第一章 女神の失踪(7)
エレカが出て行ったあと、僕は村人の呪いの除去に乗り出そうとして、チリッカに止められた。彼女が言うには、
「主殿は、シーヌ様と、共にいてあげてください。呪いの除去であれば、マリオネッツを、何人か、出動させて、いただくだけで、結構です」
シーヌが休まらないから僕も休んでいてくれと言われた。確かにそうかもしれない。僕もその言葉に甘えることにした。
ようやく暇ができた僕は、カルドにシーヌと二人だけで落ち着ける場所を用意してもらった。丁度空き家があると言うので、そこを借りることにする。村人に案内されたそこは、家というよりも小屋と呼んだ方が適切かもしれないくらいの、とても粗末な木造の建屋だった。
中に入ると、家財道具などの生活感はそのままに、住人だけがいなくなったといった風だった。住人はどうしたのかは、おそらく聞かない方が良いのだろう。魔物が狂暴化しているような時勢だ。何となく想像はつく。
簡素なテーブルにシーヌと向かい合って座る。チリッカ、ルイーザ、オリビアは気を利かせて家の外で番をすると言って席を外してくれた。
「なかなか落ち着いた時間が取れなくて、ゆっくりと話もできなかったね。ごめんよ」
シーヌに謝ってから、僕は成熟した彼女の顔を改めてまじまじと見た。
もはや鯰人間という形容は適切ではない、鱗はないながら、竜だということを疑いようもない顔だ。水色で、柔らかそうな角のような突起が並んでいる。カーニムの宮殿で見た時には気付かなかったけれど、両目の上にうっすらと青緑色めいた筋のような模様があった。随分印象が変わったな、というのが正直な感想だった。
「こんなに早くあの場所に迎えに行けるとは僕も思っていなかったな」
「そうなんだ」
シーヌはうっすらと笑った。
「あなたからすると、どのくらいの時間が経っているの?」
「一年と、ちょっとかな」
長いと言えば、長い。それでも僕は、彼女を助け出せる機会は、あまりにも僕とは違いすぎたあの僕になれるまで訪れないのだと思っていたのだ。そうではなかったことに驚いたし、幸運を感じている。
「そう。私からしても、そんなに長い時間ではないけど、でも、その間に、あなたがどんな体験をして、どんな時間を過ごしてきたのかを、知らないっていうのは、ちょっと残念かな」
シーヌの言葉に、僕も彼女と逸れてからのことを思い返してみた。ほとんどの時間が、蜥蜴になってミミリと暮らしていたものだ。シーヌがもし一緒だったら、別の結果になっていたのだろうか。
「どうだろう。事実そうはならなかったのだから、もしもの話を考えても仕方がないのかもしれない」
それよりも、心配なのはシーヌ本人の心身のことだ。諄いようだけれど、あれから時間が過ぎている僕とは違い、シーヌはレインカースでの逆境の日々の、すぐ地続きの時間にいる。そのことを忘れてはならなかった。
「僕のことは良いんだ。それよりも君のことだよ、シーヌ。落ち着いているように見えるけれど、君の心をレインカースや狭間の空間に置き去りにする訳にはいかない」
「そうね。でも私、レインカースがどうなったかには興味がないよ。ここがレインカースでないことは分かり切ってるし、なら私はレインカースを出たってことでしょう。そして私は絶対あそこには、もう、戻るつもりはないよ。ガーデンがどうなろうと、私はどうでもいい」
シーヌはそんな風に語った。その顔は何の感情もない無表情で、おそらく自分が置かれている未知の状況を、激変した環境を、傷つき疲れ果てていた彼女の心が受け止めきれていないのだろうと僕は感じた。やはりだ、と、思う。
「そんなことは僕もどうでもいい。どうでもいいなんて言ったらエレサリアに怒られそうだけど、今はどうでもいい。心配なのは君のことだけだ」
僕は頷いた。
「こんな状況は君の知識にはないことで、君の知っている世界の果ては破れてしまった。君はそこから飛び出してしまっていて、理解が追い付けていない筈だ。それを受け止められるだけの余裕が君の心にあるとは思えないし、ただ流されるままに未知の世界を歩くことが君の心を癒してくれることだとも思えない。だから、僕ができる限りのことはするつもりではいる」
でも。正直、僕はどこまであの時の思いを覚えているのだろう。僕の目の前には大きな、とても大きな問題が広がってしまって、そのことに目を奪われて、シーヌがどんなに傷ついていたのかを、正しく思い出すことができていないなんてことはないだろうか。背筋を凍り付かせるような不安が纏わりつく。
「けれど、君が言う通り、僕の時間は先に進んでしまった。だから君には僕が正面から君が見えていないように感じられるかもしれない。それは僕の至らなさが原因だけれど、あの時に覚えた僕の感情はあの時のもので、思い出すことはできるのだろうけれど、今僕が君にあげられるのは、また少し違った感情になってしまうのだろうと思う。それでも良いと君は言ってくれるだろうか。僕がまた君を助けても良いと言ってくれるのだろうか」
僕は正直に話した。
「正直、分からない」
と、シーヌも笑った。複雑そうに。僕があの時シーヌと逸れてしまった僕のままではないということは、何となく彼女も感じているようで、逸れてから何日も経っていない彼女の時間では、それがとても不自然で、うまく順応できていないことが良く分かった。
「あなたと私の時間のずれが、私とあなたに何をもたらしたのかは、私にも分からないよ。でも今現実に、私にはあなたしか頼れるひとがいない。放り出されたら、とても困る。それは確か」
「それはそうだ。不測の事態でもない限り、今度こそ無責任に放り出したりはしないよ。それは約束する」
シーヌには寄る辺がない。所持金もない。今、単独で放り出したら、文字通り路頭に迷うのだ。こんなところまで連れてきたのは僕なのだから、そうさせない責任が、僕にはあった。
「そうだよね。あなたはそんなことはしない。そこは信用してる」
シーヌが頷く。彼女はそれから、静かに現在の心境を吐露しはじめた。
「はっきり言うと、戸惑ってる。頭はぐちゃぐちゃで、自分の感情も整理できないよ。だってそうでしょう。あなたの周りには神様だとか、神代の英雄とか、何だか錚々たる顔ぶれがあって、そんな顔ぶれが、あなたに女神様を助けてやってほしいとかいう話をしてて、あなたはそのことに疑問も持ってなくて、私からしたら、あなたは今何をしてるの、って、それしか考えられないよ」
「そうか。うん、そうかも。難しいな。君に聞かせるべき話なのか、そうでないのか。僕の現在がどんな状況で、何に立ち向かおうとしているのか、いや、君には知らせておかないとならないのだろう」
僕は少し悩んでから、シーヌに説明することに決めた。彼女は今すぐに一人去ることはできないし、そうなると僕が抱えたものを秘密にしておくのは、かえって彼女にとって危険だろう。
「僕達が狭間の空間で見た、炎の巨人を覚えている?」
「ええ。きっとあなたよりも鮮明にね」
覚えているどころの問題ではないと言いたげに、シーヌは不満そうに答えた。よほど怖かったのだろう。
でも、そのことは一旦話の本筋が逸れてしまうから、僕は反応しないことにした。
「あれは、放っておくと僕達の次元宇宙を破滅させる魔神のひとりだ。名前はダーゴス。あの時、僕達が出会ったコボルドが、つまり、僕があの魔神と戦っていたことが証明しているように、僕はその全次元宇宙規模の脅威に立ち向かわなければならない。そして、彼等がもたらす、破滅に立ち向かえるよう、僕達の次元宇宙の備えを広めなければならない。その備えはもちろん僕が成し遂げられることではないし、それは神様であるカーニムが主体になるだろう。僕ができるのは、脅威を助長しそうな問題を抱えた次元に直接赴いて、その問題の種を取り除くことだ」
「良く分からない。何故あなたなの?」
シーヌは首をひねった。確かに僕は最弱クラスのモンスター種族で、それは今も変わっていないけれど、でもそれは最早理由にならなかった。
「何故だろう。それは僕にも分からないよ。でも僕は、見て見ぬ振りもできなかった。だから強いて言えば、僕がそう選択しただけだ」
僕はシーヌの疑問に返せるのは、そういった答えだった。僕はただ、そうしたいと思ったから、そうするだけだ。
「神様の世界の英雄にでもなるの?」
シーヌは首を振るばかりだ。でも、僕にはこう答えるしかなかった。
「それは僕のあずかり知らぬことだよ」
「ちょっと泣きたくなってきた」
シーヌはただ、ため息をつくだけだった。
「君と逸れた時、僕はもっと泣いたよ」
僕はそう言って笑ってみせた。
「そして、今一緒にいることに涙が出そうだ」
「そっか」
安心したように、シーヌも笑った。