第十六章 それでも君が心配だから(8)
僕の指示を聞いたイマの顔には、やはり人形の姿のときのシエルと同じで、細く黒い線で縁取られた白い眼しかないけれど、その顔はひどく満足げに見えた。
「主殿の御命令である。マリオネッツ、攻撃開始!」
マリオネッツたちは号令を合図に、空中に大輪を咲かせるように散開していった。縦横無尽に飛び回る彼女たちは、剣から光弾や光線を撃ち、次々にスプライトを撃ち落としていく。スプライトの闇の弾は、マリオネッツの盾に当たるとすべて消滅した。
マリオネッツたちのおかげで自由に動けるようになった僕たちは、シュリーヴェめがけて走った。彼女を止められれば、スプライトたちも戦闘をやめるはずだ。
「何よこれ、こんな話聞いてない」
混乱した目でしばらく周囲を呆然と見回していたシュリーヴェも、僕たちに気づくと襲い掛かって来た。その向こうでは、三匹の蜘蛛がグレイオスを取り囲んでいるのが見える。形成は完全に逆転したようだった。
「神様が味方にいるなんてずるいじゃない。こんなの勝ち目ない。なんであなたばっかり」
殴りかかってくる彼女の目には、迷いがあった。どうしていいのか分からなくなってきた、そう言っているように彼女は震えていて、僕は彼女に剣を向けるのをやめた。
「そんな顔をするくらいなら、スプライトたちを止めるんだ。もとはといえばスプライトたちも被害者だ。無駄に戦わせるんじゃない」
「う」
シュリーヴェは短く声を上げて。
「……分かったわよ」
降参したように言った。彼女はしゃがみ込み、大きなため息をついた。彼女の戦意が失われると、スプライトたちも天井の穴から我先に逃げ出していく。
「マリオネッツ、戻れ。スプライトたちは追わなくていい」
僕が指示を出すと、マリオネッツはすぐに集まってきて、僕の背後に整列した。
「短い反抗だったわ。殺すなら一思いにさっさと殺して」
シュリーヴェの声に、今度は僕がため息をつく。いくら何でも諦めるのが早すぎる。ミミリのころから少し思い込みが激しいのは分かっていたけれど、流石に腹が立った。
「簡単に命を粗末にするものじゃない」
僕は剣の柄尻でシュリーヴェの頭を軽く小突いた。
「これだけのひとを振り回しておいて、敵になりきる覚悟もできていないのは、流石にひどいよ。何がしたいんだ、君は」
「わたしは……主様と一緒にいたいだけよ」
シュリーヴェは不満そうに言って、僕を見上げた。またもや僕の口からはため息が漏れた。
「だったら、生き延びなければ駄目じゃないか。僕たちの敵として立ちふさがるなら、まずはその覚悟を決めてからだ。命を落とすよりもひどい最悪は、この世の中にはいくらでもあるんだ。今の君のまま戦っていたら、必ず死ぬよりつらい目に合うよ」
「死ぬよりつらい目って、何よ」
怯えた目で、シュリーヴェが精一杯強がって言い返してくるのを、僕は見下ろして。
剣の刃を、彼女の右足に近づけた。
「世の中にはいろいろなろくでもない奴がいる。例えば、死なない程度に痛めつけるのは好きなやつとかね。足の一本も斬り飛ばしたら君にも身に染みるだろうか。それでも最悪よりはまだ軽いものだよ」
僕は無表情を作った。敵だと考えれば斬り飛ばすのは難しくない。ただ。
シュリーヴェの怯えた目は、試練の日に、小悪魔の影に組み敷かれていたミミリそっくりだった。
「え……本気? ちょっと、やめてよ! そんな、酷いこと……本気?」
「だったら立つんだ。君はまだ精魂尽き果てた訳でも、拘束されて身動きが取れない訳でもない。しゃがみ込んでいるのは、君の気持ちが覚悟を伴っていないからだ。立たなければ、そうなるんだよ。怖いから必死で戦うんだ。そう教えただろう?」
僕は剣を収め、手を差し伸べた。
「立つんだ。立って覚悟を決めろ。ミミリでいるのか、それとも、シュリーヴェになるのか、選択するんだ。自分の心を見極めろ」
「……わたしは」
一度うつむいてから、シュリーヴェは顔を上げて、僕の手を握った。
「今はまだ自分で立てる気がしない。悔しいけど、わたしの中にはまだあなたへの甘えがある。それは認めるわ。だから今はまだどうしたいのか自分でも分からないの。でも、わたしはスプライトたちを嗾けて、あなたを殺そうとしたわ。もう後戻りできないことくらいは理解してる。だから、もうこれ以上、あなたは、わたしの心配はしないで」
立ち上がろうとする彼女を、僕はぐいと手を引いて引っ張った。短い悲鳴を上げて、シュリーヴェは僕に寄りかかってきて、僕は彼女の手を離した。そして、彼女の肩に、その手を回して抱き止めた。
「それは、できない相談だよ。僕は君が言うように蜥蜴さんではないかもしれないけれど、僕の中にはやっぱり君の蜥蜴さんはいて、いつでも君を心配している。例え敵になっても、それはずっと変わらない。だから、立場は気にしなくていい。本当にどうにもならない時、僕の力が必要な時は、僕を頼ってくれていいからね」
そして、すぐに彼女から離れた。
「さあ、グレイオスの所へ戻るんだ。そして、敵になる覚悟ができて、迷いなく僕の命を狙えるようになったら、襲ってくるといい。その時は、僕も君を敵として扱おう。立場上、応援はできないけれど、僕はいつでも君を心配しているよ」
「分かった。きちんと考えて、整理ができてから、またあなたの前に現れるわ。それまでは、とにかく、野垂れ死にだけはしないように、気を付けるわ」
シュリーヴェは立ち上がって、笑った。ミミリが笑った時と同じように。
「ありがとう。もしかしたら、わたしがミミリとして、あなたに向ける最後の笑顔かもしれないけれど。もし敵になっても、わたしはあなたのことを尊敬してるわ」
そう言うと、シュリーヴェは踵を返して走り出した。彼女が駆け寄る先にいるグレイオスは、すでに杖を持っていない。アラニスが丁度、グレイオスの杖の先に嵌っていた結晶の、粉々になった破片を吐き捨てるのが見えた。デブリスを操る杖は約束通り粉砕してくれたらしい。
「主様、これ以上は危険だわ。撤退しましょう」
シュリーヴェがグレイオスに声を掛け、彼もまたシュリーヴェが戻るのを待っていたとばかりに彼女を抱え上げた。
「こちらの手勢となった娘だ。返さぬからな」
グレイオスは僕を横目で睨んで吐き捨て、開いていたゲートに飛び込んだ。アラニスたちは追わなかった。僕も、ここでグレイオスを倒すつもりには、とうになれなくなっていたから、これでいいと思った。
「本当に君らしいな」
アルフレッドが言う。僕は彼に頷いた。
「聖騎士として正しくはないんだろうけどね。でもムーンディープでの彼等の企みは潰えたし、今はシュリーヴェになったミミリにグレイオスが必要なら、彼女のために今回は見逃すさ。彼女がああなったのは僕の責任なんだから」
それから、マリオネッツを振り返る。先頭にいるイマと目が合った。
「今見てもらった通り、僕は、善悪を、厳格に考えるつもりがない。君たち善神の使いにとっては、僕は立派な主にはならないかもしれない。それでもいいのかな?」
「主殿は幾度も選択を成されました。我らマリオネッツも、カーニム様の庇護の下、その選択をつぶさに拝見してきております。主殿は善悪という括りに拘らず、最良と御自身で信じる選択を成される方なのだと、皆認識を共にしております。ですから、我らマリオネッツ一同、主殿のために命を賭すことに一片の迷いもございません」
イマの弁に合わせて、マリオネッツが一斉に盾と剣を掲げる。彼女たちなりの敬礼様式なのだろう。それにしても。
「壮観だ。一体何人いるんだ」
空洞の中にびっしりと並んだマリオネッツに、僕は思わず感嘆の声を上げた。
「現在、ここには第一部隊六四人が集っております。他にも部隊はあり、第一部隊から第八部隊までの計五一二人が主殿の指揮下に入ります。我らは通常は神々の次元に控えておりますので、必要に応じ、必要な数を、お呼びくださいませ。念じていただければ即座に次元を越え馳せ参じます」
イマの言葉に、僕は頷いた。
「今後も頼りにさせてもらうことは多いと思う。よろしく頼むよ」
彼女たちの存在はとてもありがたい。僕は感謝の気持ちが伝わればと、彼女たちに声を掛けた。
「では、マリオネッツ。帰還して、ゆっくり休んでくれ。とても助かった。ありがとう」
その指示を合図に、マリオネッツたちは淡い光と共に、一斉に消えた。完璧に統制が取れた行動に、僕は少し涙が出そうだった。
そして、僕は。
洞窟の天井を、やっとゆっくり見上げた。
そこにはびっしりと、次元華が咲いていた。