第二章 悪意(3)
廊下を歩きながら、僕はキースにこれからどこへ向かえばいいのかを確認した。
「屋敷の悪魔をおとなしくさせるにはどうしたらいいのかな」
「地下に向かう必要がある。実際、現状、地下がどんな構造になっているかは、僕にも分からない。おそらく屋敷の悪魔そのものが改造していると思うし、妨害も相当入るだろう。また、これだけの支配力を発揮するのには、相当の力を持った何かを吸収、同化したのではないかと思う。それを探せば、おそらくそれが心臓部だ」
キースの回答に、僕はひとつだけ思い当たるものを思い出した。
「ノセルの悪意かもしれない。メレールが隠し持っているはずの悪神の呪物なんだ。だとしたら、下手に破壊するのは危険だな」
「厄介だね」
キースも同意見だと言った。
「少なくとも地上階は僕が覚えているままのようだ。地下に降りる階段は分かる。案内しよう」
キースの案内に従い、僕とスターティアは地下への階段に続く廊下を歩いた。その途中で不意に小さな影が行く手を遮る。悪魔的なフォルムの、僕よりも体が小さい生き物。崩れた地下迷宮で僕が厄介になっていたインプたちの中の一人だった。
「だんなぁ。ひょっとして、屋敷の悪魔に、会いに行くんですかい?」
額を押さえながら、ふらつくように浮いていた。呻くような声には苦悶の響きが感じられた。
「そうだけど、どうした?」
屋敷に支配されて、止めるために襲いに来た、という様子には見えなかった。インプは腹の中のむかつきを吐き出すように言った。
「俺っちはインプの中でもちっとテレパス感度が高いもんで、屋敷の声が聞こえるんす。助けてくれって声がするんすよ。屋敷の悪魔が俺っちたちを支配しようとしてる訳じゃねえんすよ。屋敷の悪魔も、ノセルの悪意に支配されて力を暴走させてるみてえで。問題は、ノセルの悪意だって言ってるっすよ。ノセルの悪意を、屋敷から出してほしいみてえっす。俺っちも頭がガンガンしてきついっすよ。旦那なら、何とかしてくれやすよね。頼んます」
「なるほど、そういうことか。ありがとう。任せてくれ」
そういうことか。だとしたら問題はシンプルだ。ただ、問題はノセルの悪意を屋敷から持ち出した後、どう処分するかということだ。ひとまずそれは後で考えるとして、できることから解決するしかない。
「皆の様子はどう?」
僕が聞くと、
「他人を気にする余裕がねえもんで」
お世辞にも上品とは言えない笑い声を上げながら、インプは答えた。まあ、彼等に、苦しい時に助け合うという精神を期待する方が可哀想かもしれない。
「そうかもね。見かけた者達だけでいいから、できるだけおとなしくしているように伝えておいてくれ。苦し紛れに暴れまわると逆効果だ」
「へい。分かりやした。旦那がそう言うんなら、そうなんでしょうや。何、こそこそ生きてりゃいいんなら、俺っちたち得意っすよ」
インプがまた笑う。
そうだろう。弱者とはそういうものだ。
「ははは、僕と同じだ。コソコソしていいなら君たちには負けないぞ。もっとも、今は僕がコソコソしたら君たちが困りそうだ」
僕も冗談めかして答えた。
インプは大きく頷き、
「そいつは勘弁くだせえ。へへ、俺っちにも手伝えることがあったらよかったんすが。おっと、柄でもねえや。旦那といると、俺っちたちでも旦那みてえになれそうな気がしてきていけねえ。旦那がただのコボルドの育ちじゃねえのは見りゃわかるのにな。俺っちはただの日陰モンだ。旦那にゃなれねえ」
そう言って去って行った。馬鹿なことを考えちゃいけねえ、と、つぶやきながら。僕はその背中を見送りながら、そんなことはないけれどね、と心の中だけで答えた。その言葉に対して、自分が責任を負える気がしなかった。
インプが見えなくなると、キースは僕とスターティアを案内しながら歩き出した。スターティアは僕の横に並んで、つぶやくような小声で言った。
「悪酔いしそうなほどの酩酊感です」
「ん?」
意味が分からず、思わず聞き返す。スターティアの調子が悪いのかと思い、僕は彼女の顔に思わず視線を向けた。
「善意とは、かくも甘美な誘惑を伴う罠なのですね」
スターティアが微笑む。ようやく彼女が言いたいことを僕も理解した。そういえば、僕が彼女のガーネットを持つことで、彼女にも友愛の心を知ることができると言われていたことを思い出した。
「そうだよ。自分にはできること、できないことが必ずあって、自分が背負いきれない優しさはただの独りよがりの無責任だ。すべてを綺麗に語れれば、間違いなくそれが理想だけれど、現実を受け入れることも、忘れてはいけない大事なことなんだ。理想に近づく努力を続けながら、今の精一杯で届く範囲に全力を尽くす。それが責任ある善意というものなんだと、僕は思う」
僕はそう言って笑ってみせた。
僕の言葉に、スターティアも頷いた。
「分かります。わたくしも、わたくし自身多くの善意を素直に信じられない理由に、今、とても合点がいきました。まさにそういうことなのですね。綺麗な言葉をいただいても、とても無責任に聞こえたのだと感じられます。けれどまたそのような言葉を発したくなる感覚も理解できました。善意とはとても甘く、そして、危険な美酒のようなもの。正しく扱えば、日々を豊かにしてくれる素晴らしいものなのでしょう。しかし、ひとたび飲まれ、溺れてしまえば様々なものを滅ぼす凶器にも変貌しかねない恐ろしさを感じます」
「どうだろう。僕はそこまで恐ろしいと感じたことはないな。ただ、無責任な善意が不幸な結果しか生まないだろうということだけは、僕もそう思うよ」
僕はスターティアが感じているものに覚えがあった。それはずっと以前に僕も感じたことがある戸惑いだ。初めて触れた価値観への疑いと、自分がその価値観の中で生きられる気がしない感覚。
「でもそれは君がそういう価値観で生きてみたいかそうじゃないかだけの問題で、君が別にいいというならそんな心配はしなくて大丈夫だよ。君は君なりに生きたい生き方をすればいいんだ。どんな生き方をしたところで、生じる責任がなくなる訳でもない。誰だって、どんな生き方をしたって、つけを払う時は必ず来るんだ。そこに善悪は関係ないよ」
「とても暖かいのに、どこかドライなのですね。でも、だからだと思うのですが、なんとなく、すっと腑に落ちます。レイダーク様の語る善意であれば、不思議とわたくしにも納得できる気がして……申し訳ありません。どう表現して良いのか、わたくしは、適切な言葉を存じておりません」
それでもスターティアは、感覚では分かってくれているのだと思う。僕はそれで十分だった。だから僕はもう一度、僕が決めたラストネームを口にした。
「だからこそ僕はレイダークなんだ。光と闇は一綴りで、善と悪は鏡合わせで、同じ世界に生きる兄妹で、姉妹で、両方揃って世界なんだよ。僕はそう教わった。だから、誰かを虐げ脅かす悪なら、僕はそれを邪悪として憎むけれど、ただ悪だからといってそれを蔑むことはしたくないんだ。例えば」
と、スターティアを見て。
「君は屋敷に支配されていたと君は言った。だとすれば君は悪なのだろう。でも僕は君が誰かを傷つけたかなんてことは何も知らない。だから君が、君の言葉通りに悪だとしても、僕は君の人格を否定したくはない」
「その考え方にも共感できます。わたくしは良い主を持ったのだと思えます」
嬉しそうに笑うスターティアに。
僕はただ首を振った。
「待って、その判断はまだ早いよ。言葉なんてものは無責任なものだ。僕が正しく自分の言葉を発するに値する生き方ができているかは、まだ僕にも君にも分かっていないはずだ。そんなに簡単に言葉だけで納得しないでほしい」
「そうかもしれません。失礼いたしました」
我に返ったように、スターティアが両手で顔を覆った。
「初めて触れた他者を思いやる気持ちというものに、わたくしは冷静さを欠いていたようです。これがわたくしにも向けていただけているのだという事実が、わたくしには少々刺激が強い実感だったのです」
「ああ、なるほど。僕も覚えがあるよ。僕もそうだった。僕は人間に拾われて、一年間ほど一緒に暮らしたんだけれど、そのひとに、相手に向き合うということを教わったんだ。だから僕はそのひとを父さんと呼んでいるのだけれど、あの時は、僕の世界が広がったみたいな衝撃があったなあ」
父さんが僕に対して示してくれたものは、おそらく僕の価値観の根底にあって、今でもそれが僕の原動力なのだと思う。もし僕からスターティアにそれが伝わっていったとしたら、父さんは喜んでくれるだろうか。
「でも鵜呑みにしてはいけないんだと思う。自分なりに解釈して、自分がどう思うのかを考えて、自分の価値観にあわないのであれば、疑ってかかる意志も必要なんだと思う」
僕はそう言って笑った。
「そうでなければ、その価値観に共感したとして、本当の意味で自分の価値観として受け入れることはできないんだと思う」
「そうですね。わたくしもそう思います」
スターティアが、頷いた。
キースは僕達の会話を、楽しそうに笑いながら聞いていた。