第六章 胡蝶の悪夢(7)
しかし、コチョウの言うことが本当であれば、意味が分からない行動がある。僕は何のつもりであんなことをしたのか、確かめる必要があった。
「じゃあ、何でわざわざマザー・アリスを僕達に返すふりをして殺すようなことをしたんだ」
「簡単なことだ」
と、コチョウは笑う。予想外に、人懐っこい笑顔だった。
「私がお前達の味方じゃないからだ」
さっぱり分からない。つまり意味なんかないのかもしれない。僕は、どれだけ言葉を交わしても、ひとかけらも理解できない思考、というものを、本当の意味で生まれて初めて味わった気がした。
「道理も理屈も意図もない」
僕はそうとしか思えずに思わず小さく呟いた。コチョウは僕の言葉には答えず、楽しそうに笑い、躊躇いもなく残酷に平然とした言葉を吐いた。
「あいつは生き残れなかったから死んだだけだろ。結果以外に何かあるか? ないだろ」
一方的で暴力的な放言だった。さも、死ぬ方が悪いと言いたげな態度には微塵の感情もなく、殺したがそれがどうかしたか、という冷淡さだけがあった。
「ふぅむ」
そんな風に何処かずれた苦笑を浮かべ、コチョウは短く思案の声を上げた。そして、首を捻った。
「そんなことよりも、お前達が問題にしなければならないのは、シューカの羽化を止めようとしてる私を、アリスが何故か邪魔しようとした、ということだと思うんだがな。そっちは気にしなくて良いのか?」
気にならないのなら良い、という顔をして。コチョウはつまらなそうに欠伸を一つした。
「……理由が分かるのか?」
僕はコチョウの言葉をどこまで信じるべきなのかを考えながら聞き返した。僕が思う限りでは、おそらく、コチョウの言葉に嘘はないと思う。あるいは、嘘をつく必要などコチョウには初めからないというべきか。すべてが真実であろうと、僕達がコチョウをどうこうできる筈がなく、生きている世界のレベルが全くかみ合っていないものを感じた。コチョウは僕達の全宇宙をもってしても、まだ狭いと明言できる世界で生きている、そんな不確かな違和感があった。
「大方な。下手に殺すと繭が壊れるんだろ」
つまり、アースウィルが崩壊するということだ。大惨事待ったなしとしか言いようがない。
でも本気でこのフェアリーが何を考えているのかが分からなくなってくる。何故わざわざそんなことを丁寧に教えてくれるのか。
「私はお前達の敵でもないからな。あくまで今回の件に関しては、だが」
わずかに笑い、コチョウは首を傾げた。そして、滓かなため息をついた。
「未来までは約束できない。最終的に利害が一致するかまでは保証しない」
そして、シーヌの前に小さな琥珀色の石を置いた。
「アリスの記憶。お前がアリスそのものだったら殺して捨てるつもりだったが、くれてやる」
「……あ。うん」
どう反応して良いか分からない表情で、シーヌは躊躇い気味に頷いた。怯えと困惑とほんの少しの感謝が入れ混じった瞳は、コチョウを直視することができないでいた。
「そろそろか」
そう言って、コチョウはシーヌの前で、テーブルに仁王立ちになり、腕を組む。一秒経ち、二秒経ち、何も起こらないことに苛立った舌打ちをした。
「遅い」
「申し訳ありません」
三秒目に、コチョウと、唐突に響いた声による短い会話。響いた声は、控えめで透き通った、少女の声だった。
「用意は終わったな? 終わってないとか言ったらぶっ飛ばすぞ」
声の主は見えないけれど、そんなことはたいした問題ではないといった風に、コチョウは苛立った声のままに聞き返す。
「はい。多少不安定な部分はありますが、力場崩壊する程のものではありません。……ですが……宜しいのでしょうか。お師匠さまが本当にされるのですか?」
声はコチョウをお師匠様と呼んだ。驚くべきことだ。このフェアリーから一体何を学べるというのか。僕には理解できなかった。明らかに師事する人選を間違えているとしか思えなかった。
話の内容はさっぱり分からない。何かをしようとしているのは確かなのだけれど、止めるべきなのか、それとも手伝うべきなのかも分からない。何が起ころうとしているのか聞かなければならないのは分かっていたけれど、僕はうまく会話に割り込むことができずにいた。
「じゃあお前がさっさと出来るようになれよ。でかいぞここ。お前がやるか?」
答えはない。ただ、言葉にならない息遣いだけが聞こえてきた。
「作り物だろうと、知的生物が住んでるからな。崩壊は避けなきゃならん。面倒だが」
コチョウが言う。それが僕に向かっての言葉だと気付くのに、僕は少し時間を要した。
「知的生物がいる領域でシューカが死ぬと、領域が崩壊するのと一緒に、変異が起こる」
僕が分かっているのかどうかを確かめることなく、一方的にコチョウは続けた。
「変異した奴は自分が変異したことに気付かない。そしてシューカの卵がばら撒かれる」
「ん? シューカには繁殖能力はないと聞いた」
僕がそう指摘すると、コチョウは頷きながら笑い、こう答えた。
「シューカは増えない。卵でばら撒かれるのは、世界を腐らせ、毒素で生物を汚染する病原体だ。一度ばら撒かれ、増殖を始めた病原体は、世界が腐りはじめるまで目に見えない。そっちの方が厄介だろ?」
「成程」
と、僕は頷くのがやっとだった。
つまり、アースウィルは崩壊させてはならない。アースウィルを保存したまま、シューカだけを殺さなければならないということだ。
「アリスの奴が邪魔しなかったら、私もやらかしてたな。そこだけは褒めといてやろう」
そう笑って。
「調べて来てみて分かった。繭を保護しながらシューカを完全に滅ぼさないと、駄目だ」
そして、コチョウは頷いた。
「お前達の世界がどうなるかは興味あるが、あとが面倒だ。そんなやり方は楽しくない」
「ああ。火をもって穢れた体を討ち滅ぼしっていう文言はそういうことか」
でも分からないことがある。もしこのままコチョウがアースウィルを保護してくれたとしたら、その功績は何故残されなかったのか。考えられることは一つだった。コチョウに救われたことに関しては、きっと伏せられなければならなかったのだ。
「今回は、手を貸してくれるということで良い訳だな?」
「ああ。仕方ない。だが」
コチョウはまたわずかに笑った。
「ああ。分かっている。おそらく、君はいずれ何らかの形で僕達と敵対するのだろうな」
僕も頷いた。
功績がなかったことになれる理由など、そのくらいしかない。そして、コチョウはルインズバースの名の通り、次元ひとつふたつの規模で済むほどの小さな災いではない。おそらく、僕達の、次元宇宙規模の災いになるのだろう。
僕の敵なのかは、まだ分からない。
そうでなければ良いとは思うけれど、そうなった時には、例えどれほどの力の差があろうと、僕はきっと挑むのだろう。いずれにしても、未来のことは分からない。今回協力してくれるのであれば、有難く力を借りる以上の選択肢はない筈だ。僕達には協力をえり好みしている余裕はない。
「だからといってアリスの命を奪ったことが許せる訳でもない。その必要があったからではなく、単に生かしておくのが面倒くさかったからという態度しか伝わってこない。もしかするとそうするしかなかったのかもしれないから、判断を保留にするだけだ」
「どっちでも良い。結果は変わらん」
僕の判断にも、コチョウは興味がなさそうだった。僕がどう判断をしようと、僕に何ができる訳でもないという、まさにどうでも良い、という感覚なのかもしれない。悔しいけれどその通りだし、今は僕一人の主義よりも、アースウィルを守ることの方が大切で、僕は反論したい気持ちをいったんは呑み込んでおくことに決めた。
「それで、君達はどうするつもりなんだ? その、君と、誰だか知らないけれど、君のお弟子さんは」
「深奥を繭から隔離する。簡易的にな」
と、コチョウはまた宙に翅を広げた。ゆっくりと浮きながら、口の端だけで笑った。
「簡易的といっても、お前等の神共のよりも上等な術だ。壊れることはないから安心しな」
それから、天井近くまで飛ぶと、
「こっちは勝手にやっておく」
その言葉の響きだけ残して、コチョウは何の動作も見せずに天井に歪みを張りつけたように消えて行った。
僕達はただ、黙ってその姿を見送った。




