第十五章 終わりの日々(5)
「ムーンメイズの森を一時的に封鎖するとなると」
ミミリは考え込むように唸っている。ティーテーブルに向かって椅子に座った彼女には、陽月司としての責任と矜持を背負った雰囲気があって、もはやルナの村の駄目な少女の面影はなかった。
「ルナの村にも影響が出るから、準備がいるわね。忙しくなりそう」
「何か手伝えることはある?」
僕はミミリの顔を、ティーテーブルの上から見上げていた。今の彼女なら適切に他人を頼ることもできるだろう。
「間違いなくグレイオスの邪魔が入るでしょう。わたしの実力では不安だから、護衛をお願いできる?」
ミミリは僕を見下ろして言った。それくらいならお安い御用だ。
「そうだね、君を欠いたらすべてが無駄になる。僕は君のそばにいよう」
「ありがとう。フクロウ男爵が戻ったら、まずは、トリックスターに、村の中でデブリスが活動できない場を張ってもらわないと。それが済んだら、村の皆と一緒にルナの村に帰って、ムーンメイズの森の封印ね。封印には聖蝋花の蜜ほかに、月照木の枝、月下草の葉が必要だけど、すべてルナの村の中で持ってるひとがいるから、問題なくすぐに集まると思うわ。ひとまず、あなたが走り回る必要はないから、できるだけ私のそばで守ってくれると、嬉しいな」
ミミリの冷静さが頼もしい。彼女は基本的には自分たちで解決するつもりでいて、自分では対処しきれない荒事のみ僕に手助けを求めていた。けれど同時に彼女の目には、僕を目の届くところに置いておきたいという願望があふれていて、それは僕がルナの村に取り残された一件があったあの日からずっと消えていなかった。
「ミミリ。大丈夫だ。あれは僕の意志じゃなかった。僕はこの世界から去るその日までは君と一緒にいるよ」
だから、思わずそう口にしていた。それで彼女の心の不安が少しでも取り除けるなら、僕は繰り返し言おう。
「うん、分かってる。蜥蜴さんはそう言ってくれるって。でも、世界は蜥蜴さんにわたしの手の届かないところで命を張れというもの。あなたの言葉は信じられるけど、わたし、世界が信じられないから、だから、わたしはあなたのそばを離れないことにしたの」
彼女の言葉に、わずかな狂気を感じた。
良くない兆候かもしれない。彼女は、世界を憎み始めているのではないか、そんな不安がよぎった。
「ミミリ、世界は何も望まない。あるような姿であるだけだ。もし何かが僕を君から引き離そうとすることがあったとしたら、それは世界のせいじゃない。何者かの意志だ。だから、君の世界を否定することだけはしないでほしい」
「同じことだわ。わたしが信じてるのは、あなたの言葉だけ。そのほかの全部は、わたし自身含めてわたしにとっては世界だもの。あなたの言葉以外は、わたしは何一つ信じられない。あなたを信じると決めた日から、まだわたしが駄目なミミリだった時から、たった一つそれだけは今でも変わってないよ」
ミミリが抱えていた孤独は、そんなにも深かったというのだろうか。僕は村に溶け込んでいったミミリに安心していたし、彼女も村の一員になれたと喜んでいたから、深く考えなくなっていたけれど、彼女の奥底にはまだ、いつかそれは壊れるものだという疑念が蟠っているのかもしれない。僕はミミリの心の歪みに初めて対面した気分になった。
「ミミリ、それはよくないことだ。僕は君に、世の中にはまだ信じられるものが沢山あることを知ってほしい。君が僕を信じてくれるのは嬉しいけれど、それだけでは駄目だ。さっきも言ったけれど、僕はいつかこの世界の月の光が届かない、君が生きていけないどこかへ行くだろう。その時に、君はまた独りぼっちの君に逆戻りしてしまうよ」
僕はミミリにそう諭した。
そんな僕にミミリが返した言葉に、僕は眩暈を感じた。その言葉というのは、
「あなたはわたしを独りぼっちにはしない」
という一言だった。それはたぶんできないと言ったばかりの僕に。何の解決にもならない一言を。
「そうじゃない。それはできないと僕は言った。君はここでしか生きられない。僕はここ以外のどこかにも行かなければならない。僕たちは、例え僕たち二人ともが一緒にいたいと思っていたとしても、いずれは同じ場所にはいられなくなるんだ。それは分かっていたはずだ」
「だからわたしはそんな世界が信じられない。あなたを私のそばから連れ去るのは世界だ。わたしをあなたについて行けないムーンシャードにしたのも世界だ。ただあなたと一緒にいたい、私の望みはたったそれだけなのに、それすら許してくれない世界なら、わたしは信じることなんてできない」
ミミリの目には、薄ら暗い憎悪が滾っている。僕はそれを見て、自分が何をしでかしたのかをやっと自覚した。
「ミミリ、よく聞いて。それが誰かのせいというのならきっと僕のせいだ。世界のせいじゃない。僕が間違ったんだ。僕は君に対してずっと責任を負うことはできないのに、僕は君との適切な距離を保つことができなかった。だから、もし君を置き去りに僕がいなくなった時には、世界ではなく、僕を恨んでほしい」
「それはきっとできないわ」
ミミリは笑った。屈託なく、僕を信じている顔で。
「わたしの蜥蜴さんは、自分から望んでわたしを置き去りにはしないもの。分かってる」
「違う。君を僕が置き去りにする日が来た時、君を置いて去ると決めるのは僕だ。僕の意志で君を置き去りにする日が必ず来るんだ」
僕はただ分かってほしくて、必死で話した。けれどミミリはそんな言葉に折れはしなかった。
「蜥蜴がどこへ行くっていうの? あなたはちっぽけで、外の世界ではきっと踏みつければ潰れちゃう蜥蜴よ。あなたの本当の姿があるかどうかなんて誰にも分からない。本当にただの蜥蜴かもしれないのよ。蜥蜴が外の世界で何をするの?」
「分かるよ。ペザが教えてくれたじゃないか。僕は人型の爬虫類モンスターだって。僕は、外の世界では蜥蜴じゃないんだ」
僕はいつかペザが言っていた言葉をミミリに伝えた。僕自身確信があった訳ではないけれど、僕はペザのその言葉はたぶん本当なのだろうと思っていた。
「だから僕はずっと蜥蜴でいるつもりはないよ。その時が来たら、僕は僕を取り戻したいと思っている」
「そんなの、何の証拠もないじゃない。もし間違っていたら? 自分が何者かのつもりで意気揚々と出て行って、実際にはあなたがただの蜥蜴のままだったら取り返しがつかないじゃない」
ミミリは激しく首を振った。彼女が僕以外の言葉を信じない以上、ペザの言葉を信じていないことも当然だった。でもミミリは僕を心配しているのではなかった。僕が彼女の元を去らないほうがいい理由を探しているのだ。
「わたしはあなたが必要なの。だからそんな不確かなことであなたを失うことになったらと思うと耐えられないの。せめてわたしを安心させてから行って。でなければ一緒にいてよ」
「それは僕には保証できない。いつ、どんな風に君のそばを離れることになるのか、ひょっとしたら予測もつかない形でそれは訪れるかもしれないからだ。そもそも僕がムーンディープの裏に落ちたのだって僕には予測がつかないアクシデントみたいなものだ。出て行く時だってアクシデントみたいな形で急にいなくなるかもしれない。だから、僕に君を安心させるだけの時間があるのかは、約束できない」
気休めで約束することはできたけれど、僕はそうはしなかった。無責任な約束をすることは、僕にはできなかった。
「君が思っているほど、僕は君に責任が持てるわけじゃないんだ。勿論一緒にいる間は君をしっかり守りたいとは思う。けれど、いつかいなくなった後のことについては、僕には責任が取れないよ。前に君が言っていた、一緒にこの世界を出て行く方法を、君が望むなら別だけれど」
「それじゃ、聞くけど。それが、わたしがムーンシャードの体を捨てて、別の何かに自分の魂を移し替える、命を吹き込まれた人造生物になるって方法でも、あなたは受け止めてくれるの?」
ミミリは以前僕が喜ばないだろうと言った方法を、口にした。おそらくそんなところだろうとは見当がついていたので、僕は自分でも不思議なくらいそれを聞いても驚かなかった。
「生き物でない何かになってでも、僕といたいと言うのなら、僕は君の決断に責任を持とう」
僕は、答えた。ミミリはけれど、
「それが禁忌だってことも覚えてないくせに、適当なことを言わないで」
今まで僕に向けたことがない怒りの表情で、そう吐き捨てた。もし覚えていたとしても、僕の答えは変わらないのに。
「禁忌だとしてもだ。僕は君と一緒にいるよ」
だから、それだけ答えた。