次のものを受ける余白”ができているように見える。


「今日は」

 彼女が言った。

「ええ」

「風より光のほうが先ですね」

「そうですね」

 湊も庭へ出る。

「昨日の岬とは逆かもしれません」

「風が先に来る日もあれば」

「光が少し先に来る日もある」

「……」

「春って」

 汐里は少し考えるように言葉を置いた。

「一つのものじゃないんですね」

「どういう意味で」

「風だけ先に来る日もある」

「ええ」

「光だけ少し変わる日もある」

「はい」

「全部そろって春になるんじゃなくて」

「少しずつ別々に来る」

「そうですね」


 その気づきは、第十一作にとてもふさわしかった。

 春は一度に来ない。

 風、光、空の高さ、草の色、海の反射、そうしたものが少しずつずれながら先に変わる。

 人の心も、たぶん同じなのだろう。

 すべてを受け入れてから前を向くのではない。

 ある日は風だけが先に通り、ある日は光だけが少し柔らぎ、そうした小さな変化の積み重ねの中で、ようやく次の季節へ身体が慣れていく。

 第十一作は、その“少しずつの変化”を描く巻なのかもしれなかった。


 昼前、篠原が古い写真を数枚持ってきた。

 いずれも春口の早春を写したものらしい。

 港。

 坂道。

 岬。

 どれもぱっと見には冬と変わらない。

 だが、しばらく見ていると、確かに違いがある。

 影の縁が少しやわらかい。

 草がまだ色づかないまま、光だけを少し返している。

 海の面が、冬ほど硬くない。

 その“はっきりしない違い”こそが、春浅き光なのだろう。


「この時季の写真って」

 湊が言う。

「ええ」

「説明しにくいですね」

「そうでしょう」

 篠原が頷く。

「変わったと言えば変わった」

「変わっていないと言えば、まだ変わっていない」

「……」

「だからこそ、第十一作にふさわしいんだと思います」

「どうして」

「春浅き、というのは、断言しきれない変化のことですから」

「そうですね」

 汐里も写真を見ながら言う。

「母の岬も、そういう光の中だったのかもしれません」

「見届けるための光というより」

 湊が言う。

「まだ始まりきらないものを受ける光」

「はい」


 その午後、三人は町の高いほうの道を少し歩いた。

 岬まで行かなくても、港を見下ろせる場所がある。

 第六作や第十一作の岬ほどの決定的な視界ではない。

 だがそのぶん、日々の生活に近い高さだった。

 春浅き光の変化を、町の暮らしの中で見るにはかえってふさわしいように思えた。


 坂の上から見る港は、やはりまだ冬の色を残している。

 けれど、倉庫の壁や屋根の縁に当たる光だけが少し淡い。

 宿の側の木々も芽吹いてはいないが、枝の先がどこか細く明るい。

 それを見ていると、春とは“何かが新しく現れること”より、“すでにあるものの見え方が少し変わること”なのかもしれないと思えてくる。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「第十一作って」

「ええ」

「何かを見つける巻というより」

「どういう意味で」

「もうあるものを、少し違う明るさで見直す巻なのかもしれませんね」

「……」

「父親のことも、母のことも」

「そうですね」

「春があったかどうか、というより」

「春の手前の光の中で、どう見えたか」

「はい」

 その言葉に、湊は深く頷いた。

 たしかにそうだった。

 父も澄江も、急に別人になるわけではない。

 過去が消えるわけでもない。

 ただ、春浅き光の中で見ると、その人たちの輪郭の硬さが少し変わる。

 父は“遅れた人”であるだけでなく、“小さな春の向きを持ったかもしれない人”として見える。

 澄江は“終わりを見届ける人”であるだけでなく、“終わりの上を通る風を受けて戻る人”として見える。

 光が変わるとは、そういうことなのかもしれなかった。


 帰り道、道端に低い草の群れがあった。

 まだ青いとは言えず、むしろ冬の乾きが残っている。

 それでも、光が当たるとその一本一本の縁だけが少し明るく見える。

 汐里はその前で足を止めた。


「咲いてないですね」

「ええ」

「でも」

「でも?」

「これも春なんでしょうね」

「そう思います」

「花がないのに」

「花より先に来る春もあるんでしょう」

「風みたいに」

「光も」

 そう言うと、汐里は小さく笑った。

 その笑いは、待合の巻の終わりにあった“肩が少しほどけた笑い”とはまた違う。

 何かが来ると断言できないまま、それでも来ている気配を受け取った人の笑いに近かった。


 夕方、宿へ戻ると、帳場の明るさもどこか違って見えた。

 灯りを点ける前の自然光が、以前より少し長く室内に残る。

 それだけで、宿の一日のつながり方が少し変わる。

 冬の宿は、早く夜へ入る。

 春の手前の宿は、まだ昼とも夜とも言いきれない柔らかな時間を少し長く持つ。

 澄江は、そういう時間の差もまた、毎年体で知っていたのだろう。

 だから春浅き岬の風を受けたあと、それを帳場の光の中へ少しずつ混ぜていけたのかもしれない。


「母」

 汐里が帳場の窓辺で言った。

「ええ」

「こういう光の変わり方も、たぶん好きだったんでしょうね」

「かなり」

 湊は答える。

「どうしてそう思いますか」

「灯りの人でもありましたけど」

「はい」

「光の人でもあった気がするから」

「……」

「夜の灯りだけじゃなくて、昼から夕方へ変わるときの明るさも、ちゃんと見ていた」

「そうですね」

「第十一作の母って、そういう人ですね」

「はい」

 汐里は静かに頷いた。

「前より、もっと分かってきました」


 夜、ノートにはこう書いた。


 ――春浅き光は、何かを決定的に照らす光ではなく、すでにあるものの見え方を少しずつ変える光なのかもしれない。

 ――父も澄江も、別の人になるのではない。ただ、その輪郭の硬さが少しやわらぎ、別の向きが見え始める。

 ――春は一度に来ない。風が先の日も、光が先の日もある。

 ――第十一作は、その少しずつの変化を、人の心のほうにも重ねていく巻なのだろう。


 書き終えたあと、窓の外はもう暗かった。

 だが今日の暗さには、冬の夜の閉じ方とは違うゆるみがあった。

 完全に春になるわけではない。

 それでも、光のほうはもう少し先へ行っている。

 第十一作はここから、汐里自身が岬に立ち、母の先にある季節をどう見るのか、その時間へ入っていくのだろうと湊は思った。

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