第十五章 終わりの日々(6)
あの会話のあと、僕とミミリの間には埋められない溝ができてしまったように感じる。ミミリは病的なほどに僕のそばに張り付いていて、何処へ行くのも僕を一緒に伴いたがった。
ムーンホロウの螺旋孔から戻ったカーニムを出迎えるのにも、ベルノーツをルナの村にいるトリックスターに届けるのにも、僕をすぐ傍に同行させた。
カーニムが持ち帰ったベルノーツというのは、その名の通り半ば透き通った鐘のような形状をした結晶で、白っぽい色をしていた。じっくり見て見たかったのだけれど、何故かミミリがその暇をくれず、結局僕がゆっくり見ることはできないままにトリックスターの手に渡ってしまった。
カーニムはそんなミミリの異変に気付いていたようだけれど、それは自分が立ち入る問題ではないといいたげな態度で、特にあれこれと言ったりはしなかった。トリックスターに至ってはまるで関心のない態度だった。とはいえ、問題はすぐに表面化した。
トリックスターがベルノーツを使ってデブリスを排斥する場でルナの村を包もうとすれば、当然ながらグレイオスの邪魔が入るだろうことは分かっていた。
場を張るために動けないトリックスターを除き、僕とカーニムで大量に出現したデブリスに対処しようとしたのだけれど、僕はミミリに抱き上げられてしまい、戦闘に加わることを許してもらえなかった。
「ミミリ。戦わなければ君も危ないんだ。離して」
僕がミミリにお願いしても。
「蜥蜴に荒事を任せる方がどうかしてたのよ」
ミミリはそう言うばかりで僕を離してくれなかった。幸いなことに、カーニムは僕が思っていたよりもずっと強く、ひとりでもデブリスへの対処は今のところ問題ないように見えるものの、ミミリは僕を抱きかかえたままトリックスターのそばで立っているだけで、僕だけでなく、ミミリ自身も戦闘に加わる気配はなかった。それでいながらトリックスターが場を展開する魔術の詠唱を見ているわけでもない。ただぼんやりと村の空を眺めていた。
「ねえ」
近くでカーニムが戦闘中だということに全く興味がないように、ミミリは言った。
「あなたにとって、わたしは、どのくらいの存在?」
「こんな時にする話じゃないよ」
僕はとにかく戦わなければ皆が危ないということだけで頭がいっぱいだった。それでもミミリはがっちりと僕を抱き留めていて、蜥蜴の力では振りほどくことができなかった。
「答えてくれなきゃ離さない」
ミミリの顔は月の光の下で、塗り固めたように真っ白だった。まるで血の通っていない作り物のようで、僕は背筋に悪寒が走るのを覚えた。
死んでも構わない目をしている。覚悟でなく、本当にその質問以外はどうでもいいのだと、彼女の表情のなさが物語っていた。
「僕は、君には感謝している。君がいなければ僕はこの世界のどこかで行き倒れていただろうと思う。だから可能な限り、君が望むことは叶えてあげたいし、君が僕と一緒にいたいと言ってくれるように、僕も君と一緒にいたいとは思っている。でもそれが愛なのかと聞かれると、僕には分からない。僕はきっともっと刹那的で、直情的な尺度でしかものを感じられない生き物なのだと思う。僕はきっとそういう風にできているんだ。誰かの明日とか、明後日だとか、そんなものは僕には分からない。僕の未来とか、将来とか、なりたい姿を目指すことはできても、感じることはできない。僕は君が思っているよりもずっと駄目な奴で、だからもし君が僕のいつかまで望んだとしても、僕にはその時の僕がどこにいて何をしているかなんて約束できないんだ。それでも僕だって精一杯今を生きているんだ。だから、これだけは間違いなく言える」
僕はまた自然に口が勝手に言葉を発するのを感じていた。僕にはこんなことは考えられない。でもその言葉には、僕自身納得できた。その通りだと感じた。
「君がもしこのまま死ぬことを厭わないと思っていたとしても、僕は今君に死んでほしくない。僕は君を守りたい」
そんな僕を、何の感想のない目で見つめて。ミミリは口を開いた。今まで聞いたこともないような、嫌悪感だけで満たされた冷たい声で。
「お前は誰だ」
「僕は僕だ。君の言う蜥蜴さんであり、蜥蜴の体の中に封じられた本当の僕でもある。君の言う蜥蜴さんは僕を思い出すことはできないけれど、僕と蜥蜴さんは全くの別人ではなく、まったくの同一人物だ。でも一つだけ違うところがある。蜥蜴さんの想いでは君を助けたいと願ったけれど、僕は君が救われなければいけないと感じることはなかった。最初から。君は救われることを願っていなかったし、僕は、自分にそんなひとを救う力がないことは分かっている。蜥蜴さんはそれを忘れてしまっていた。だから無理矢理君を助けようとしてしまった。そんなことをしても君が幸せになることはない。何故なら君のように自分から立ち上がる力が持てないひとを、無理矢理立たせてもまっすぐは立てないのだから。それは申し訳ないと思っている。僕は本当の僕として、蜥蜴さんが君にした仕打ちに対して責任がある。だから僕は君にはっきりと言おう。君は僕を憎んでくれていい。蜥蜴さんはそれだけのことをしでかしてしまった。背負いきれないものを背負い、抱えきれないものを抱えてしまった。君がこれ以上どれだけ蜥蜴さんを頼ったとしても、蜥蜴さんに君を救う力はない。これ以上蜥蜴さんに期待するのは君の心が危険だ。蜥蜴さんは、君の期待には答えられない」
「じゃあ、あなたはわたしにどうしろっていうの?」
ミミリの瞳にやっと感情が戻った。それは、彼女自身薄々気づいていたという狼狽の色だった。
「もし君が望むのであれば、蜥蜴さんに、どこまで責任が取れるのか、最後の選択を迫るのがいいと思う。蜥蜴さんはきっと君の望みには応えられない。それが確認出来たら、僕を追い出すんだ。それが君のためだ。愚かな蜥蜴さんが、君につらい思いをさせることになってしまって、すまない。絶対に応えられない望みを、君に持たせてしまったことを、僕から詫びるよ」
僕の口から出る言葉に、僕がどれほどのことをしてしまったのかを噛みしめた。僕は自分ができることとできないことの区別がついていなかった。ただ可哀想だからで動いてはいけなかったのだ。
「でもわたしには蜥蜴さんが必要なの。失ったら生きていけないわ」
ミミリの言葉に、僕の声は答えた。
「失うことはないよ。ただ君は裏切られるだけだ。君は蜥蜴さんに頼った分、気が済むまでうんと憎めばいい。君が生きていけるのなら、僕がそれを受け止めよう。蜥蜴さんの代わりに。憎悪は君を幸せにしてはくれないけれど、少なくとも君に生きる力はくれる」
その声に耳を傾けていたミミリが、突然僕を放り出した。僕は自分の体が急激に重くなるのを感じながら、自分の意識が何かに溶けていくのを感じていた。
そして。
僕は。
僕はミミリを振り返って、聖神鋼の剣を抜いた。僕から見たミミリはとても小さくて、僕の目線はルナの村の建物の平屋の屋根よりも高かった。
「短時間なら元の姿でも戦える。あまり長時間は僕の存在がまだ耐えられそうにはないけれど。ミミリ。これが僕だ。戦闘が終われば僕は蜥蜴さんに戻り、自分のことを思い出せないだろう。だから今のうちに言っておく。君にとってはつらい言葉だろうけれど」
横目で戦っているカーニムを見る。流石に魔術の神だけあって善戦はしているものの、如何せんデブリスの数も種類も多い。結晶の獣、半獣半人、蛇、見たことがない人間サイズの悪魔的な異形。出し惜しみなしのオンパレードのようだ。そろそろ彼をもってしても苦しいか。
「僕には、すでに背負っている命がある。会いたいひともいる。だから、君の一生は、僕には背負えない。ごめん」
それだけミミリに言って、僕は走り出した。
「カーニム様。遅くなりました。加勢します」
「君は……そうか、それが君か」
カーニム様が振り返らずにに言った。デブリスは村の四方八方に既に散っていて、建物を越えてやってくる相手を村の中央で相手するのが適切だと僕も判断した。
デブリスはムーンディープの生物にあったサイズになってしまうのか、僕が覚えているサイズよりずっと小さかった。まとめて薙ぎ払うのに何の問題もなかった。
カーニム様に雑でいいからまとめて吹き飛ばしてもらうように頼み、僕は漏れたものを斬って回った。その作戦はうまく嵌り、思ったよりもデブリスをトリックスターに近づかせないようにするのは難しくなかった。
「あなたは蜥蜴さんじゃない! わたしは、あなたの言葉は、信じられない!」
背後で、ミミリが叫んでいるのが聞こえた。
今はそれでいい。僕は反論はしなかった。