第六章 胡蝶の悪夢(4)
「おそらく、同じヌークが継ぐ以上に、ヌークの力を満足に扱える者はいないよ。その意味は、私にも分かってる。アースウィルにいるヌークは、間違いなく私だけだってことは」
目に涙を溜めながら話すシーヌは、随分前に何処かで見たことがあるような顔をしていた。ああ、そうだ、と、僕は記憶の中からその目に気付いた。まだ彼女が聖女であろうとしていた頃の目だった。
「エレカ、お願いね」
そして、その視線の先は僕ではなかった。まっすぐにエレカを見つめていて、まるでこれから起こることは僕の戦いではないのだと物語っているように、シーヌはただ静かに言葉を紡いだ。
「私は私に出来る努力をするから。アリスから預かった力を、自分のものとして使えるように、アリスの園に籠り、精一杯の訓練をしてくるから。エレカ、シューカの退治は、あなたにお願いをしたいの。それがアリスの願いだったのはもう分かってると思うけど、私からも、お願いしたいの」
「でも、それで……いえ、他の現実的な選択肢の候補も思いつかないのに、軽はずみに、他にも適任者はいる“かもしれない”なんてあやふやな理由で、あなたの意志を疑うべきじゃありませんね。はい……だから、私の答えは、これだけにしておきます……分かりました。シューカは、任せてください」
エレカは、シーヌの身を案じて、彼女の決断が早計でないかと言いかけて、途中でその言葉を飲み込んだ。他に希望を探すことは可能かもしれない。けれど、今ここにその選択肢のひとつはあって、本人がそれを、おっかなびっくりではあるけれど、受け入れようとしているのだ。他の人間が、その覚悟を試すような真似はきっと残酷なことなのだろうと、僕も思う。
「ありがとう」
シーヌは泣きながら笑った。
「それで、ラルフ。あなたには、ある意味、一番つらくて、一番面倒臭いことをお願いしたいの。あなたにしかお願いできないことだよ」
「話して」
僕は頷いた。僕ができることであれば、何でもしようと思った。
「ありがとう。私も、ほら、他人のことを考えられる余裕なんて、本当はなくてね。自分自身のことだってまだ直視できていないのに。私なんかで務まるかも含めて。全部、怖くて。だから、私がちゃんと覚悟を決められるように、私の話、聞いてくれる?」
ほかならぬシーヌの頼みであれば、そんなことで良ければ断らない理由はない。僕は当然の如く頷いた。
「勿論。たぶん僕には話を聞く以上のことはしてあげられないけれど、君の気が晴れるまで、聞くだけなら僕にも出来ると思う」
逆に、シーヌが僕以外の誰かにそれを頼んだとしたら、それはそれでショックだ。なんとなくそういう役目ではないかと思っていたのは確かで、でもそれは言わないでおいた。
「ありがとう。あなたが断ることはないって分かっていても、不安だった。その言葉だけでちょっと安心できたかも」
いずれにせよ、クリスタルのドームにこれ以上留まるのは彼女にも迷惑だろう。まずは場所を変える必要がある。
「エレカ、僕達は一旦アリスの園に引くよ。君達は、どうする? 自分で亜空間の出入りはできそう?」
「何とかします。私も自分ができる限りを尽くします」
エレカはそう言うけれど。
僕は彼女の意思を試している訳ではない。現実問題を聞いているのだ。意志の力で出来るなら理想なのは確かだ。けれど世の中そんなにうまくできてはいないことも分かっている。
「それで本当に何とかなる? 試したけど駄目でした、は許されないよ。きちんと考えた方が良い」
「分かってます。インビンシブルは私にも素質があると言いました。それならできる筈です。シーヌ様がマザー・アリスの力を扱えるようにならなければならないのと同じです」
言われてみればその通りだ。それはシーヌも同じで、負けることが許されない賭けであることに変わりはない。絶対の約束はできなくても、絶対の努力をするしかないのだろう。僕はそれ以上言わないことにした。
「エレカ、念のため確認するけれど、一旦メルサーグに向かい、マリオネッツ本隊と共にシューカの討伐に向かうつもりってことで良いよね」
代わりに、エレカの行動を確認しておく。無茶をされるのも困る。
「はい、勿論です。私も単独突撃はしません」
エレカは頷いた。そういうのであれば、嘘はないだろう。安心してエレカに任せられる。
エレカとの会話を打ち切った僕は、チリッカ、ルイーザ、オリビアに視線を向けて、
「君達もエレカと共にシューカ討伐に回ってくれ。まだメルサーグの問題が収束していない場合、早期に解決させるために、兵数は一兵でも多い方が良い」
シーヌの護衛でなく、マリオネッツの本隊への合流を頼んだ。マリオネッツはすべてエレカの方に投入すべきだ。
「承知、しました」
チリッカは反論せず、すぐに頷いた。彼女達も状況は冷静に受け止めているようだ。本当に彼女達の、成すべきを成し、果たすべきを果たそうとする態度は頼もしく感じる。
「頼んだ」
僕はエそれだけもう一度告げて、それから、シーヌに視線を戻した。
「シーヌ。君の話を聞く前に、少しだけ待っていてもらえるだろうか。クリスタルに幾つか聞いておきたいことがあるんだ。いいだろうか?」
「ええ、大丈夫。待てるよ。私も聞いていてもいい?」
構わないと言えば構わないけれど。僕は返答に困った。また昏倒されては心配だ。
「クリスタルとコチョウについての話だから、君はまた気絶してしまうかもしれないよ」
「ああ、そういうこと。分かった。私は離れて聞かないようにしとく。ちょっと私はこれ以上その二人の話に関わると、心臓が止まってしまいそう」
シーヌは笑った。
僕を見る目が濡れていて、何か目に見えない隔たりに遮られたようで、僕と彼女の間に、シーヌが今、明らかに壁を置いたのだと分かった。僕の世界と彼女の世界は、少しずつ広さがずれ始めていて、僕にも、彼女がもうこちら側には来られないのだと確信した。僕にはそれがとても辛かった。シーヌは、きっと、僕と同じ宇宙の広さを抱えて歩くことはできないのだろう。
それでも僕は、歩くことをやめることはできない。あの日、キースやカーニムと一緒に、僕達の次元宇宙を襲う脅威の正体を知った時、僕はその危機に打ち勝とうという意志を抱えて歩き始めてしまったのだから。
「ありがとう」
とても寂しかったけれど、僕は泣くことはできなかった。泣く訳にいかなかったからではなかった。僕は、はじめて、自分が泣き方を思い出せないことに気が付いた。
「僕は、まだコボルドなのだろうか」
つぶやいて。
その答えは僕には分からなかった。たぶん誰にも分からなかった。僕の世界の広さが変わってしまったということは、つまるところは、僕自身が変わり始めてしまったのだということなのは確かだった。
ルインズバース。
そして。
思い出した。エターバース。
二人の名前を受け止めたことで、僕は何者かに変わりはじめようとしていて。僕の行き着く先は何なのかは、まだ分からなかった。
ドームの中を眺めまわす。
エレカはアースウィルへ帰還するゲートを自力で開こうとしていて、二、三回安定させられず消滅させてしまうことを繰り返してから、四回目で、歪ながらどうにか潜り抜けられるゲートを完成させていた。
「なんとか、頑張ります。先に、行きますね」
エレカは僕達にそう告げて、ミシル、クウ、チリッカ、ルイーザ、オリビアを連れてゲートの中へ消えて行った。エレカなら、持ち前の負けん気で、立派にやり遂げるだろう。
彼女達がゲートに消え、ゲートも消滅すると、僕はシーヌと距離を置き、クリスタルの名前を、本来呼ぶべき名前で、呼んだ。
「エターバース。今後もルインズバースの妨害は入るだろう。出来るだけ情報を持っておきたい。二人について、君の話を聞かせてくれるだろうか」
「分かりました。こちらへ。あなたの存在が、私達にもたらすものも一緒に、お話します」
かつてクリスタルと呼ばれていたエターバースは頷き、僕をドームの中央の転送装置ではなく、他の壁と何の変りも見えない、壁の一角に促した。そして、彼女は壁の表面に手を触れて。
「どうぞ」
壁の一部がスライドし、奥へと続く通路が出現した。シーヌをただ一人ドームに残すことには不安があり、僕は躊躇ってシーヌを振り返った。
「あなたも、こちらへ」
クリスタルが、シーヌを呼んだのは、丁度同時だった。




