第十五章 終わりの日々(4)
トリックスターと別れた僕たちは、カーニムの城に戻り、バムじいに村は無事で、三人目の迷い人と言われたトリックスターが守ってくれていることを説明しておいた。
「なんと」
バムじいが言うには、土竜の正体を見た限りでは、ごく普通の迷い人の青年だったそうだ。人付き合いが苦手で、引っ込み思案な青年であることが分かっていたため、地下に引きこもっても誰も気に留めなかったのだという。おそらくは魔術でそのように見せたのだろう。
実際に地下に何を隠しているのかという疑問を覚えないでもなかったけれど、傭兵の秘密基地を暴いてもろくなことにならないだろうと思ったので、僕はその疑問を口にすることもなく、味方である以上、詮索もやめておくことにした。
「あとはフクロウ男爵が無事戻るのを待つだけじゃな。村の者もいつ家に帰れるのかと不安がっておる。ワシから話しておこう。何にせよ、村に帰れるのは朗報じゃ」
バムじいに村のひとたちへの説明を任せて、僕はミミリにムーンメイズの森という場所について詳しい話を教えてもらった。
「ムーンメイズの森は、ムーンディープの表裏の世界、どちらとも繋がっていながら、どちらからも隔絶されている不思議な場所よ。ムーンディープにはこういった場所が、ムーンメイズの森と、今フクロウ男爵が行っているムーンホロウの螺旋孔という二箇所あって、それぞれ明の聖域と暗の聖域と呼ばれているわ。わたしたちムーンシャードはどちらの影響も受けないから、皆あまり関心がないけれど、わたしたちが影響を受けないのは、本来、その聖域を管理し護っていく使命を持ってるからといわれているわ」
僕たちの部屋に戻ると、ミミリはティーテーブルの椅子に座り、話し始めた。僕はティーテーブルの上にいる。
「勿論、陽月司のわたしもその双方に関するいくつかの秘術を受け継いだわ。とはいえ、困ったわ。森の入口をこじ開けるには、わたしはたぶん、能力が足りないわ。成功はするでしょうけれど、きっと力を使い果たして月の光に戻るでしょうね。現時点では、あと二年半後に訪れる、自然に森の入口が開く時を待つほかないわ」
「グレイオスはどうやって入ったんだろう」
そうなると。僕はそれが不思議に思えた。
「トリックスターが言うことが本当なら、狭間の世界経由なら自由に入ることができるのかもしれないわね。もっとも、わたしたちには、その方法はないけど」
ミミリはため息をついた。聖域に居座られているということ以上に、なにか深刻な懸念でもあるのだろうか。
「不味いわね。ムーンディープの聖域に、月でも影でもない力が入り込んだとなると、ムーンディープのほとんどの生物が影響を受けるわ。中でも、最悪なのはスプライトたちに影響があることね。汚染次第では、村が狂ったスプライトの襲撃を受けるわ。二年半でどれだけの汚染が広がるか、ちょっと想像つかないわ」
「スプライトに襲撃されるとどのくらいの危険があるの?」
僕はその深刻さが理解できなかったので、ミミリにそう問いかけた。ミミリはもう一度大きなため息をついて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「スプライトは闇そのものよ。ムーンシャードの月の光の魔力じゃ太刀打ちできないわ。良くて全滅、悪ければ玩具よ。勿論スプライトは普通ならそんなことはしないわ。彼等はムーンディープとムーンディープの生命を愛してるし、ただ静かに夜の安らぎを謳歌するひとたちだもの。でも、一度狂わされた夜は、憎悪とあらゆる欲だけで塗り固められた闇に豹変するの。狂った闇を止めるには私たちの光は弱々しすぎて、一方的に殺されるか、捕まって生き地獄ね。ただ、幸いなことにスプライトのほとんどは表のムーンディープにいて、裏のムーンディープにはあまり数が多くないわ」
ミミリが言うと。
「スプライトを甘く見ないほうがいいです」
ぼんやりと、部屋の中に一人の妖精が姿を現した。綺麗な緑色の髪をしていて、翼は黒い小鳥の翼。頭には竜のような角が生え、瞳は真っ赤に輝いていた。
「スプライトひとりいればムーンシャードは全滅します。そうならないためには、これ以上の汚染を防がなきゃいけません」
「君は」
知っている。
僕はそう感じた。名前は……名前は。
「フェリア」
失われた記憶を探るより早く、僕の口からはその名前が自然に漏れていた。まるでもう一人の僕がいて、その僕が再会に安堵するように、僕は自覚しないままに言葉を口にしていた。
「みんなは無事?」
「こっちは問題ないです。ってか、みんなは無事、じゃないですよ。問題なのは師匠の方です。毎回毎回騒動に飛び込んでくのはさすがに慣れましたけど、いきなりいなくなるのだけはやめてください。次元転移の途中で虚空に落としてきたのかと思って……思って……もう、どれだけ泣いたと思ってるんですか」
少女は僕の言葉に自然な反応だった。とても心配している素振りを見せているから、知り合いなのは間違いなさそうだ。
僕は自然に出る言葉に任せ、何となく遠い世界のことを傍目から見ているような感覚でいた。彼女はフェリアというのか。僕は知っているように話しているのに、自分のからっぽの記憶の中には彼女の姿は見つからなかった。
「それは申し訳ないとは思うけど、僕の意志とは無関係に裏の世界に引っ張られたんだよ。僕も困惑している。でも心配しないで。どこにいようと、僕にできることを僕はやるだけだ。君たちと合流できれば心強いけれど、無理にとは言わない。フェリア、体の調子はどう? 皆に任せて君は休んでいた方がいいかもしれない」
「師匠が行方不明なのに落ち着いて休んでられる訳ないじゃないですか。そう言うんなら一刻も早く合流してください。いえ、分かってます。また別の女の子に絆されて厄介ごとに首突っ込んでるんですよね。知ってます。聞きましたから」
フェリアは怒った表情で言った。誰から聞いたのだろう。そう思っていると、僕より少しだけ大きいくらいの、カーニムの城にいた者たちとよく似た姿がフェリアの横に現れた。
「先生……記憶は戻りそうですか? 私のことは分かりますか?」
「今は君たちの影響で一時的に分かる。でもこの会話が終わったらまた忘れてしまうだろう」
おそらく表面に出てきている本来の僕が答える。僕もそうだろうと思った。
「エーテルの影響は凄いね。完全にただの蜥蜴に封じられてしまったよ。シエル、フェリアのことを頼む。どうやらグレイオスがムーンメイズの森に入り込んでいるらしい。フェリアの不調の原因もそれでないかと思う」
「それは良いのですが、その。神様をお使いに出すのはどうかと……記憶がないのでしたね」
シエルに言われて、はっと気づく。そういえば。
「そうだ、魔術の神カーニムに、ベルノーツを取りに行かせてしまった。彼自身が言い出したことだとはいえ、とんでもないことだ」
なんてことだ。覚えていなかったとはいえ、なんという不遜なことをしたものだろう。
「おかげで先生のことを聞けたので、良かったのかもしれません。ムーンホロウの螺旋孔にムーンディープの者ではない誰かが入り込んだとフェリアに言われて、見に来たのです。会ってみたらカーニム様で仰天しました。頑なにフクロウ男爵だと言い張って誤魔化そうとされるし、アルフレッドは驚きのあまり目を剥いて倒れるし、ある意味大変でしたが」
シエルはそれから、僕のそばにいるミミリを見た。
「あなたがミミリさんで合っていますか?」
「ええ。そうだけど」
ミミリが頷く。シエルとミミリ、フェリアは三人で何かを共感するように、しばらく目線だけで会話していた。
「いまさら言うこともないと思いますけれど」
フェリアが口を開いた。
「師匠はとんでもなく向こう見ずです。流石に蜥蜴の姿では無茶はしないだろうと思いたいですけれど、正直に言うと、全く安心できる気がしないんですよね。しっかり見張っててください。お願いします」
「やっぱり、そうなんだ。しっかり見張っておくわ」
ミミリがもう一度頷いて。
「それと、ムーンディープの汚染については、こっちは半年間は動けないの。どうしたらいい?」
困ったようにフェリアに尋ねた。
「それならば、一時的にムーンメイズの森を封印するしかないと思います、完全に汚染は癖げなくても、時間は稼げるはずです」
フェリアの答えに、ミミリは少し考えこんだ。それから、答えた。
「それなら、できるかも。準備を整えたらやってみるわ」
「手伝えることがあれば言ってくださいね」
そう言い残して、フェリアとシエルの姿が消えた。すると、もうフェリアとシエルが誰のことか、僕には思い出せなくなった。