第十六章 それでも君が心配だから(7)
シュリーヴェが服を着こみ終えるころには、デブリスは粗方退治されていた。『おばちゃん』はグレイオスとシュリーヴェを残して、蜘蛛の巣の上に上がって来た。
《はい交代。あとはあんたたちが気張りな》
テレパシーで『おばちゃん』が告げると、また細身の蜘蛛が僕とアルフレッドのそばにやって来た。彼等にしがみつき、僕とアルフレッドが下層に降りる。蜘蛛たちが引き上げると、代わりにムイムがふわふわと降りてきた。
「グレイオス、シュリーヴェ。すでに君たちの目論見は破綻したと言っていい。ただ、どうも解せない。グレイオス、お前の行動は矛盾だらけだ。いい加減お前自身の目的が聞きたい。時間を貰えるか」
僕はグレイオスとシュリーヴェに視線を向けて、聞いた。グレイオスの行動は無駄だらけで、非効率極まりない。まるで自分のたくらみが失敗することを望んでいるような、そんな杜撰さを感じた。
上層から、三匹の蜘蛛たちも降りてくる。
《なんだ。戦わないのかい。おばちゃんがっかりだ》
「すまないけれど、僕には彼の行動が悪だと断定する根拠に自信がなくなってきているんだ。間違うわけにはいかない。彼が本当に敵なのか見極める必要があると考えている」
僕は蜘蛛のテレパシーにそう答えた。
もう一度グレイオスを見ると、彼も大きなため息をついた。
「残念ながら、単純に想定外が多すぎるだけだ。どのように知ったのか驚くばかりだが、デブリスがルナの村に侵入できなくなったのには全くもって驚かされたものだ。あそこからすべての計画が狂った」
「本当にそうだろうか。陽月伺いの儀式が成功しなければ、僕たちがこの地を踏むこともなかった。つまり、お前もミミリの魂を捕えることができなかったはずで、お前がこの洞窟に入れなかったということだ」
そもそもの計画が破綻している。僕がミミリを助け、陽月司として彼女が試練を乗り越えることができなければ、何も実行できなかったはずだ。あまりにもお粗末な話だ。
「だいたい、神代の英雄とされるアラニスや、魔術の神カーニムがいるこのムーンディープの汚染を狙う時点で無理がある」
「なるほど、全くの愚か者という訳ではない訳か。その通りだ。白状しよう。私がこの森に入ったことで、ムーンディープが汚染されるという認識はなかったのだ。陽の精霊、月の精霊の具現化を阻止し、ひいては、精霊どもを深く封印することがそもそもの目的だったのだからな。本来であればその目的が果たせなかった時点でこの地を去るつもりでいたのだ。しかし、私にも想定外なことに、私がこの地に立ち入ったことで、ムーンディープが汚染できることが分かった。ムーンディープが汚染されれば、スプライトどもが狂気に冒される。私やガリアスが、この杖で狂戦士を従えていたのを覚えておろう。私にとっては狂気に冒された生物は手足のようなものだ。さらなる不測の事態により、杖を使うまでもなかった訳だが」
グレイオスは、一歩下がり、自分の背後にゲートを開いた。
「さて、わざわざ自ら時間を浪費してくれたことに礼を言っておこう。貴様はここで抹殺させていただく。シュリーヴェ、準備は良いな? やれ」
「分かったわ」
シュリーヴェがグレイオスの言葉に頷くと。
空洞の天井に空いた穴から、唐突に無数のスプライトがなだれ込んできた。シュリーヴェの魂であるミミリは聖域の管理者だ。ムーンメイズの森でもスプライトが彼女の言うことを聞いていた。つまり、聖域内のスプライトを支配し、従える権限を有しているのだ。
「ラルフを殺して。あとは無視で良いわ」
スプライトたちに指示を出し、シュリーヴェはグレイオスに頷いた。
「あいつは私が始末しとくわ。主様は身に危険が及ばないうちにゲートを抜けて」
「いや、しばらくはお前とお前の手下どもの働きを見させてもらおう」
グレイオスはすぐには退散せず、腕を組んで成り行きを見守るつもりのようだった。
「なかなか挨拶もできないな、君がアラニスでいいんだよね」
スプライトがなだれ込んできながら、闇の弾を放ってくるのを躱しながら、僕は蜘蛛に声を掛けた。
《あいよ。あたしがアラニスさ》
答えが返って来た。僕は、声に出さないように、彼女にすぐに頼んだ。
(グレイオスの杖だけでも壊したい。頼めるかな)
《あいよ。任された》
蜘蛛たちが即座に動く。彼女たちがやり遂げるか確認しておきたいのはやまやまだったけれど、その余裕はどう考えてもなかった。
ムーンメイズの森で襲ってきた時のことを考えると、スプライトの数があまりに多いことは分かっている。まとめて倒す手段がない以上、無理にスプライトたちを倒すのではなく、とにかく生き残ることを優先で考えなければならなかった。
スプライトは一定の距離を保ち、徹底的に遠距離から一歩的な攻撃を続けてきた。一部はグレイオスやシュリーヴェを守るように地上すれすれまで降りてきていたけれど、それを蹴散らすのは得策には思えなかった。
聖者の盾の結界のおかげで魔法攻撃は何とか防げる。とはいえ、スプライトたちはすでに僕たちの後方にも回り込んでいて、下手に身動きが取れなかった。ムイムやアルフレッドに僕のそばから離れないように言い、聖者の盾の結界を張り続けるだけで精一杯だった。
問題はもう一つある。ムーンメイズの森の時も、狂ったスプライトたちの気に影響されたフェリアのことだ。また同じことが繰り返される危険性があった。
「このままでは埒が明かない。何か手段はないものか」
僕がつぶやくと。
「いや、良く持ちこたえてくれた」
いきなり、空洞内に声が響いた。
「狂気よ、去れ」
それは蜘蛛の巣の上から聞こえてきて、一羽の梟が、巣の穴を抜けて舞い降りてくる。彼の言葉には力があった。スプライトたちの狂気の塊が、まるで波紋が広がっていくように消え去っていく。そして同時に、シエルによく似た人形の群れが、整然と隊列を組んで、スプライトの列を裂いて、天井の穴から突入してきた。その人形たちとシエルの一番の違いは、手にしているのがランスではないことだ。彼女たちは一様に、白く輝く方型盾と、同色の剣を持っていた。
先陣を切って跳び込んできた人形には見覚えがある。あれは、フクロウ男爵の城で、雑事全般を取り仕切っていると話していた、イマだ。蜥蜴の時にはほかの個体と区別がつかない気がしていたけれど、思い出すと、彼女だけ体のワンピーススカートのようなパーツの形状がわずかに違う。
狂気が去ったとはいえ、スプライトたちはいまだシュリーヴェの支配下にあって、闇の弾で人形たちを迎え撃った。その分、僕たちを襲う攻撃が希薄になる。その隙をついて、人形たちは闇の弾を弾き飛ばしながら僕たちをぐるりと取り囲んだ。
そして。
「マリオネッツ、整列!」
イマの号令に呼応して。
彼女たちは聖者の盾の結界のドームに背を向け、きれいな半球隊列を作った。その頂点にはイマがいる。彼女は、有事には彼女たちを率いる指揮官なのだろう。
「我らマリオネッツ、これより聖騎士レイダーク殿の兵として最後の一兵まで尽くす所存。どうか攻撃の御命令を」
イマに声を掛けられて、僕は彼女たちがカーニムの指示のもとただ助けに来たわけでないのだと理解しながらも、何が起こっているのか把握できずにいた。
「この地で彼女たちにも君の性根を見届けてもらった。いまそうやって君を守って陣形を取っているのが、彼女たちの答えだ」
梟の姿で羽ばたき、カーニムが言った。彼の羽ばたきは光を生み、まるで周囲の時間が凍り付いたように、スプライトたちや闇の弾、グレイオス、シュリーヴェが制止した。
「彼女たちは今日から君の兵だ。シエルほど高等な天盤の存在ではないが、マリオネッツだって、立派な神軍だよ。しっかりと活躍させてやってくれ。それが彼女たちの、何よりの望みだからね」
《聖騎士ラルフ・P・H・レイダーク。よくお聞き》
マリオネッツの一部が半球を崩し、その開いた隙間を抜けて、結界の上に、蜘蛛が着地する。アラニスだ。結界というものは乗れるものだったろうか。疑問には思ったけれど、それを問いただしている状況でもない。
《あんたは、そういう星回りなんだよ。カーニムも認めたってことさ。やっとおばちゃんも関節痛の体を酷使しないで済むようになるって訳さ。さあ、頑張んな》
アラニスが跳躍して去ると、マリオネッツは隊列を直した。カーニムの魔法の効果が切れたのか、周囲に動きが戻った。そういうことであれば、僕も腹を括ろう。
アルフレッドの顔を一度だけ見る。彼も、無言で笑いながら頷いた。彼の笑顔に、僕は自信を貰った気がした。
「マリオネッツ、洞窟内を荒らす狼藉者たちを、駆逐せよ!」
僕は声を張り上げて告げた。