第十五章 終わりの日々(8)
翌日、陽月伺いの儀式はつつがなく進んでいた。僕は予定通り陽の者の代理としてミミリの隣に立って、儀式に参加した。儀式にはカーニムやトリックスターの姿もあって、成り行きを見守っていた。
正直なところ、横で儀式を進行するミミリの声はぼんやりと聞こえていたけれど、僕の頭にはさっぱり入ってこなかった。僕は儀式が終わった後、どうやってミミリを振り切って旅立つか、そればかりを考えていた。おかげで僕の出番である陽の精霊に語り掛ける祝詞はしどろもどろで、ボロボロだった。
村の皆は柄にもなく僕が緊張しまくっているのだと解釈してくれて笑ってくれたけれど、僕自身はまったく笑う気にはなれなかった。
陽の精霊と月の精霊はそれでも現れた。それは光輝く金色の蝶と、淡く光る銀色の蝶の姿をしていた。彼等ははるか上空からゆっくりと舞い降りてきて、ミミリの前ではなく、僕の前で、語り掛けてきた。
「あなたを呼んだのは、我々です。務めを果たしていただき、ありがとうございました」
金色の蝶が言う。
「大きな不測の事態はあったが、我々はこうして具現化した。次元宇宙は、しばしの安定を得るだろう」
続いて、銀の蝶が。
彼等の言葉に、僕の意識はようやくのように思案の淵から戻った。村人やミミリが見守る中、彼等を見上げて、僕は疑問をぶつけた。
「不測の事態というのは?」
「我々が予想したよりも、あなたがエーテルの影響を受けてしまったことです。あなたという存在は、エーテルの中でも失われない十分な強靭さを持っていると、我々は予測していました。ですが、ムーンディープのエーテルは、あなたの記憶を閉じ込め、あなたを本来の力を発揮できない蜥蜴の姿に変えてしまいました。おそらく、我々には理解しえない心の領域で、あなたは深く傷ついていたのだと思います。とても申し訳なく思っています」
金の蝶はわずかに光を震わせた。彼等の言葉には心当たりがあった。
「だとしたら、それは君たちの責任ではないと思う。僕が、サリアやシーヌを救えなかった事実から、逃げ出してしまっただけだと思う。僕自身の責任だ」
僕は答えて、ミミリに視線を向けてから、陽の精霊と月の精霊に視線を戻した。ミミリはただ僕たちの会話を聞いていて、表情の少ない顔からは、心中を察することはできなかった。
「そうだとしても、結果的に君に無用な困難を強いたのは我々だ。君がそのような体でなく、万全な記憶と知識を有した状態であったなら、これほどまでに時間がかかることはなかっただろう。無論、君がルナの村の建物に入れないなどの別の諸問題はあったろうが、それも君に解決できないほどの問題ではなかっただろう」
銀の蝶が言うことは、正しいのかもしれない。けれど、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。
「終わったことだよ。それよりも、この地で本来僕が果たすべきだった役割は、これで果たされたと考えて良いのだろうか?」
「我々がこうして無事具現化できたことが、何よりの証拠です。ありがとうございました。あなたが陽月司とその里を本来の役目に導いたとこで、我々は精霊の祈り子の儀式をより完全な姿へと導くことができます」
金の蝶の言葉を聞いて、軽い眩暈を覚える。そして、以前感じたように、僕の意識はまた何かに溶けていった。そして。
「いくつか聞きたいことがある」
僕は蜥蜴の姿のままで言った。ここには多くのムーンシャードがいる。隣にはミミリもいる。コボルドの体では少々窮屈すぎる。
「セラフィーナとロッタの儀式は随分前に行われたはずだ。今から君たちが彼女の元に行って、間に合うものなのか?」
「それは問題ない。安心してくれていい」
銀の蝶が答えた。それならば良かった。次に、僕はルナの村について、気になっていることの質問を続ける。僕が僕でいられる時間は、未だそれほど長くない。
「陽月司の一族としての知識と技術をミミリが継承しなければいけなかったということは、ルナの村には陽月司となれる者はミミリしかいないということだろう。この状態で、もしミミリが村から去ってしまったら、今後陽月司の役割が果たせなくなるけれど、それは避けたほうが良いのか?」
「いいえ。我々が具現化したことで、ルナの村と、陽月司に課せられた役目のほとんどは果たされました。これ以上、陽月司が必要になることはありません。あとは聖域の管理などもありますが、これに関しては別に陽月司でなければならない訳ではありません。便宜上、陽月司に代々伝えられていたようですが、当代限りで陽月司の血が絶えるようであれば、ルナの村の誰かに、その知識と技術が自然に継承されるでしょう」
金の蝶の答えは僕の期待とは異なっていた。それはまずいと言ってくれればよかったのだけれど。そういうことなら、受け入れるしかないのだろう。
「最後に聞きたい」
そして、僕は最後に、一番聞かなければいけないことを聞いた。
「本来の僕を取り戻すタイミングは、実のところ僕自身で制御できているわけではないし、この先かなり不安がある。僕が安定化した後の話にはなるけれど、僕が僕を取り戻すにはどうしたらいい?」
「ルナの村から十分に離れることです。ルナの村は忘却の村。その魔力の影響が薄れれば、おのずと本来の力と記憶、知識を取り戻すでしょう。あなたの所持品などもあなたが忘れているから具現化できていないだけで、あなたが思い出せれば自然と共に具現化されるでしょう。ただ、あなたはいまだ安定した状態には至っていません。これからのち、ちょうど二月をこの地で待たれると良いでしょう。二月後の今日であれば、旅立つのに十分な安定を得られます。旅立つのであれば、その日よりのちにしてください」
金の蝶が答えてくれた。二ヶ月後。僕はその日が来たらすぐに旅立ち、フェリアたちと合流しなければいけない。彼女の不調を一日も早く取り除くために。
「ムーンメイズの森に、ムーンディープを汚染している者がいます。可能な限り早く討たねばなりません。わたしの全身全霊をかければ、命を賭ければ、ムーンメイズの森の入口は開くでしょうか」
不意に、ミミリが精霊たちに尋ねた。村人たちにざわめきが起こる。皆、何を言い出すのかという声を上げていた。
「開くでしょう。ですが、あなたが予想している通り、あなたの未熟な腕では、あなたの姿は月の光に溶け、消えてなくなると覚悟しなければなりません」
金の蝶が答えた。その声には憐憫と敬意が籠っていて、言われるまでもなくミミリにその覚悟ができていることを分かっている様子だった。
「だが、自暴自棄で自らの身を捨てるのであれば成功はすまい」
銀の蝶が言った。金の蝶とは逆に、その声には厳しさが込められていた。
「君が何のためにその身を賭してムーンメイズの森に通ずる道を開くのかを違えては、無駄に存在を散らすことになるだろう」
「わたしは蜥蜴さんの役にたつためであれば、全身全霊を投げうつ覚悟はできています」
真剣な表情で答えるミミリに、
「だが、その時に君のそばにいるのは、記憶と姿を取り戻した、本来の彼となるだろう。その時には、彼はすでに、君の知る、記憶を封じられ、この近辺以外を知らぬ蜥蜴ではない。それでも君はその覚悟を彼に捧げられるだろうか。よく考えてみるべきだ」
銀の蝶は警告を発した。おそらくそれは正しいだろう、と、僕も感じた。
「この方のために」
ミミリは考え込んだ。彼女が望む僕は、僕ではない。何も知らないただの蜥蜴だ。彼女は僕を信じてはいない。そんな僕のために命を賭けさせるのは間違っていると、僕も思う。
「できます」
ミミリは答えた。
絞り出すような声には、深い悲しみがあった。
「その時にいるのがこの方であればこそ、できます。その時にはもうわたしが一緒にいたい、蜥蜴さんはいなくなっているということです。そして蜥蜴さんがいなくなるのと一緒に、わたしには、この世界への未練はなくなります。だからこそ、わたしは心残りなく、消えることができます」
「ならば何も言うまい。聖域が封印されていることから察するに、必要なことなのは間違いない。迷いなく術に存在を捧げられるのであれば、成功するだろう」
銀の蝶が言い、
「もし少しでもためらいを感じるようであれば、性急に身を捧げることはありません。それを弱さだとは誰も責めもしないでしょう」
金の蝶もミミリにそう言葉を掛けた。
「では、祈り子のもとへ我々は向かおう」
「お二人ともに、自身の意志を、しっかりと自身に問いかけるのを忘れないでください」
そう言い残し、金の蝶と銀の蝶は光の欠片を振り撒いて虚空へ消えた。陽月伺いの儀式は成功に終わったものの、ミミリの発言の影響から、場の空気に晴れ晴れとした雰囲気はなかった。
それから、僕とミミリの暮らしは、その後二ヶ月間、驚くほどこれまでと変わらず穏やかだった。僕は精霊たちとの会話を途中までしか思い出せなかったけれど、二ヶ月後が旅立ちの日ということだけは覚えていた。
そして、二ヶ月後のその日、僕はまだミミリが寝ているうちに、ひとりルナの村を出た。
ミミリを、家に残して。