第三章 迷宮(4)
ゲートを抜けると、ヴリュが暴れている姿がすぐに見つからなかった。奥の方から、何かが這いずるような、不快な音が時折聞こえる。
僕のつま先が何かを蹴った。
マリオネッツが使用している盾だった。
まさか。
背筋が凍り付く。
盾を拾い上げて、僕は奥へ向かった。暗闇の向こうに、少しずつヴリュの姿が見えてくる。向こうを向いて、じっとしている。僕が近づいても反応しなかった。
足元が濡れている。血だ。夥しい血だ。血だまりの中で何かが動く。小さな、小さな姿が見える。
「ううう、洗いたい……」
泣きそうな声が、響いた。
「エレカ?」
声を掛けると。小さな影はこちらを振り向いた。真っ赤に染まっている。
「ラルフ様、ごめんなさい」
謝罪の言葉。エレカはふらつきながら起き上がった。頭の天辺から、足の先まで、血で染まっている。エレカはよろけて尻餅をついて、もう一度、
「ごめんなさい」
と言った。
そして。
「自分に毒が効かないの、忘れていました」
次に飛び出したのは、そんな一言だった。考えてみれば、マリオネッツは神兵だ。毒や病気に冒されることがなくても不思議はなかった。
ヴリュが這いずって逃げようとしたことが、床にできた血の筋で分かる。ヴリュは腹を真っ二つに裂かれて、動かなくなっていた。
「エレカが倒したの? ひとりで?」
「もちろん。忘れないでくださいよ。私だって神兵です」
でも返り血でどろどろ、と、エレカは笑った。何と言っていいか分からない。あまりの驚きと、無事で良かったという安堵で、僕の口からは変な音の息が漏れただけだった。
「あっちに盾が落ちていたからてっきり。驚かせないでくれ」
「だってこいつ動きが早すぎるから少しでも身軽にしたかったんです。盾って時々邪魔なんですよう」
また放り出したのか。武装の扱いが雑な子だ。思わず吹き出して笑ってしまう。とはいえ、のんびり笑っている場合でもない。返り血まみれのままは可哀想だ。
「うーん、水袋の水で足りるかな」
「大丈夫です。私達は浄化の特殊能力がありますから、自分で返り血を洗えます」
そういうと、エレカは頭上に光の輪を出現させて、それを潜るように舞い上がった。
輪を抜けた部分から。返り血が消えていく。
「本来は呪いとか、毒素とか、そういう害のあるものを綺麗に落とすためのものなんですが、もっぱら泥落としとかに使用することの方が多いです」
きれいさっぱり返り血が消えると、エレカは僕の頭の上に戻って来た。それから、心配そうな顔で聞いてきた。
「そんなことより、スターティア様は大丈夫なんですか?」
「毒は消したよ。いま、マリオネッツたちに治癒をお願いしている」
頷いて答える。全くもって、今回の探索は厄介な罠や敵ばかりだ。これほどてこずる探索は今までなかった。
「僕がもっとしっかりしないとな」
本当に今回は反省することが多い。僕はため息をついて、気持ちを切り替えた。
「一回向こう側へ戻ろう。僕もスターティアが心配だ」
「はい」
頷くエレカに盾を返す。そして、僕はもう一度ゲートを戻った。
ゲートを戻ると、スターティアは上半身を起こして座っていた。まだ無理はさせられそうにないけれど、顔色はだいぶ良くなっている。
「災難だったね」
声を掛けると、
「良いところがなくて、申し訳ないばかりです。面目次第もございません」
恥ずかしそうに、スターティアは笑った。
「少し休めば大丈夫です。ですが、わたくしもキースとここで待つことにいたします。エレカ、レイダーク様をよろしくお願いいたします」
「本当にエレカがいなかったら今頃進めていなかったかもしれない。ヴリュはエレカが倒してくれたよ」
世話になりっぱなしだ。今日まで見習いだったエレカに頼りっきりなのだから自分でも少し情けない。
「そうだね、スターティアはゆっくり休んでいて。無理に追いかけてこないようにね。もし力が必要になったらガーネットで呼ぶから」
僕はスターティアにそう告げ、
「すまない。スターティアを頼んでいいかな?」
キースやマリオネッツたちにスターティアを任せることにした。キースは頷いてくれた。
「僕は問題ないよ」
「私達も異論在りません。主殿の頼みとあれば、是非もございません」
マリオネッツたちは、僕の決断には従うといった風の答えだった。僕としては、僕の決定に従うだけでなく、異論があれば言ってほしいのだけれど、彼女たちにそれを求めるのはおそらく酷なのだろう。
「うん、よろしく頼む」
僕はエレカを連れて先に進んだ。ゲートを抜け、ヴリュの死体を横目に奥へ向かう。この先も厄介なモンスターと遭遇するのだろうか。まさしく悪意を感じた。
広間の奥には、三個のゲートが横一列に並んでいる。エレカは一つ一つをつぶさに観察し、
「右です。あとは罠です」
と、教えてくれた。僕には全く同じようなゲートにしか見えない。本当にエレカがいてくれることに感謝した。
エレカが教えてくれたゲートを抜けると、ゲートの先はまっすぐに続く通路だった。左右に五個ずつ扉が並んでいて、通路の突き当りにも扉がある。あからさまに嫌な予感がした。
「扉から何かが飛び出してきて囲まれるんだろうな、これ」
ため息しか出なかった。
「そうでしょうね」
エレカも同じ感想のようだった。
試しに左側、一番手前の扉を調べる。罠はないけれど、開きもしない。鍵穴はなく、仕掛け扉のようだ。床を見回すけれど、圧力版のようなものがあるようには思えない。物理的な罠ではないようだ。ということは、避けようがないということだ。
「面倒な探索につきあわせてごめん」
僕はエレカに先に謝っておいた。全くもって殺意と悪意に満ちた場所だ。
「いえ、任せてください。ラルフ様はここで待っていてください。危ないと思ったらゲートを抜けて退避をお願いします」
エレカが首を振って、僕の頭の上から飛びたった。彼女の顔に、自信と覚悟が浮かんでいる。
「私が先行して、仕掛けを作動させます。飛んで頭上をすり抜けられる私の方が、囲まれても脱出しやすいですから」
「いや、扉に注意を引き付けておいて、別の場所に仕掛けがある可能性も捨てきれない。ここは分かれずに行動しよう」
見た目通り扉から敵が飛び出してくるのならそれでいいけれど、扉はフェイクだと個別に行動するのはかえって危険だ。僕はエレカの決断を止めた。
「なるほど……確かに。勉強になります」
エレカは戻って来た。僕は剣と盾を構え、警戒しながら進んだ。エレカも警戒しながら、僕の頭上に浮いている。
一歩、二歩、三歩……最初の扉を過ぎる。何も起こらない。
続いて二番目の扉の前を通り過ぎる。変化はなかった。そして、三番目の扉の前に差し掛かった時。
「エレカ!」
僕はエレカの小さな体を掴み、庇うように丸まって身を沈めた。その背中の上すれすれを、通路の幅いっぱいに一列に並んだ振り子式の刃が通り過ぎていく。仕掛けはやはり扉ではなく天井にあった。一定の場所を、一定の大きさのものが通他すると作動する、魔法感知式の仕掛けだ。僕は次の刃は降ってくる前に、転がるように身を沈めたまま、奥の扉の前まで駆け抜けた。
「ありがとうございます」
エレカは強張った顔で言った。いくら強いとはいっても、あんなものに当たったら、エレカの大きさを考えれば無事では済まなかっただろう。
「お互い危ないところだったね。流石にヒヤッとしたよ」
扉を見る。この意地悪さならと思ったけれど、案の定、扉には罠があった。ノブを回すと爆発する仕掛けだ。この手の罠は解除途中に誤って作動させてしまいやすく、解除が厄介だ。
僕は細心の注意を払ってドアノブとプレートを外した。ドアノブを回すと歯車が回り、それがシャフトを押して、混ぜると発火する二種類の火薬の間の仕切りを落とす仕掛けだ。こういった仕掛けの場合、構造は単純でも、簡単な無効化方法というものがない。どのパーツを触っても、ほんの少しのミスで爆発してしまうからだ。そこで僕は解除を諦めることにした。ドアを閉めている爪のほうをいじってドアを開けてしまえばいい。
勿論仕掛けを触ってしまわないように細心の注意は必要だけれど、ドアノブを外すことを考えればずっと楽だった。
扉が開く。爆発はしなかった。