第一章 脅威(1)
焼け爛れた大地が続いている。
あちこちで薄汚れた黒煙がたちのぼり、澱んだ風には腐敗した芥の匂いが充満していた。ジャリジャリと乾いた音が鳴る土を踏みしめて、僕は果てしなく続く荒野の中を歩いていた。
僕の後ろには三人かのインプが続いている。驚くかもしれないけれど、彼等は敵ではない。むしろ、僕は彼等に用心棒として雇われているのだ。
空はどんよりとくすんでいて、風で舞い上げられた砂塵で赤茶けている。陰鬱な空気が淀み、べたついた血の匂いがそこかしこに充満していた。
胸やけを起こしそうなほどの澱んだ空気と、薄気味の悪い風の啼く声。風の音は虐げられた者の怨嗟の声なのか、虐げる者の嘲笑の声なのだろうか。
環境は劣悪の一言だけれど、それはむしろ当然と言ってよかった。何しろこの次元は、次元宇宙の底である奈落のすぐ近くなのだ。
ここは、ブラックブラッドと呼ばれる、飽くなき暴力の次元だ。ここには善人はいない。いるのは強者と弱者だけだ。当然、インプなどという下級なモンスターは後者に分類されるのは言うまでもない。
弱者であろうと、インプは弱いだけであらゆる悪徳主義に染まった者たちだ。正直守ってあげる義理はないのだけれど、荒野には草木などなく、鳥獣の姿もないこの次元では、生きていくための物資を自給自足で調達することが困難であり、暴力に物を言わせて弱者から強奪するか、およそ信用ならないギブアンドテイクによる取引でもしないことには、生き抜くことができないのだ。
当然、僕には強奪という選択肢はないから、多少の悪には目を瞑り、他者と取引を行うしかなかった。悪とは取引できないなどといっていたら、この次元には取引相手などいない。
僕がインプたちを守りながら、荒野を歩き回っているのは、戦闘のあとに残された瓦礫や死体を漁り、わずかな物資を手に入れなければ、弱者である彼等もまた生きていけないからだ。
実のところ、僕が用心棒をしている分、まれに強奪のために襲って来るゴロツキたちを返り討ちにした時の方が実入りは大きいようだった。負けた方は文字通り身ぐるみ剝がされるものの、この次元の流儀では、負けた方が悪いのだ。
高価そうな武装をしたコボルドである僕は、そこそこ強い程度のモンスターや悪魔たちから見ると、魅力的な獲物に見えるらしく、返り討ちにする相手には事欠かなかった。インプたちからは、どうも用心棒というより、生きたトラップ扱いされている気がしている。
「旦那のおかげで助かってやすよ、ほんと。コボルドに自分の上半身と下半身が一刀両断されたと気づいた時の時のラミアの顔は最高でやした」
インプたちも、僕を雇ってから実入りが良くなり喜んでいる。決して善良ではないけれど、根っからのろくでなしという訳でもなく、彼等との関係は比較的良好だった。
ただ、若干太鼓持ち気味ではある。僕の機嫌を損ねたら自分たちが両断されると思っている様子で、食事や金品(なぜか人類が住む世界の金貨や白金貨などが大量に存在している。にもかかわらず、当然のように、経済なんてシステムはこの次元には存在しない。要は財宝を沢山所有しているほど、強くて偉いという証のようなものなのだ)は、一番いい物をいつも差し出してきている。
もともとの入手方法は何となく推して知るべしといった感じなので、後ろめたい気持ちがないわけではないけれど、神殿からの給金が受け取れない現状、僕は聖騎士という名の無職に近いので、金品も有難くもらっておくことにしていた。
現在の所、最大の収獲は、無限バッグと呼ばれる、大きさ、重量無視で何でも収納できる魔法の袋が手に入ったことだった。テントなども入ってしまうので、背負い袋に入らないものを、個別に背負ったり、背負い袋に吊るしたりしなくてよくなったのは、とてもありがたい。いずれ人類がいる次元で、街に入れることがあったら、もう少し野営用品を充実させるのも悪くないかもしれない。
「あまりやりすぎると、僕が留守の間に、君たちのねぐらが狙われかねないから、それだけは気を付けないといけないな」
僕が声を掛けると、インプたちは激しく頷いた。
「ただでさえ、旦那は目立ちやすからねえ」
それでも、今日もこうして出てきているのは、まだまだインプたちのコロニー全体に物資や食糧をいきわたらせるのには、不足気味だからだった。
グレイオスが残したゲートを抜け、僕がこのブラックブラッドにやってきてから、すでに一ヶ月ほどが過ぎている。インプたちがレッサーデビルに痛めつけられていたところを助けたのをきっかけに、僕はずっとインプたちのコロニーに寄宿していた。
もともと彼等のねぐらにはインプしかおらず、リーダーになれるような者もいない烏合の衆だった。それだけに秩序などなく、僕が入り込んでも気にする者はいなかった。僕の寝込みを襲ってきた者や、僕の所持品を掠め取ろうとした者は何人かいたけれど、そういう者たちには漏れなくすこぶる痛い目を見てもらったから、僕を狙うものはいなくなった。
インプたちがねぐらにしているのは古い人工的な地下迷宮だ。すでに奥の方が崩れてしまっていて、表層階のごく狭い範囲だけが残ったという塩梅なので、他のモンスターや悪魔たちは見向きもしなかった場所らしい。
「ところで旦那、メレール婆への返事は決まったんで?」
同行しているインプの一匹が、思い出したように言う。
「どうしようか。正直言うと、あのひと、押しが強いから苦手なんだよな」
僕は苦笑して答えた。
メレールというのは、この近郊では一番有力な悪魔だ。種族はサキュバス。この辺にはたぶらかす人間もいないから、緩み切ってでっぷりと太った老体をいつも晒していて、見るに堪えないというのが率直な感想だ。いつもどぎつい匂いの香水をつけていて、すこぶる臭いのも閉口させられる。
彼女は悪趣味な娼館風の屋敷に住んでいる。僕は彼女にインプたちともども彼女の屋敷に移らないかと持ち掛けられていた。
理由ははっきりしていて、実際の所、ある意味、利害は一致している。彼女が屋敷に隠し持っている最大の秘宝が、グレイオスたちに狙われているのだ。
けれど、実際の所、それが僕にとって一番の悩みの種で、僕は態度をずっと決めかねていた。
グレイオスとシュリーヴェがこの次元にいるのは確かで、実際、僕も居場所は知っている。彼等が今回計画しているのは、メレールが隠し持っている秘宝の破壊だということも知っている。
ではなぜ僕が彼等を止めに行かないかと言うと、その秘宝に問題があるからだ。
秘宝はノセルの悪意と呼ばれる呪物だった。ノセルというのは暴虐と殺戮の悪神の名だ。そして、どのように使用するかは知られていないけれど、ノセルの悪意と呼ばれる呪物は、その主と認められなければ死が、主と認められれば神殺しの力が与えられる、と伝えられている。
その力が悪神に向いている限りは好きにしてくれればいいと思うけれど、おそらくは善神に向くことの方が多いだろうと考えると、その秘宝の存在そのものが世界の脅威と言えた。つまり、世界の敵であるはずのグレイオスが、世界の脅威であるはずの秘宝を破壊しようとしている訳なのだ。
メレールに協力するのか。
グレイオスに協力するのか。
それともどちらに加担せず、静観するのか。
非常に面倒くさい状況に僕は置かれていた。
「本音では関わりたくないけれど、そういう訳にもいかないんだろうな」
「あっしらとしては、メレール婆さんの機嫌を損ねねえかが心配でやすがね」
インプたちにそんな風に言われて。
僕も腹の底から唸らずにはいられなかった。
「それなんだよなあ。婆さんに目を付けられたら、君たちが危険なんだよな」
「おお、考えるのも嫌だ。生きた心地がしねえよう」
当然だろう。インプたちが言うことはもっともだ。僕が知る限り、彼等は虐げられてこそすれ、目立った非道は行っていない。サレスタス盆地で僕が蹴散らした連中とは違うのだ。勿論善人ではないから、自分たちの身から出た錆で危険に陥る分まで助けるつもりはないけれど、僕の決断で危険に晒すのはさすがに気が引けた。
「君たちの立場を考えると、メレールの誘いを受けるしかないかもなあ」
僕は、本当に面倒なことになったと、大きなため息を漏らした。