第六章 胡蝶の悪夢(5)
通路は石でも金属でもない不思議な素材で作られていて、壁は薄い灰緑色、天井は白く、床は黒に近い暗色で、どういう原理か天井から照明の白光が降り注いでいた。
通路には白い扉が並んでいる。扉にはノブのようなものは見当たらず、横にプレートを差し込む金属製のホルダーがあったけれど、すべて真っ白なプレートがはめられているだけで、何も書かれていなかった。
「何だか、不思議な施設ね」
不安そうに、僕のあとをシーヌが付いてくる。クリスタルと並んで歩く僕は、シーヌを振り返らずに頷いた。
何の施設なのか分からないものの、かなりの広さがあるように思えた。通路は長くまっすぐに遥か彼方まで続いていて、先が霞んで見えない程だった。
「モンスターの類はいませんし、安心してくださいと言えればよかったのですが」
クリスタルが苦々しい声で告げた。コチョウの侵入を防げない時点で、油断はできないと言いたいのだ。実際その通りなのだから、どうにも居心地は良くない。もっとも、それはクリスタルのせいではなく、この世の中に、コチョウの侵入を防げる場所などありはしないのだろう。
それは分かっていたのに。
それでもまだ僕はコチョウのことを甘く見ていたのかもしれなかった。常識とか、普通に考えたら、なんて言葉が通用する相手でないことが、僕にはまだ分かっていなかった。
僕達の背後に、突然、その小さなフェアリーの気配が生じるまで。
それでも何とか気配の出現と同時に反応でき、狙われていると咄嗟に把握できたシーヌを突き飛ばそうとして、僕の手は。
空を切った。
唐突にシーヌの影の中から突き出した青白い手が、僕がシーヌを突き飛ばすよりも早く、シーヌを素早く影の中に引きずり込んでしまったからだ。
コチョウが手にした不吉に鈍色に光る短刀も空を切り、しかし、体勢を崩すこともなく、床に残る影に次の一撃を突き立てようとして。
影はシーヌを飲み込むと掻き消え、コチョウの短刀は床にぶつかり、渇いた耳障りな音をあげただけで終わった。
「ちいっ」
と、吐き捨て、僕が聖神鋼の剣を抜く前に、空間に溶けるように姿を消した。
助かったと言えるのか。
分からないまま、僕は姿を消してしまったシーヌの身に何があったのかも理解できないまま、呆然と立ち尽くした。
そんな僕の前で、影は、もう一度黒々と元の場所に出現した。そして、一対の腕がシーヌをゆっくりと浮かび上がらせながら、伸びてきた。また先程の、青白い、女性的な手だ。
『ごきげんよう』
と、声がする。聞き覚えのある声だ。何処で聞いた声だったかと訝しんでから、ようやくその声の主に思い当たった。
「ひょっとして、君は、ネーラ?」
僕が思い出したのは、ネーレリアーネ、ブラックブラッドでシュリーヴェ達との戦いの後、どうなったのか分から分からなくなってしまったサキュバスのネーラだった。
『正解です』
声だけがするばかりで、姿は見せない。何故ここにいるのか、何故シーヌの影に潜んでいるのか、いつの間についてきていたのか、聞きたいことは山のようにあったのに、驚きのあまり、僕は声に出せないでいた。
「その。シーヌを庇ってくれて、ありがとう」
ひどく間抜けなことに、僕が話せたのはそれだけだった。
『いえ。というかごめんなさい。良かったのはその方を庇えたところまでで、あの……コチョウとかいうフェアリーが私に気付いていることも分かって、見えない筈なのに睨まれたのも分かって、怖くてまだ涙がボロボロ出て止まりません。ちょっと、顔を見られたくないので、このままで勘弁してください』
ネーラの言葉は、僕にも共感できるものだった。けれど、僕は彼女を一人にしておかない方が良いのだろうと感じ、その考えに、聞きたいことが山ほどあった筈だということは何処かに忘れてしまった。
「それなら、なおさら出てきて一緒にいよう。僕だってあのフェアリーは怖いんだ。恐怖を抱えたまま一人でいてはいけないと思うよ。きっとトラウマになってしまう」
『それは、そうなのですけどっ。こんな顔、人に見られた方がトラウマになってしまいそうでっ』
ネーラの声は上ずっていて、本気で困っているようだった。ひとによってはあまり他人に弱みを見せたがらないこともあるのだろう。僕は虐めている気分になって、それ以上出てくるように言うのをやめた。
「でも、君がいたことには正直驚いた。しかも、面識がない筈のシーヌの影にいるなんて」
『それは、その。スターティアの指示でして。あの戦いの最中、万が一の際の為には影にレイダークを匿うよう言われていたのですが……その、寝てしまって。気が付いたら見知らぬ地にいて私も驚いたのですが、レイダークは私の援護など必要なかったですし、タイミングを見て、まだ出番がありそうなシーヌの影で出て行くタイミングを待っていたのです。その、何もない時に、ただ出て行くなんて。その。格好悪いですし』
納得。だいたい思考パターンが理解できた気がする。この子は、とどのつまり、思考パターンは多分エレカの同類だ。深く考えるよりも直感で動くタイプということだ。
『あの、それと。私、少しだけ思考が読めるのですが。私は、サキュバスではないです。良く間違われますが、違います』
そう言って、ネーラは種族名を教えてくれた。
『私の種族は、あまり知られていないのでしょうか。私の種族は、エストリエ、といいます』
「エストリエ……知らない種族だな。どんな種族なの?」
僕はその種族を知らない。僕にだって知らない種族は沢山あって、ヌークであるシーヌのこともそうだけれど、そういった自分の知らない生物がすぐ近くにいたということは、大きな驚きで、世の中の不思議なように思えた。
『簡単に言えば、ヴァンパイアの亜種です。他者の血液を飲まなければ生きていけない面倒なモンスターです。エストリエには女しかおらず、男はいません。私達は常に単独で、他のエストリエやヴァンパイアは自分の狩場を荒らす敵なので、共同生活などということはほとんどしません。事実、私も、自分がどうやって生まれたのか知りません。私は気付いた時には既にエストリエで、一人でした。それでも私は孤独が怖く、弱かった。私はメレールに庇護を求め、仕えました。そして、配下の魔女の血を彼女から貰い、生きながらえていました』
ヴァンパイアの亜種と聞いて、少し心配になる。飢えてはいないのだろうか。
「え? じゃあ、今はどうしているの? 大丈夫?」
僕が尋ねると、しばらく無言が返って来た。本気で心配になるから黙り込むのはできたらやめてほしい。
「本当、大丈夫なのか?」
『すみません。その。正直に言います。大丈夫じゃないです』
駄目だった。何とかしなくては。多分聖騎士である僕の血は吸血鬼にとっては毒に近いだろう。聖職者の血液は、聖水に等しい為だ。かといってシーヌの血を飲むことを許すこともできない。僕が困っていると、クリスタルが、助け舟を出してくれた。
「一般的に言う血液の成分が接種できれば良いのであれば、人工血液を合成することが可能ですが、必要でしょうか」
「ああ、うん。ありがとう。お願いできるかな。ネーラ、恥ずかしいとか言っている場合じゃない。今すぐ出てきてくれないか。手遅れになる前に」
クリスタルの提案が心底有難い。僕は少しばかり語気を荒げてネーラを叱るようにお願いをした。影の中で空腹のあまり倒れられても助けてあげることができない。
「はい、すみません」
シーヌの影の中から、青白い女性の姿が浮き上がってくる。その顔はひどくやつれていて、本来は美しいのだろう長い黒髪には潤いがなく、暗い紫色の瞳をした目には見るからに元気がなかった。歩くのもままならなそうな程ふらついていて、明らかに危険な状態だった。
背中には悪魔的な黒い翼が生えているけれど、よく見ると、サキュバスと違い、ネーラの頭には角はなかった。
「こんなになるまで隠れていたら駄目じゃないか。死んでしまう!」
予想以上にひどい状態で、僕は本気で声を荒げてしまった。ネーラは申し訳なさそうに笑うと、
「聖騎士の一行に血液を飲まないといけない悪魔が混ざる訳には、いかないでしょうに」
そんな風に反論してから、ついに倒れた。ギリギリの状態だったのかもしれない。僕はネーラに駆け寄ってまず支えてから、抱きかかえてクリスタルに頷いた。
「ごめん、大至急血液がいるみたいだ」
何と言って良いものか分からなかったから、思った通りをクリスタルに伝えることにした。クリスタルも何かを言いかけたけれど、結局何も言わずに頷いただけだった。




