第十五章 終わりの日々(7)
僕が気付いた時、すでにトリックスターの魔術は完成していた。何があったのかよく覚えていない。僕は広場に立っていて、トリックスターの横にいるミミリとは、だいぶ距離があった。ミミリに放り出されたことまでは覚えているけれど、そのあとのことは思い出せなかった。何かミミリと話さなければいけない大事なことがあったように思うけれど、それも思い出すことができなかった。
ひとまずルナの村は安全になったため、僕たちは村のひとたちを迎えにカーニムの城に戻った。その日はもうだいぶ遅かったので、翌日になってから、僕たちは村のひとたちと一緒にルナの村に戻った。
ルナの村に戻ってすぐ、ミミリは必要な物を集めてムーンメイズの森の封印を行った。森の封印については語ることは少ない。封印自体は儀式でも何でもなく、必要な物を前に、ミミリが軽く念じただけだった。ミミリが目を閉じると、村の中から集めてきた三つの構成要素は消失し、それをもって、ミミリが森を一時的に封印した、と告げただけで終わった。
村に戻ってから最初のうちの数日は、村のひとたちは本当にデブリスから守られているのか不安そうにしていたけれど、数日してデブリスが襲ってこないことが分かると、村の暮らしはだんだん日常に戻っていった。以前と違うのは、地下に引きこもっていたトリックスターが村の周辺で気ままにキャンプするようになっていたことだった。村のひとたちは彼に村の中で一緒に暮らすことを勧めたけれど、彼はキャンプ生活の方が気楽だと言って村の中にはめったに入ってこなかった。実際の所、彼がデブリスでないモンスターの襲撃を警戒していることは明らかだった。
僕とミミリの暮らしにも急激な変化があった。ミミリが僕と一緒にいたがること自体は変わっていないのに、刹那的な話以外が僕とミミリの間では成立しなくなっていた。それでいながら、少しでも僕がミミリの家を外出すると、半狂乱になって村中を探し歩くのだ。
その理由を聞き出そうとしてもミミリは何も言ってくれない。時間が解決してくれるのを待つしかないのかと思ったけれど、月日が経ってもミミリの行動は変わらなかった。
僕はミミリが何かに不安を感じているのだと思っていたから、できるだけ彼女のそばを離れないようにしていた。彼女はそれを望んでいるようだったし、僕にできることはそのくらいしかなかった。
どうあっても僕は陽月伺いの儀式まで、村を離れることはできない。その間だけでも、ミミリが望むようにしてあげておきたかった。
何より、僕はミミリをどうしてあげていいのか、分からなくなっていた。だから、僕もミミリが嫌がる話は次第にするのをやめてしまった。
それでも喧嘩などになることもなく、僕たちの日々は仲良く暮らせてはいた。日々のことや家のことは普通に話し合えたし、ミミリが家業としている果汁の絞り汁の製作も、以前と同じように村のために続けていた。
ミミリとの生活の日々は、穏やかすぎるほど穏やかに過ぎていった。けれど、再度の陽月伺いの儀式の日が近づくにつれ、僕は自分がルナの村を去る日が近づいてきているのだという確信を持つようになっていった。
陽月伺いの儀式が終わり、陽の精霊と月の精霊がそれに応えれば、僕がこの村に留まる理由はなくなる。
でも、と思う。出て行かなければならない理由は逆にあるのだろうか。村を出る日が違づいているという確信とは裏腹に、そうしなければいけない理由が、僕は見つからなかった。だから、僕はそういった話を避けようとするミミリをなんとか捕まえて、陽月伺いの儀式が終わったあとのことを話しで置かなければいけないのだと、思うようになっていた。
その機会はなかなか得られず、ミミリは予想以上に手強かった。いつも話題からするりするりと逃げ出してしまい、結局躱されてしまう日々が続いた。そして、ようやくミミリに分かってもらえたのは、陽月伺いの儀式を翌日に控えた日だった。
明日が陽月伺いの日だというのに、僕は自分が村を出て行かなければならない明確な理由は見つかっていない。僕はだから、それをミミリに話した。
場所はミミリの家で、ミミリが寝る前に、少しだけ時間が欲しいとお願いして、なんとか話を聞いてもらえた。
「陽月伺いの儀式が終わったら、おそらくルナの村には僕は必要なくなるのだろうと思う。でも、逆にそれが済んだからと言って、旅立たなければいけない理由も、僕には見つからないんだ。しばらく、まだ君の家に厄介になっても構わないだろうか」
ミミリの家の、ベッドの上で、僕は言った。横にいるミミリはベッドに腰掛けて、僕の話を困ったように聞いていた。
「そうね。もう少しはいたほうがいいと思うわ。あと二、三ヶ月もすればあなたの存在も、ずっと元の姿でも活動できるくらい安定するでしょう。でも、そのあとは、わたしたちは行かなくちゃいけないわ。スプライトへの影響が抑えられてるうちに、ムーンメイズの森の汚染の元を断たなくちゃ。蜥蜴さん、あなたは忘れてるだけで、その目的のためにムーンディープに外から来たのよ」
ミミリの答えは意外な言葉だった。彼女は僕を抱き上げて、自分の膝に乗せると言った。
「なんて話せばいいのか分からなくて、逃げてばかりいてごめんね。トリックスターがこの村に、デブリスが活動できない場を張っていた日、あなたは自分がどうしていたか覚えていないというあの日、本当のあなたにわたしも会った。あなたはわたしが思ってたより、ずっと理性的で、優しいひとだった。ねえ蜥蜴さん。もしわたしが、本当のあなたなんか忘れて、蜥蜴さんとして、ずっとルナの村にいてほしいって言ったら、あなたはどうするのかしら」
「状況が許してくれるのなら、僕はそうするよ。でも、きっと、いつか村を出なければいけない状況になるんだと思う。例えば、君が施した森の封印が解けてしまうとか。誰かがそれに立ち向かわなくてはいけなくなった時、僕はきっと自分が立ち向かうことにするだろう。正直、封印について、どういう経緯でそうしたのか、よく思い出せないけれど」
僕はミミリが施した封印のことは詳しく知らない。彼女が封印を施すことにした理由はなんとなく分かる。狂ったスプライトがルナの森を襲うことを防ぐためだ。ただ、ムーンメイズの封印で防げるという話を、ミミリが誰から聞いたのか、詳細を覚えていない。その場にいたような気がするけれど、内容が思い出せなかった。
ミミリは僕をベッドに降ろして、笑った。
「そう。あなたはあの時の記憶があいまいなのね。封印は一時的なものよ。だから、わたしたちは、あなたの存在が安定するのを待って、ムーンメイズの森に向けて旅立たなきゃいけないわ」
「わたしたち? 君も来るってこと?」
僕は驚いて聞いた。ミミリがそんな旅に耐えられるのだろうか。ミミリはやんわりと僕の鼻先を突いて言った。
「わたし抜きでどうやってムーンメイズの森に入るつもり? ムーンメイズの森の入口をこじ開けるのでもなければ、あと二年以上待たないと森の入口は開かないのよ? だいいち、あなたにムーンメイズの森が見つけられる? 前にも言った通り、ムーンメイズの森は普通の場所じゃない。視覚的には森が広がっているようには見えないし、入口も目では見えないのよ。あなただけではムーンメイズの森には辿り着けないわ」
確かにその通りだ。けれど、何だろう、嫌な胸騒ぎがした。僕はその正体を確かめたくて、ミミリに尋ねた。
「入口をこじ開けるのは、大変なことではないの?」
「勿論大変なことよ。わたしは一族の秘術と知識を受け継いだけど、ちゃんとした修業を積んだわけじゃない。きっと……私の中の月の魔力を全部使わないと、入口は開かないと思うわ」
それはつまり。
「月の魔力は君たちの命なんじゃないの?」
「どうかしら。分からないわ。多分魂は消えないと思う。わたしたちの魂は闇で、月の光じゃないから。でも、わたし自身の体は月の光で出来ている。きっと、それは容を失って、月の光に戻るんじゃないかしら」
さらっと話すミミリに、僕は一瞬言葉を失った。それはミミリがミミリでなくなってしまうということではないのだろうか。
「それでは君が消えてしまう」
僕はミミリが何故平然とそんなことが言えるのかが分からなかった。僕にはもうミミリの考えていることが全く理解できなくなっていた。
「いいのよ。あのひとと話して分かった。あのひとはあなたじゃないわ、蜥蜴さん。あなたがあのひとに還ったら、わたしはきっと永遠にわたしの蜥蜴さんを失うの。そんな世界で生きていても、意味はないから、わたしはせめて最後まであなたの役にたちたい。わたしの蜥蜴さんがあのひとに溶けてしまうのと同じように、わたしも月の光に溶けるわ。わたしたちは、それでおしまい」
ミミリは、そう言ってベッドに身を横たえた。
僕は、かける言葉を、失っていた。