第十五章 終わりの日々(1)
翌日になり、いよいよ村の中が慌ただしくなってきた。僕はミミリから儀式の手順を聞き、何度か祝詞を練習した。
儀式のほとんどはミミリが執り行うけれど、僕はずっとその横に立って、一言陽の者として陽の精霊に呼び掛ける役目があった。
その役に僕が選ばれたと知って複雑そうな表情をしている村の若者たちの姿もちらほらと目にしている。確かに僕が村に住み着いたころとは別人のようにまっすぐな強い瞳をするようになったミミリは蜥蜴の僕から見ても魅力的な女性になったと思う。彼等の気持ちは分かるような気がした。
儀式の準備は滞りなく終わり、村の中央には水を湛えた杯のような盤が置かれ、その周り大量の聖蠟花の蜜の火が灯っていた。ペザが言った、大量の聖蠟花の蜜がいる、という話は方便ではなかった。
儀式の時間が近づき、村中のひとたちが集まってくる。僕はミミリと一緒に水盤の前に立ち、水盤の反対側にはフクロウ男爵の名前で呼ばれているカーニムが立っていた。
時間が来た。水盤に月の光が映っている。その隣に、もう一つ、はるかに小さく、けれどまばゆい光を放つ円があった。陽の光だ。
そして、ミミリが儀式を始めようと、口を開いた。儀式の開始を告げる口上を奉じるために。
けれど。
口上は述べられなかった。
一瞬の出来事。僕がミミリの衣装の裾を銜えて引きずり倒したからだ。
「え」
と短い声を上げ、ミミリが倒れる。
「みんな伏せろ!」
彼女には答えず、僕は叫んでいた。
力の限り跳ね上がり、尻尾を振り回す。空中に現れたいくつかの結晶を、僕は跳ね返した。
僕が引きずり倒していなければ、跳ね返し損ねた何本かが、確実にミミリの体を貫いていただろう。
村のひとたちの間に悲鳴が上がる。水晶のような体の蛇が、村のひとたちに食らいつこうとしている。
間一髪カーニムが翼を広げて、無数の閃光を飛ばして蛇を砕いた。
「これは……デブリスか」
彼はいつになく深刻そうな声でつぶやいた。
僕がいち早く出現に気づいたのと、カーニムの対応が速かったことが幸いして、今のところ村人たちに被害はない。実戦経験に乏しい自警団は、神出鬼没のこの敵に対してあてにできないのは明白だった。
「まだいる」
僕は言い、ミミリを執拗に狙って飛んで来る結晶を、蜥蜴の体全体を使って跳ね飛ばし続けた。
カーニムは次々に現れる結晶の蛇を、魔術を使って砕き続けている。カーニムは苦々しく言った。
「こいつら相手には結界は役に立たん。撃退するほかないが、あまりに数が多いな」
「一度村を放棄したほうがいいかもしれない」
僕は答えた。蜥蜴の体でミミリを守り続けるのはかなりきつい。ミミリが下手に動かず、僕に任せてくれているから何とかなっているだけだ。最悪の事態を避けるためにも、決断が必要だった。
「フクロウ男爵、あなたの城に村人たちを転送してもらえる?」
「それしかあるまい」
カーニムが答えて。
両の翼を大きく広げ、地面にたたきつけるように動かすと、闇が村のひとたちを包んだ。
「え?」
何がどうなったのか、瞬時に理解が追い付かなかった。カーニムは村のひとたちを連れて消えた。ミミリも一緒に連れて行った。
けれど、僕だけは、その場に残された。
僕には彼の魔法がすり抜けたような感覚があって、その場で大量の結晶の蛇に、ただ一人囲まれていた。
《何故抵抗した》
カーニムのテレパシーが届く。
「分からない。そのつもりはなかった」
僕は答えて、走った。結晶が空中から降り注ぎ、結晶の蛇が僕の脇腹を、四肢を食いちぎろうと襲い掛かってくる。まとめて何体も一度に襲ってくるそれを、僕は砕きながら走った。
聖蝋花の蜜を入れた器が砕け散る音がする。
何故こんなことに。何か理由があるはずだ。
僕は原因を探した。水盆がひっくり返る音がして、中の水が地面にぶちまけられた。
そこに、さらに結晶が降り注ぐ。
僕は僕ではなく水盆を狙った結晶を尻尾で跳ね飛ばして。
それから、気づく。おそらくはそういうことだ。
「僕はルナの村に引っ張られたらしい」
《何故だ》
カーニムに問われて、答えた。
「水盆がまだここにあるからだ。これが破壊されたら再度の儀式も行えない。これは失われてはいけないものだ」
《なるほど、その通りだ。すぐに取りに戻る》
「助かる」
僕は水盆を守って戦った。
蛇の数は多く、僕の体は小さい。
走り回るわけにいかなくなった僕は、何度か蛇に打たれ、齧られた。それでも水盆だけは守らなければいけない。ふらつく体に鞭打って、僕は跳ねまわって水盆に群がる蛇を打った。
限界は近い。結晶の蛇を跳ね飛ばせても、砕く力は、僕の体にはもう残っていなかった。
影が見えた。梟の形をしている。
次の瞬間、僕の視界は水盆もろとも闇に包まれた。そして、視界が開けると、僕はフクロウ男爵の、カーニムの城の広間で立っていた。
「蜥蜴さん!」
背後から女の子の悲鳴のような声が聞こえる。
その声がとても遠い。ぼんやりする頭で僕は彼女を振り返ろうとして、もんどりうって倒れた。
「あれ」
「動いちゃ駄目、動いちゃ駄目よ。死んじゃうわ」
目があった。ああ、ミミリだ。泣いている。よく泣く子だな、そんな風に感じた。何か遠い世界のことのようで、僕の視界には靄がかかっていた。
「水盆は無事?」
僕の口から出たのは、そんな言葉だった。おそらく僕はそんなことを気にしている場合ではないのだろうけれど、僕はそれしか考えていなかった。
「無事よ、ありがとう蜥蜴さん。あなたが身を挺して守ってくれたから。だから安心して。誰か、誰か蜥蜴さんに治癒の魔法を」
ミミリの声が響く。
「私が見よう」
ペザの声がして、誰かが僕のそばに寄って来た。ペザは蛙のはずだ。でもぼやけた視界の中に見えたのは、薄い金髪の、清廉な男性だった。見たことがある。どこかで。
「ペジネロ様?」
僕は思わず口走っていた。カレヴォス教団の、聖人の名だ。僕がいた国からは、東の方にある国の、教団主神殿に所属していた立派な方だ。けれどあまりに比類なき魔力を持っていたことから、教団を独善的に支配してもだれも止められない恐れがあるとされ、教皇には選出されなかった方。本人も高位に就くことには興味がなく、教団内にいらぬ混乱を生じるのなら、と、神官職を辞したと伝わっている方だ。
「そんなに大層な名前だったかな、蜥蜴君。ペザだ」
そう言われて、もう一度彼の顔を見る。蛙だ。ペザの顔が見えた。そして、自分が言った言葉をもう一度思い出そうとした。誰のことを口にしたのか、もう思い出せなかった。
ペザが蛙の前肢を僕の体に当てた。ひんやりとした感触があった。それは次第に心地よい温かさに変わり、僕の体は気が付くと淡い光に包まれていた。
「随分とひどい怪我だ。それでもきみは生き抜いたのだな。あの場所に一人残されて、無数の数のモンスターの中、戦い抜いて水盤を守ったのだな」
ペザが感慨深げに声を上げた。その横に梟の姿が並び、
「あの不測の状況の中、ただ一人、多勢に無勢にありながら、短時間で正解をつかみ取る冷静さを持ち合わせているから生き残れたのだ。結晶の出現や敵の行動予測も読み切っていたからでもある。この子でなければ間違いなく死んでいただろう」
と、僕を見下ろしていた。カーニムの言葉に、ペザは同意した。
「全くもって、よく生き残ったものだ」
それから、ペザは、ミミリに向かって声を掛けた。
「ひどい怪我に見えるが、致命傷は一つもない。丸腰の蜥蜴でこれだけの負傷で済ませるとは、驚くべき強さだ」
「本当に?」
ミミリを心配させてしまっている。
早く治さなくては。そう思いながら、僕の意識は、急速に薄れていった。