第一章 脅威(6)
グレイオスを下した僕は、彼の遺体を埋める道具を持っていなかったから、塔のほとりの池に亡骸を沈めて弔うことにした。そして、それが済んだあと、メレールの屋敷にまっすぐ帰る気にもなれず、大回りの経路で戻ることにした。
メレールの屋敷も、グレイオスの隠れ家も低地にあって、まっすぐ屋敷に戻る経路はほとんど高低差のない道程だった。けれど、一旦南に向かう経路で戻れば、丘陵地帯を抜けることになり、かなり余分に時間がかかることになるのだ。
ブラックブラッドには、整備された道などというものはない。焼け爛れたような赤茶けた土を踏みしめて歩く。空はすでに白み始めていた。
一体何のために、グレイオスは死んだのか。何もかもが謎のまま残された虚しさだけが僕の胸中を満たしていた。
上り坂を歩く僕の鼻孔を、ふと、森林から吹く爽やかな風が擽った。ブラックブラッドに清純な森林でもあるというのだろうか。僕は出口のない不毛な思案を止め、辺りを見回した。確かに、森の木々の匂いが漂ってくる。
僕は匂いの元を探して歩いた。饐えた匂いのする大気の匂いに紛れて、その香りを探すのはとても難儀した。それでも足元の土はやがて生気に満ちた茶色に変わってきて、だんだんと苔や腐葉土の匂いも強く感じられるようになってくる。僕は進む方向が間違っていない確信を得て、歩く速度を速めた。
前方に、森が見えはじめる。足元には草が茂り、僕の足が触れると、瑞々しい露が地面に落ちた。
森に足を踏み入れる。木々は見慣れた幹色の枝を広げていて、木の葉は青々と茂っている。異質で異次元的な森でない森だというのに、ブラックブラッドのような荒廃した世界にあると妙に異質に感じられる。
空気は清々しく、少しだけ湿った空気が心地いい。どこかから水が流れている匂いも嗅ぎ取れた。
木々の下の藪を縫って進む。森の奥の方から、少しだけ煙たい香りが漂ってきた。ほぼ間違いなく、誰かが調理をしている匂いだ。僕はその匂いのする方向へ、森を進んだ。
匂いの元は一軒の木組みの小屋だった。小屋の前には見慣れない生き物が座り込んでいて、火にかけた鍋をかき回していた。
その生き物は僕の三倍はありそうな巨躯をしていて、デブリスによく似た特徴をしている。くすんだ灰色の鱗のようなものに包まれた体には、ところどころ紫色の結晶の棘が生えていて、頭の両側、ちょうどこめかみあたりにも結晶の角が生えていた。頭には鱗がなく、薄い水色の長い頭髪が生えている。何者かは分からないけれど、酷く穏やかな気配を纏っていて、危険はないように感じた。
隠れて眺めているのも失礼だろう。僕はその生物に見えるところまで進み出た。
「おはようございます」
「おや、おはようございます。お客さんとは珍しいな。僕の家に何か用かい?」
その生物は、纏った雰囲気どおりの落ち着いた声で答えて、こちらを見た。薄い水色の瞳が印象的な顔は、爬虫類というより、人間に近い顔をしていた。
「ブラックブラッドらしくない森を見かけて、気になったもので入り込んでしまった。君の縄張りだったのならごめん」
僕が謝ると、デブリスらしき生き物は、静かに笑った。
「いや、僕が勝手に住んでいるだけだから、遠慮はいらないよ。僕はキース。はじめまして」
彼がそう名乗ったので、僕も名乗り返す。
「はじめまして。僕はラルフ。ラルフ・P・H・レイダークだ」
「ようこそ、ラルフ」
キースと名乗った生物は、僕に歓迎の意志を示してから、鍋の中の、茶色く濁ったスープを、小振りながら深い木製の椀によそい、ひと口だけ飲んだ。
「うん、いい具合だ。良かったら君も飲んで行くかい? これから朝食なんだが、少し作りすぎてしまってね」
僕は鍋の中のスープをまじまじと見つめて、中身が書籍で見たことがあるものであることに気が付いた。レウダール王国にはない料理だから、僕は飲んだことはないけれど、遠い国ではよく飲まれているスープと同じものだと思う。
「初めて見たな。おいしそうだ。一杯いただくよ」
僕が頷くと、キースはまず、手ごろな大きさの丸太を持ってきてくれた。僕はそれを椅子にして腰掛け、キースがよそってくれたスープ椀を受け取った。椀と同じく木製のスプーンも、キースが貸してくれた。
一口飲む。塩気と豆の味がするスープだ。キャベツ、ニンジンなどの野菜が入っているから、単純な飲み物ではなく満足感がある。
「ぶしつけな質問ですまない。君はひょっとして、次元宇宙の外から来たひとかな?」
スープを食べながら、僕は聞いた。
キースは驚いた顔をして、
「おや、晶魔を知っているのだね。そう。僕は君たちがデブリスと呼ぶ、晶魔そのものだ。でもビースタルやジェムスネークたちのような知能が低い晶魔とは違うから、君たちと敵対する意思はないよ」
と、笑った。
平和的なデブリスがいることに驚きつつ、僕は彼が手を貸してくれればひょっとすれば、と、願った。
「君は狭間の世界と行き来できたりする?」
だから、率直に聞いた。
「え? ああ、もちろん。でも楽しい場所ではないよ、ラルフ。君がどんな話を聞いたのか知らないけれどね」
彼も椀にスープをよそって食べながら答えてくれた。その答えは、僕にとって何よりありがたい言葉に聞こえた。
「狭間の世界で、僕は、あるひととはぐれてしまったんだ。でも、僕には助けに行く方法がない。もし可能なら、力を貸してもらえないだろうか」
僕は、断られるならそれで仕方ないと思いながら頼んだ。無理を通すことはできない。けれど、彼は僕の目をじっと見て、静かに言った。
「なるほど。それはいけないな。はぐれた時の狭間の世界の状況は覚えている?」
「忘れたくても忘れられないよ」
僕は頷いた。そして、その時の状況を説明した。
「レインカースと呼ばれる次元にある大きな宮殿の複製が建っていて、その中で僕たちははぐれてしまった。宮殿は崩れかけていて、外では僕ではない僕と、大きな炎のように赤い巨人が戦っていた」
僕の言葉に、ピクリとキースの顔が強張った。
「その巨人は、炎を操って戦ってはいなかったかい?」
深刻そうな顔をしている。僕は確かにそうだったと思い出した。
「その通りだけど、問題なのかい?」
「そうだ。それはたぶん、炎の魔神とも呼ばれているダーゴスだ。だとしたら、無暗にもう一度戦いの場に飛び込むのは危険かもしれない」
キースは困ったように考え込んだ。それほどまでの存在ということだろうか。
「ダーゴスとはいったい何者なんだ?」
僕でない僕が戦っていた、あの炎の巨人が魔神だとは、正直信じられなかった。あの時の彼は単独で巨人を追いつめていたのだから。
僕がそのことをキースに告げると、彼は一層驚いた顔をした。それから、複雑そうに笑った。
「それであれば、君は大丈夫だろうね。ただ、問題は僕が無事ではないってことかな。ダーゴスがどこから来たのかは諸説あって、正確なことは分かっていない。この次元宇宙に最も近い外世界を荒らしている魔神で、そこには同格の魔神が五人存在していると言われている。炎の魔神ダーゴス、氷の魔神ヒュース、嵐の魔神フェウス、閃光の魔神バディス、暗黒の魔神デネースだ。外世界ではこの五魔神のせいで滅んだ神域がいくつもあると言われている。神域というのは、この次元宇宙のように神々の理によって守られている核宇宙のことだ。もし君が見た巨人が本当にダーゴスだとするのならば、おそらくそれはこの次元宇宙規模の危機を意味しているよ。それを確かめる必要があるな。君とはぐれてしまった人を助けるためだけでなく、僕にも狭間の世界を確かめる理由ができた。すぐに狭間の世界に立ち入ることはできないけれど、必ず君を助けて、僕も狭間の世界に行こう」
キースはそれから一度口を閉ざし、椀の中身を掻き込むと、あまり噛まずに飲み込んだ。
「でも、少し時間がほしい。僕は晶魔だ。魔神のそばに行ったらおそらくは正気を保てない。魔神の精神波動から僕自身の精神を守る手段を見つける必要がある。今のところ僕にはその手段に心当たりはないけれど、君が手伝ってくれれば見つかるかもしれない。手伝ってもらえるだろうか?」
「勿論だ」
僕は頷いた。そして、僕もスープを掻き込むように飲み干すと、椀とスプーンをキースに返した。
「もし君が言うことが正しいのであれば、いずれ次元宇宙に五魔神が攻めてくるということかもしれない。いや、間違いなくそうなのだろう。実は僕も、精霊たちや悠久の存在たちから、次元宇宙の危機が間もなく訪れようとしているという話を聞かされている。皆その危機の正体までは知らないけれど、君の言う、その五魔神の襲来がそうなのだろう。でもそうなると、放っておいたら君も魔神たちの悪影響を受けてしまうということだ。それが分かっているのなら、それは避けたいことではないかな」
「そうだ。そうだな。君の言うとおりだ」
キースは、頷いた。