第六章 胡蝶の悪夢(6)
長い通路を抜け、僕達は白い天盤と銀色の縁取りの簡素な長テーブルと長椅子が並ぶ部屋に案内された。部屋はかなりの広さがあり、まるで大きな共同食堂のように見えた。
僕達と距離をおいて、シーヌとネーラが並んで座っている。ネーラはクリスタルが用意してくれた透明な柔らかそうな素材の入れ物を両手で抱えていて、
「おいしい…おいしい……」
と泣きながら中身の合成血液を啜っていた。何とか最悪の事態は免れたようだった。
「ありがとう」
ネーラの代わりにクリスタルに礼を言ってから、僕は本題を切り出した。僕はシーヌとネーラが見える向きに座っていて、向かい側に、クリスタルが座っている。
「エターバース。その名に力があることは分かる。ルインズバースの名にも。おそらく君達は僕達の次元宇宙の神々をも超える存在なのだろう。それは分かる。しかし分からないのは、君達が何者かということだ。君達は一体何処から来た。僕達の次元宇宙で何をするつもりなんだ?」
「私はあなた達の宇宙で何もするつもりはありません。多少の物資の補給などの手伝いくらいは、することに吝かではありませんが、あなた達の行動の結果に影響するほどの力を行使はしません。そんなことをしなくても、あなた達はあなた達なりの結末を得るでしょうから、良い結果にしろ、悪い結果にしろ、私が無理矢理結果を捻じ曲げても、あなた達が幸せになることはありません。私は私の宇宙の中で多くを学び、その結果、私がどれほど大きな力を振るったとしても、世の中は、不幸な結果が訪れることを顧みない力の方が強いのだということを知りました。他者の力をあてにして、自らの努力を怠れば、最終的に巡り巡って不幸な結末が訪れます。そして、私が振るう力は、人から努力を奪うものなのです。だから、私は、何もしません。私が力を一度使用したとしても、二度目を無条件に期待しないと分かっている者以外の為に、貸せる力は、私は持ち合わせていません」
エターバースたるクリスタルはそうなのだろう。それは信じられた。彼女が僕達の次元宇宙を窮地に追いやり破壊するとは思えなかった。でも、ルインズバースたるコチョウはどうだろう。クリスタルとは全く別の思考で動いていることは明らかだった。
「君はそうかもしれない。しかし、僕が見た限り、アースウィルは明らかにルインズバースの力に脅かされている。君達は別に相反する、対なる力という訳ではないのか?」
「エターバースとルインズバースが同等の力で、かつ、異なる意志であることはその通りですが、私達が敵対しているかといえば違います。私達は、基本的には、お互いのすることに興味がありません。私には私の研究がありますし、彼女には彼女なりの」
と、クリスタルは首を振った。そして、コチョウの理不尽さに理解はできない、と言いたげに表情を曇らせた。
「娯楽があります」
「ご……」
言葉を失う。何となく予想はしていたけれど、実際に言葉として聞くとあまりにもショッキングだった。そんなことが許されていい筈がない。
「娯楽」
「娯楽です。コチョウは自分が楽しむ為にしか、ルインズバースの力を振るうことはありません」
クリスタルの言葉に。
ふざけるな、そう叫べていたらどれほど楽だったろう。けれど、僕にはその暴虐の遊戯が理解できてしまった。強い力がある者が力なき者を虐げ、彼等の暮らしを玩具のように突いて荒らす。そして力なき者が右往左往することを眺めてせせら笑うというのは、荒野に生きる生物たちが当たり前のように行っている、自然の営みの中に幾らでも存在するものだ。
「それで何かの目的を成そうという訳ではないんだな」
自分でも冷酷だと感じるほど、僕は怒りは感じなかった。かつてオールドガイアのサレスタス盆地で同じような暴虐に怒り狂った僕は、今では、あの時と同じようには、しかも、より凶悪で被害も大きい暴虐に、自分が怒れなくなっていることを知った。
「つまり、ルインズバースには、自分以外を尊重するという意志は全くないということか」
僕がそう言った意味に理解すると、クリスタルも、
「まさしくそうです」
と、頷いた。クリスタルも過去にも何かいろいろ迷惑を被ったことがあるのが、苦虫を噛み潰したように苦笑いをした。
厄介な話だけれど、分かりやすくはある。僕はコチョウに対抗する為には、やはりコチョウのことをもう少し理解する必要があるのだろう。
「コチョウというのはどんな人物なんだ?」
僕はそれこそが本題だと分かって貰えるよう、クリスタルの目を覗き込むように凝視した。もはや彼女が文字通り遥か次元の違う存在だということは、僕には何の支障にもならなかった。
「気まぐれで奔放、常識や良識など全くの無視で、他人の命すら露ほども気にしません。他人の為とか世界の為とかいう考えは皆無で、自分本位の極みです」
要するに、完璧な屑だ。しかしその屑にはどの世界においても類を見ない最強の力が伴っている。生きる災害と呼ぶのが適切なのかもしれない。そしてその災害は、おそらく滅ぶことがないのだ。
「最低だな」
ため息しか出ない。
何故アースウィルに興味を抱いたのかと嘆きたくなる。とてつもなく不幸だとしか思えなかった。
「そうでもないです」
けれど、クリスタルはそう言って困ったように笑った。
「コチョウに滅茶苦茶にされた神域は一〇〇を下りませんが、コチョウによって救われた神域もまた同数程度あります。彼女の行動は一人で完結していて、すべてが終わるまでどちらの結果を目指しているのか、彼女にしか分かりません」
「最悪だな」
僕はもう一度ため息をついた。迷惑この上ない話だ。いっそクリスタルのように何もしないでいてくれた方がずっと良い。
「本人に『今回はどっちだ』と聞いたところで答えてはくれないんだろうな」
僕がため息をつくと。
「決めつけられるのも心外だね」
ネーラの頭上に小さな影が現れ、合成血液の容器を掠め取って天井近くまで飛んで行った。
「あん? なんだ血液パックか。返す」
それから自分が奪ったものを一瞥すると、興味なさそうに降下して、ネーラの手元に押し付けるように合成血液の容器を返した。ネーラは恐怖で固まったように反応しなかった。それから、コチョウはシーヌを一瞥して、
「悪かった。お前はアリスじゃない。もう狙わないから安心しな」
と、態度だけは横柄なまま、謝った。口だけでも謝罪の言葉が出たことに、僕も、当のシーヌも何が起こったのか、すぐに理解できなかった。
コチョウは僕達が返事をしないことを気にしたりはしなかった。露ほども、僕達の反応に興味はないという態度だった。
「で、何だっけ? 私が何をしてるか、か」
しばらく腕を組んで浮かび、考え込むようなしぐさを見せてから、コチョウは短く頷いて言った。
「お前等、この場所を、何だと思ってる?」
「何だとって……マザー・アリスが作り出した次元じゃ」
僕にはそうとしか答えられなかった。すると、コチョウが肩を震わせて笑った。
「さては馬鹿だな、お前」
見事に他人を馬鹿した笑い声が響く。コチョウはひとしきり笑うと、大きなため息を一つついた。
「これだけの規模の領域を作るとしたら、どのくらいのエネルギーが必要だと思ってる」
「じゃあ、アースウィルはもともとあったとでも言いたいのか?」
僕にはコチョウが何を言いたいのか分からなかった。見当違いだったかもしれないけれど、僕は精一杯自分に予想できる答えを口にした。
「少し違う。お前、アースウィルに、誰かがあとからシューカを持ち込んだと思ってるよな。例えば、私が」
そんな僕に、コチョウは満足そうに頷いてから、僕の頭の中を覗いたように僕の考えていたことを言い当てた。確かに僕はそうとして考えていなかったし、クリスタルもそんな風に言っていたような気がする。
「そこが、逆なんだよ」
「クリスタルが持ち込んだってこと?」
僕が聞くと、
「さては大馬鹿だな、お前」
怒られた。コチョウに怒られるのは流石に気分が悪い。
「誰が持ち込んだかはどうでも良い。問題は、シューカはここができる前からいたってことだ」
コチョウは口元を歪めて面白くなさそうに言った。
「それを核にしてアースウィルができた。言うなれば、繭だ。その意味は分かるか?」
意味するところは、つまり。
「近いうちに、羽化する?」
「やっと利口なとこを見せたか。そうだ」
頷く。コチョウは、そして、告げた。彼女の目的を。
「私は、それを阻止したい。アリスは、それを邪魔したから閉じ込めた。それだけだ」




