第一章 春の手前
春は、来てから分かるとは限らない。
花が咲き、風がやわらぎ、海の色が明るくなってから、ようやく人は季節の移り変わりを認めることが多い。
けれど春口では、ときどきその前に分かる。
まだ寒い。
朝の空気は冬のままで、港の水も硬く、坂道の草はくすんだ色をしている。
それでも、光の角度や、風の当たり方や、遠くの島影の見え方だけが、ほんの少し先の季節を先取りしてしまう日がある。
そんな日は、町全体が“まだ来ていない春”をうっすら知っているように見える。
第十一作で湊が春口へ戻った朝も、まさにそういう朝だった。
二月の終わり、列車の窓から見える瀬戸内は、まだ冬の色を残していた。
海は青より灰に近く、島影もくっきりしている。
光はある。
だが暖かくはない。
空だけが少し高くなり、雲の流れが冬の重さをわずかに失っている。
それだけで、景色はもう完全な冬ではなくなる。
第十作の雪待つ待合では、人は来ないかもしれない雪の気配の中で、立ち上がる順番を少し長く待っていた。
第十一作の今、その待ちのあとの世界が始まろうとしている。
まだ何も咲いていない。
けれど、立ち上がった人は、いずれどこかで遠くを見なければならない。
春浅き岬とは、きっとそういう場所なのだろうと、湊は車窓を見ながら思っていた。
春口駅へ着くと、ホームの白線は低い光を受けていた。
霧の朝の白線とは違う。
冬の終わりの白線は、はっきり見えているのに、まだ空気の冷たさを抱えている。
そこに立つと、過去の巻で見てきた父の遅れや、待合の長い時間や、坂の息の白さまでが、薄く一緒に思い出される。
けれど今朝は、その先にあるものも少しだけ感じられた。
坂の上に立ち、ホームを越え、待合を出たあとで、人はもう一度外の光へ出ていく。
そのとき、初めて見えるものがあるのかもしれない。
改札の外には、汐里がいた。
淡い灰青のコートに、白ではなく薄い生成りのマフラー。
冬の装いだが、どこか一色だけ軽くなっている。
それがこの季節にふさわしく見えた。
橋を知り、坂を知り、待てる人になり始めたあとで迎える、春の手前の人の顔だった。
「おかえりなさい」
彼女が言う。
「ただいま」
「今日は、少しだけ春の匂いがしますね」
「まだ寒いですけど」
「ええ。でも」
汐里は駅舎の向こうの空を少し見た。
「風の当たり方が違います」
その一言に、第十一作の入口がすでにあった。
春は、見えるものより先に風で分かる。
まだ咲かない。
まだ暖かくない。
それでも風だけが少し先に変わる。
今回の岬は、たぶんその風の巻なのだろう。
駅を出て坂を下りる。
第九作で知ったように、春口の勾配は人の昨日を足と息へ出す。
だが今日の坂は、冬ほど重くない。
もちろん軽くもない。
ただ、重さの中にほんの少しだけ抜けがある。
空気が薄くなったような、呼吸の最後に少しだけ余白ができたような感じ。
それが、季節の変わり目なのかもしれなかった。
「篠原さんから」
汐里が言う。
「ええ」
「今回は、また岬だと聞いています」
「はい」
「第六作の岬とは違うんですよね」
「かなり」
湊が答える。
「あのときは」
「見届ける場所でした」
「ええ」
「今度は」
「まだ来ていないものを受ける場所、なのかもしれません」
「……」
「母の記録にも、そういう文があったんです」
「どんな」
「“春の手前の岬では、見たいものより先に風が来る”って」
湊は、その一文をしばらく胸の中で反芻した。
見たいものより先に風が来る。
それは、岬という場所の意味を、第六作からもう一度更新する言葉なのだろう。
見届けるとき、人は対象を見ようとする。
だが春の手前の岬では、見ようとする前に、風が身体へ来る。
つまり岬は、過去を目で確かめる場所である以上に、次に来るものを身体で先に受ける場所でもあるのだ。
宿へ着くと、帳場には柔らかな昼前の光が差していた。
冬のように低く冷たいだけではない。
けれど春の明るさともまだ言えない。
木の面に触れる光の輪郭が少しだけ薄くなり、影の縁が前よりやわらいでいる。
季節が変わるとき、まず変わるのはたぶん光の“厳しさ”なのだろう。
澄江もまた、こういう光の違いを毎年見ていたのかもしれないと湊は思った。
居間には、すでに篠原が来ていた。
今日は布鞄のほかに、薄い手帳の写しと、岬の古い写真を数枚持っている。
写真の岬は、第六作で見たそれと同じ場所のはずなのに、季節が違うせいで印象がずいぶん違った。
草はまだ短く色が浅い。
海は明るいというより、光を平たく返している。
何も決定的ではない。
だが、その何も決定的でなさの中にこそ、第十一作があるように見えた。
「おかえりなさい」
篠原が言う。
「ありがとうございます」
「今回は、岬です」
「ええ」
「ただし、夕凪の岬ではありません」
「春浅き岬」
汐里が小さく言うと、篠原は頷いた。
「そうです。見届けたあとの岬」
「その先の」
「ええ。まだ何も始まりきっていないけれど、何かの気配はもう来ている」
「……」
「春口では、そういう場所として岬がもう一度現れるんです」
篠原が開いた手帳の写しには、断片的な記述があった。
古い漁の見張りに関わった者のものらしい。
その中に、こうある。
――春は海の色より先に風で分かる。
――岬では、目で見える前に頬で分かる。
――まだ草は冬の色でも、風だけ先に変わる日がある。
「頬で分かる」
湊が言う。
「ええ」
篠原が答える。
「これが大きいんだと思います」
「第六作の岬は、視線の場所でした」
「そうです」
「第十一作の岬は」
「風を受ける場所」
「……」
「つまり、未来の気配を身体で先に受ける場所なんでしょうね」
「そう思います」
その整理は、第十一作の核心そのものだった。
見届ける岬は、過去を視線で受け止める場所。
春浅き岬は、まだ来ていないものを身体で受ける場所。
父や澄江の時間をここまで追ってきたあとで、さらにその先へ行くには、たしかにこの更新が必要なのだろう。
過去を受け止めるだけでは、人は次の季節へは入れない。
まだ整理しきれないものを持ったままでも、風の先にあるものへ身体を開く瞬間がいる。
そのための岬が、第十一作なのだ。
「父も」
湊が低く言った。
「ええ」
「そういう岬へ行ったことがあるんでしょうか」
「十分に」
篠原が答えた。
「過去を見届けるためだけでなく」
「はい」
「その先にまだ何かがあるかもしれないと思って」
「……」
「あるいは、思おうとして」
「そうですね」
汐里も静かに言う。
「母も、そうだったのかもしれません」
「見届けるためだけじゃなく」
「春の手前の風を受けに行っていた」
「ええ」
その言葉を聞きながら、湊は第十作までの流れを思い返していた。
待合で少し長くなる。
立ち上がる順番を待つ。
そして、立ち上がったあとでどこへ行くのか。
第十一作の答えは、岬なのだろう。
しかも、何も咲ききっていない春の手前の岬。
過去を整理し終えてからではなく、整理しきれないままで風を受ける場所。
それがシリーズ後半の、新しい入口になるのかもしれなかった。
午後、湊は二階の部屋から海を見た。
港のほうはまだ冬の色に近い。
だが空の高いところだけ、わずかに春へ寄っている。
その二重の感じが、ひどく第十一作らしかった。
完全には変わっていない。
でも変わり始めている。
春浅き、というのは、そういう時間なのだろう。
人の心も、たぶん同じだ。
父をまだ完全には赦していない。
澄江の静けさをまだ全部は受け取りきれていない。
それでも、次の季節へ向く風だけは先に来る。
第十一作は、その風の巻なのだと湊は思った。




