第四章 狂乱(2)
スターティアの話はこうだ。
「ノセルの悪意とは、器に入った力のエッセンスです。そこにいるノセルは器を隠すための幻影なのです。そして、器の中に入ったエッセンスは、ノセルの破壊の力そのものなのです。つまりは、破壊の軍勢を従える力です。それがかつて神代の時代に神軍や善神と激しい戦いを繰り広げた神殺しの力なのです」
なるほど。だとしたら器ごと屋敷から出せば、ノセルの悪意の影響はなくなるという訳だ。僕はノセルの幻影に歩み寄り、その中にあるだろう器を探して手をのばした。
「貴様、どこまで俺を愚弄するのだ。もはや許さん。貴様の思い通りにさせるものか」
ノセルの幻影の声に不快な気配を感じて、僕は半歩下がった。ノセルの幻影は醜悪な笑みを浮かべ、言った。
「貴様が拒否する俺の力を無理矢理植え付けてやろう。ここまで辿り着いた者が手にする褒美だ、受け取れ」
勝手に決めないでほしいものだが、そうも言っていられない。
ノセルの幻影が消える。
絶対に穏やかなものではない濃い紫色をした靄が入った、透明な球形の器が見えた。そしてそれが、勝手に割れる。
僕めがけて飛んで来る紫のもやを、僕は聖神鋼の剣を抜いて斬った。靄はたじろいだように遠ざかり、それからもう一度僕の方に移動を始める。
剣を振り上げ、僕は再度靄に斬りかかる。
「待って。斬らないで!」
突然靄から上がった声に、僕は驚いて剣を止めた。
「喋ったんだけど」
アラニスとスターティアに、僕は困惑して視線を向けた。もはや訳が分からない。
「ただの力ではなかったの、これ。何故意思を持っているの?」
《おばちゃんも初めて見たし、知らないよ》
そうか、確かにアラニスはノセルにもそう言っていた。アラニスが知っている筈がない。
「いえ、わたくしも、それ自体が意思を持っているとは、存じ上げませんでした」
スターティアも困惑しているようだ。こうなったら本人に聞いてみるしかない。僕は剣を降ろして尋ねた。
「君は誰だ」
「おいら、プリック。ノセルの悪意に同化している小悪魔だ。話を聞いてほしい」
靄はそう名乗って僕の前で止まった。プリックと名乗った声はまだ子供のようで、なんとなく、僕も警戒心を削がれた。
けれど。
完全に気を許したわけではない。一瞬の隙をついてまとわりつこうとしてくる靄を、僕は半歩下がり、剣を横薙ぎに振り抜いた。靄も斬撃を避けてまた後退する。
「チッ、失敗か」
舌もない靄の癖に舌打ちをしてくる。曲がりなりにもノセルの悪意と呼ばれているものだ。信用ならない可能性は十分に想像がついていた。案の定だ。
「おまえ、聖騎士の癖に他人を信じる心っていうものはないのか」
ひとを騙そうとした悪意に言われる筋合いはない。僕は靄を睨みつけ、
「信じてもらいたければ、それなりの振舞いをするものだ。他人の善意を試すような奴が信用されることはない」
吐き捨てると、ノセルの悪意に刃を向けた。やはりこんなものは世のためにならない。何か器の代わりになるものがあれば封印できるひとを探すのだけれど。
「悪いけど時間を掛けたくない。おとなしく斬られるか、自分から何か器にとびこむかしてくれ」
実のところ心配なこともあった。スターティアのことだ。ネビロスの指輪の時のこともある。スターティアの目の前にこんなものをちらつかせておきたくなかった。
けれど。
「レイダーク様」
スターティアの方から歩いてくる。でもそれは僕の予想した目的の行動ではなかった。
「これを。今作り出した急造りですが、ノセルの悪意を閉じ込めておくことくらいはできます」
そう言って、小瓶を僕に差し出した。
今は盾は必要ない。僕は盾を背負うと小瓶を受け取った。
「ありがとう」
「いいえ。わたくしも考えたのです。指輪の一件で自分がどれほどに危険な考え方であったか、良く分かりました。そして、今対峙してレイダーク様がおっしゃることがようやく理解できました。あれはわたくしたちの手に負える代物ではありませんね」
スターティアは頷いた。分かってくれて僕も嬉しかった。
「そういうことだよ。こんな危険な力に頼ってはいけないし、頼りになるとも思えない」
そして、靄を見ながら言った。
「アラニス、君はこれが僕のものだと言ったけれど、本当に僕がこんなものを欲しがると思ったの? だとしたらがっかりなんだけど」
《うんにゃ。あんたはいらないって言うだろうと思ってたよ。けどね、ラルフ、あんたに必要な力なんだ。今回ばかりは、この力がいるんだ。気に入らないのは分かるけどさ、おばちゃんの顔を立てちゃくれないかい。たぶんあんたにしか、この力を預けておけない気がするんだ》
アラニスの言葉の意味が理解できない。けれど理解しなければいけないのだろう。
《思い出してもごらんよ。五魔神が襲撃してくる前に何が起きるか聞いただろう?》
全次元世界規模での、五魔神の軍勢の侵攻。なるほど、そういうことか。僕達には、少しでも戦力がいるのだ。でも。
「悪神軍が人々を守るとは思えない。無差別殺戮に及んでも、僕は驚かないな」
《生半可な手綱じゃそうなるだろうさ。だからあんたが手綱を握るんだよ、思い出せ、あんたは誰だ、聖騎士レイダーク。ほらずっと前のことだ、あんたは、あんたの国の、国王陛下から、なんて言われた。あんたはそれになんて答えた。おばちゃん何でも知ってるんだからね》
アラニスそう言われて、
「でもそれはあくまで人々に友好的なモンスターの話だ。悪神軍はとても友好的とは程遠いはずだ」
僕は首を振った。その枠に悪神軍を含めるのは危険すぎる。
《馬鹿だね》
と、叱られた。
《悪神軍なんてただの兵隊たちだよ。上に立つ者の規律の取り方次第でどうとでも転ぶのさ。だから、思い出しなよ。あんたは最初から人間に友好的だったかい?》
そうかもしれない。
確かにその通りだ。僕は人間の村を襲っているコボルドの群れの一匹だった。スターティアだってそうだ。彼女は善悪で言えば、悪なのだ。でも彼女は僕を心配してくれる。エレカを心配してくれる。そういうものなのかもしれない。
「いいだろう、破壊のための軍を、破壊させないために使ってみようじゃないか」
僕は剣を収めて、紫の靄に手を伸ばした。
「やだね」
今度は逆に靄が逃げる。随分気まぐれな奴だ。何か気に食わないらしい。
「おいらだってプライドがある。そんな上から目線で言われて、チカラ貸してやるもんか」
さっきすごい情けなく命乞いした癖によく言う。僕は思わず吹き出して笑った。思ったより悪い奴でもないのかもしれない。
「なあ、プリック」
僕は声を掛けた。
「それなら、力を貸してくれなくてもいい。ただ」
「ただ、なんだよ?」
紫の靄は戸惑ったような声を上げた。僕はその様子がおかしくて、また声を上げて笑った。
「ただ、友達になろう」
「なんでそうなるんだよ。訳分からないこと言うなよ」
まったく理解できないと言いたげに、プリックは怒った声を上げる。けれど本気で怒った声ではなかった。だから僕はプリックの怒りを無視して続ける。
「君はその靄の姿しかないのか? もし人型の姿も取れるなら、一緒に行かないか。たまに旨いものを食べて、気に入らない奴をぶちのめして、馬鹿なことを言い合いながら歩くんだ。きっと楽しいよ」
「ふざけんな。ひとの話を聞けよ。勝手に話を進めんな。ま、おいらも人型とるくらいは余裕だけどさ。だからって、そんな誘いでお前についてくほど安かないからな」
紫の霧は、ゆっくりと人の形をとり、身長二〇センチくらいの生き物になった。黒いコートを纏った、ちょうど黒い男版のマリオネッツのような姿をしている。仮面はつけていなかった。
「僕に憑こうとした割に、ついてくるのは嫌なんだな」
僕が首をひねると、
「おいらがとり憑くのはいいんだ。お前が主導権を握るのは絶対嫌だ」
プリックは手足をぶんぶんと振って反論する。なるほど、気持ちは良く分かる。ただ、誤解をしているのは解いておきたい。
「主導権なんて握らないよ。君がしたくないことはしなくていい。気が向いたら気が向くように手伝ってくれたらうれしいけど、それだけだ。何もしたくなければ何もしなくていい。人様に迷惑を掛けたら、流石にちょっと懲らしめるけれど、その程度だ」
「本当か? いるだけで飯が食えるのか?」
プリックが興味を示してくれた。それでいい。僕は頷いた。
「勿論。人様の迷惑にならない限り、僕はなにも強制しない。君が良いと言わない限りね」
「それなら一緒にいてやってもいい。喜べ、おいらも行ってやる」
プリックは横柄そうな態度をとりながらも、どこか嬉しそうだった。そして、彼がそう告げた瞬間。
僕達は石造りの地下室に立っていた。